地下鉄の改札を出て、階段を上った。エアコンのきいた駅構内から外に出た途端、湿った熱気に包まれる。夜のとばりはとっくに下りたというのに、アスファルトからの放熱と人いきれで繁華街はまた格別な暑さだ。
 新宿通りを人の流れに逆らって歩きながらスマートフォンを取り出し、グループLINEに【いま駅でた】と送る。すぐに既読になり、璃子・友里香それぞれから(OK)(了解)のスタンプが返ってきた。
 横断歩道を渡って路地に入った辺りから、麻矢の足取りは少しずつ軽くなる。立ち飲み居酒屋のカウンターで笑い合うワイシャツ姿の男たちや小料理屋の軒先にぶら下がる赤ちょうちんを横目に進んでいくと、日中に上司から頂戴した嫌味混じりの忠告も明日の代理店打ち合わせの心配事も、一つ一つ消えていくようだ。
 帰宅後の憂鬱事だけは中々脳裏から離れてくれなかったが、それは無理矢理頭から追い払った。
 少し先に、「FREEDOM」と書かれた紫色の看板が見えてくる。駅周辺の喧騒から離れた場所にあるこの隠れ家的バーを見つけてきたのは、仕事柄交友関係の広い璃子だった。
 大学時代はいつもつるんでいて、所属していたサークルでは「三人組」とまとめて呼ばれていた彼女たちも卒業して就職し、最初に璃子が、続いて友里香が結婚してからは次第に会う機会が減っていった。特に友里香に子供ができてからは、たまにLINEで近況報告をし合うぐらいになっていたのだ。それがこうして三十代半ばで再び集まるようになったのは、璃子を巡る「ある出来事」がキッカケだった。
 ドアを開け階段を下りて行くと、奥のテーブル席に璃子と友里香の姿が見えた。
「ごめん、遅くなった」
 右手を軽く上げながら駆け寄る。薄暗い店内には聴き馴染みのない洋楽が静かに流れている。
「全然」
「おつかれさま」
 二人の前にはすでに三分の一ほど中身の減ったグラスが置かれていた。璃子はジンフィズ、友里香はシャンディガフ、と確めなくとも分かる。
「ママ、生ください」
 カウンターの中へ向かって声を掛けると、
「グラスね、りょうかーい」
 若い頃には小劇場の舞台に立っていたという四十がらみのママの明るい声が返ってくる。
 璃子がこの店を知ったのも近くで芝居を観た帰りに知り合いの役者に連れてきてもらったからで、今も演劇関係の客は多い。時折テレビで観たことのある(でも名前は知らない)俳優の顔をカウンターで見かけることもあった。そういう常連にも麻矢たちのようにたまに来るだけの女性グループにも同じような温度で接してくれるのがママの、そしてこの店の良いところだった。
 麻矢が注文したグラスビールはすぐにきた。グラスに触れた瞬間に感じる心地よい冷たさ。わずかについた水滴。店内の照明に浮かび上がる琥珀色の液体。なんという美しさだろうと最初の一杯を飲むたびに思う。
「おつかれさま」
 麻矢が改めて言うと、二人もグラスを上げて応えた。
「今日を生き抜いたことに」
 この店の乾杯の合言葉を揃って口にする。
「乾杯!」
 軽くグラスを合わせ、おのおの口に運んだ。
「あー、おいしい。生き返る」
 少し大げさだとは思うが、そう口にしなくてはいられない。特にこう暑い日が続いては。
 グラスを置いたところで改めて店内を見回す。
 入口近くに二人掛けのテーブル席が四つ、左手に十人ほど座れるカウンターというつくりの店で、週末は多少混みあうがそれでも早い時間であれば四人掛けの席を確保できる。コロナ禍の頃はこういう機会が全くつくれなかったため、今三人で集うことができるのが麻矢にとっては何よりもありがたかった。
 とはいっても、それぞれに仕事や私事で忙しい時期が重なり、三人揃って会うのは久しぶりだった。
「無事オープンして良かったね」
 璃子が向けてきた笑みに、麻矢も笑顔で応える。
 大手の不動産開発会社に勤めている麻矢は、このひと月ほど、担当している施設のリニューアルで目が回る忙しさだった。一昨日無事再オープンを迎えたことは、すでにLINEで報告済だ。
「璃子も校了、おつかれ」
 璃子はフリーランスで編集とライターの仕事をしている。Webが中心だが、グルメから映画・演劇、健康関連と扱うジャンルは幅広く、「加賀美璃子」と記名入りの記事を最近よく目にする。
「うん、今回はしんどかった。初校ゲラでインタビューの時に全然出なかった話をどっさり赤入れされて、一体何のための取材? って泣いたわ」
 いやいやするように首を振ると、頭の後ろで結んだ髪が背中の辺りで揺れた。三人の中で一番の長身で細面の璃子には、長い髪がよく似合う。
「いいなあ二人とも。充実してて」
 拗ねたように言う友里香を、「まあそう言わないの」と璃子がなだめる。
「友里香が一番大変なのは分かってるから」
「一番ってことはないけど」
 満更でもないように答える友里香は、手入れが楽だからとずいぶん前から髪を短くしていた。小柄な体形やカジュアルな服を好むこともあって、子持ちの彼女が三人の中で一番若く見えた。
「いや一番大変だって。結菜ちゃんじゃなくてガーベの方ね」
「ああ、まあね」
「で、どう? あれから態度変わった? ガーベ」
「全然」
 待ってましたとばかりに友里香が応える。
「相変わらずだよ。昨夜も飲んで遅くに帰ってきたのに何か食べたいっていうから、さっぱりしたものがいいかと思ってざるうどんでも出してあげようとしたら、チンしないでちゃんと茹でろとか言っちゃって。おんなじでしょって言ってもそういうところで手ぇ抜くなとかって。おまけに大根おろしつけてくれとかって。何で夜中の一時に大根すらなきゃいけないの」
「マジ? ガーベ何様?」
 ガーベとは英語のgarbageの略。生ごみ、残飯、くず──他人に聞かれても分からないようにつけた、友里香の夫に対するあだ名だ。
「わざとしっぽのからいほうすってやったわよ。案の定『からいな』とか顔しかめてたけど」

 

「夫よ、死んでくれないか」は、全6回で連日公開予定