最初から読む

 

 麻矢は笑みを浮かべかけたが、友里香は真顔のまま話を続ける。
「シャワー浴びればその辺びちゃびちゃだし。ドアの開け閉めバタンバタンうるさくて結菜は起きちゃうし。私もシャワー浴びるから結菜見ててって言っても『何で俺が帰った後にわざわざ入るんだ』とかって。結菜から目が離せないからわざわざあいつが帰ってくるの待ってたのにそれすら分かんないのよ。で、シャワーから出ると案の定、結菜ほっぽらかしでスポーツニュース観てるし。何の役にも立ちやしない」
 友里香の夫に対する愚痴、いや呪詛はとめどなく続く。ガーベこと榊哲也は、彼女たちより十一歳も上の四十五歳で、電機メーカーの課長職についている。結婚して今年で七年目だ。
「日曜はまたゴルフだってほざくし。いなくてせいせいするけど、たまには『自分が結菜みてるからどこか出かけてくれば』ぐらい言えないのかしらね。今日だってほんとにみてくれてるか心配」
 友里香は時計を横目で気にした。今日は「特別に」ガーベが早く帰宅して結菜ちゃんのことをみてくれているらしいが、シンデレラタイムはすぐにやってくる。
「あー、ほんとにどうにかならない? 毎日『この暑さで死ぬな』って言ってるけど全然死にゃあしないし」
 これにはさすがに、麻矢も璃子も口を開けて笑った。
「──麻矢のとこはどうなの」
 ひととおり吐き出して落ち着いたのか、友里香が麻矢に顔を向けてきた。
「うち? うちも相変わらずよ」
 自虐的な笑みを浮かべ、麻矢は答える。
「三人の中で一番」は自分にはない、と麻矢は自覚していた。体形も髪型もいたって普通。学生時代の成績が良かった友里香や男子に人気があった璃子に比べ、自慢できることは何もない。三人の中で、結婚するのも一番遅かった。
「昨夜も帰ってきてすぐパソコン抱えて部屋に閉じこもっちゃって。会話は一言もなし。夜中になんか食べたみたいで──まあ一人で勝手に食べてくれるのはいいんだけど、今朝またプラゴミ分別してなかったから注意したらあからさまに嫌な顔しちゃって。『細かいこといちいち言うな』っていう態度丸出し。そう思ってんなら口にすればいいのに不機嫌オーラ出すだけだからね。こっちだって本当は軽くすすいでほしいのにそこまでは言わないで我慢してんのに。ゴミの分別もできないって社会人としてどうなの」
「麻矢がしてくれるって甘えてるんでしょ」
「それが、一人暮らしの時から無頓着だったみたいなんだよね。最初に注意した時、『そういうのはゴミ収集の人がやってくれるんだよ、それで給料もらってんだし俺たちもそういうのに税金払ってんだから』とか真顔で言ってたから」
「出た、理屈王子」璃子が笑う。
「王子じゃないけどね」
「さすがにまだオヤジじゃないでしょ」
「オヤジだよ、全然運動してないからお腹出てきてるし、椅子から立ち上がる時も必ず『よいしょ』とか言ってるよ。本人気づいてないだろうけど」
「そんなのまだまだだよ」と友里香。「オヤジは口臭、体臭が耐えられなくなってからだって。ほんと一メートル以内に近寄るなって感じ」
「でもなんかあるとすぐため息つくのオヤジくさくない? 私イヤなんだけど」麻矢は続けた。「今朝も家出る前、『あー、今日の会議憂鬱だー、行きたくねえなー』とかってわざとらしくため息ついてさ。こっちだって行きたくないのを口に出さずにこらえてんのにそんなこと横で言われたらほんとテンション下がるわよ。せっかく仕事が一段落していい気分でいたのに朝から台無し」
「自分だけ仕事してるって思ってんのよねー」
「璃子も結婚している時そうだった?」
「うちはもっとひどいわよ。『お前の仕事なんか遊びだ、一緒にするな』って普通に言ってたからね。で、毎日残業残業、出張出張、全部女だったってオチ。最低過ぎて笑えるでしょ」
「いや笑えないよー」
「クソだねマジで」
「ほんと離婚できて良かったよ。二人のおかげ。感謝感謝」
 璃子が実感のこもった口調で言った。
 彼女が結婚したのは、大学を卒業してまだ三年の頃だった。優しく包容力があり、ロックフェスで出会った時にほとんど璃子の一目惚れだったというイケメンの広告代理店勤務の男との蜜月は、しかし一年と続かなかった。
 あの頃は璃子もテンションがおかしかった、と麻矢は思う。招待された披露宴で、キャラに似合わぬフリルのついたドレスを着てはしゃいでいる姿を見た時から、何となく不安を感じていたのだ。
 勢いで決めてしまった結婚生活はいずれにしても長くは続かなかったのかもしれないが、入籍した途端、夫の態度が変わったのだという。いわゆる「釣った魚に」の典型だ。
「付き合い」と称して毎夜飲み歩き、朝帰りもたびたびで、「本当に仕事なの」と問うと「俺が信じられないのか」と罵声が返ってきたらしい。手こそ出なかったがひどい暴言を吐き、それでも必死に言い返すと家に帰って来なくなり、生活費も入れなくなった。出版社に勤めていた璃子は結婚を機に退社していて、貯金を切り崩して生活費に充てていたらしい。編集者時代のつてをたどってライターの仕事をするようになったのはその頃だ。
 ──細々とだけど仕事があったから離婚できたんだと思う。
 後になってしみじみと呟いた璃子の言葉に複雑な表情を浮かべたのは、その頃はすでに専業主婦になっていた友里香だった。しかし璃子がどうすればスムーズに離婚できるか、誰よりも力になったのも友里香だったのだ。
 それまで一人で何とかしようとあがいていた璃子から、【もう無理、助けて】とグループLINEにメッセージが送られてきたのは、四年ほど前のことだ。
 麻矢は子会社に出向して忙しかった頃で、友里香も幼い子を抱えて外に出るのは大変だったはずだが、普段泣き言を言わない璃子からのSOSとあっては放っておけず、久しぶりに「三人組」が復活したのだった。
 その時点で別居状態にあったにもかかわらず、体面を気にしてか璃子の夫は中々離婚に応じなかった。
 各自ネットや書籍を漁り、経験者に尋ね、知恵だけでなくそれぞれの人脈も最大限活用し、最終的には「離婚調停で負けたことなし」という弁護士を友里香が見つけてきてくれたことで、相手にそれなりの慰謝料を支払ってもらう条件で璃子は離婚することができた。
 彼女の離婚が成立してからはことさら集まる必要はなくなったのだが、その後は自然と友里香と麻矢が夫の愚痴、いや悪口を吐き出すための集まりとなったのだった。