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「そういや、昨日校了した号なんだけどさ、変な記事が載ってんの」
 それぞれが二杯目の飲み物を注文したところで、璃子が話題を変えた。
「帰宅恐怖症の夫が最近増えてるとかって」
「うん? それってかなり前の話じゃないの?」
 帰宅恐怖症──。特別仕事が忙しいわけでもなく、接待や人付き合いなどで飲みに行っているわけでもないのになぜかまっすぐ家には帰らず、外で時間を潰したり無駄な残業をしたり、時にはカプセルホテルなどに泊まったりする夫が増えている。
 そういう現象についていくつかの週刊誌やネット記事で取り上げられていたのは、麻矢も目にしたことがある。だがそれは、いずれも新型コロナウイルスの感染が拡大する前だった。
「そうなんだけどさ」璃子も少し首を傾げながら答える。「一時期コロナでリモートが増えたじゃない? 家にいることが多くなったことで余計家庭に居づらさを感じて、出社が再開したらそのまま家に帰りたくないって夫がまた増えてるんだって」
「逆でしょー」友里香が呆れたように言う。「前はリモートが増えたことで『主人在宅ストレス症候群』を抱える妻が増えてるとかって書いてなかった?」
「書いてたよ。いつもの『バランス感覚』ってやつ」
「何それ」
 友里香が吐き捨てた。
「こっちはどれだけ嫌でも家事も育児も絶対しなくちゃなのに、『家に居場所がないからボクちゃん帰りたくなーい』とかって、なら一生帰ってくんな」
「ほんとそれ」麻矢も同調する。
「そういえばさ、ちょっとケースは違うけど」璃子が言った。「知り合いの編集者、男の人なんだけど、娘さんがコロナに感染しちゃった時、伝染ったらやばいっていうんでカプセルホテル泊まりしてたって」
「え、じゃあ娘さんのケアは奥さんがワンオペ?」
「だね」
「伝染ったらやばいのは奥さんだって同じじゃないね」
「奥さん仕事してないから、だって」
「ちょっと何それ。ほんと死んでほしいんですけど」
 友里香の口から、早くもいつものセリフが飛び出した。
 あいつとの生活に耐えられない。もう限界。無理。同じ空気も吸いたくない。
 そう訴える友里香に、当初は璃子が「友里香も離婚すればいいんだよ」と応えていた。
「私の時さんざんお世話になったから、全面的に協力するよ。弁護士さんもいるじゃない」
 だがその度に彼女は力なく首を振った。その口元に浮かぶ気弱な笑みは、「諦め」に違いない。
 実際、友里香が離婚などと口にしたら、璃子の時の比ではなく揉めるだろう。まず、子供の問題がある。当然友里香は「娘を連れて出て行く」ことを主張するだろうが、それをガーベが素直に承諾するわけがない。ろくに面倒みないにもかかわらず、いやそれゆえにか、彼は幼い娘のことを猫可愛がりしているのだ。年がいってできた子供ということもあるのだろう、向こうの親の初孫への溺愛振りも尋常ではないらしい。
 普段からモラハラの激しいガーベではあるが、「身体的暴力」はなく、浮気も(少なくともその証拠は)なかった。
 璃子の言う「弁護士」は元々ガーベの仕事関係の付き合いから紹介してもらった人だったため、いざという時味方になってくれるかどうか分からない。逆にあの敏腕弁護士が「敵」に回ってしまったら、離婚が成立したとしても慰謝料を請求できないどころかあらゆる手を使って親権を主張してくることだろう。
 それだけではない。友里香の弱気の最大の原因は、やはり「経済力」にあった。
 結婚を機に退職してこれまで、彼女は正規の職に就いたことがない。結菜ちゃんを保育所に預けられるようになってからパートでスーパーのレジに立つようになったが、収入は月に七万円程度だという。
 就活では誰よりも早く第一志望の損保会社から内定をもらった彼女だったのに、特に資格があるわけではない現状では、この先正規の仕事を見つけられる可能性は低く、離婚後の養育費が滞ってしまったら児童手当などを受けられても生活は困窮することだろう。
 だから仕事辞めなきゃ良かったのに。
 何度も喉まで出かかったが、もちろん麻矢は口にはしなかった。
「結菜をそんな目に遭わせたくないし……これから学校のことを考えても父親がいないのは相当不利になるでしょう?」
 そう下を向く友里香に向かって、「再婚すればいいのよ」璃子はこともなげに言った。
「絶対もっと友里香に合う人がいるって」
「私、璃子ほどモテないもの」
「そんなことないよ。女はバツイチの方がモテるから」
 その言葉通り、璃子は離婚してすぐに彼氏ができた。今も付き合っている鴨下亮介という年下の小児科医だ。編集者時代に取材で知り合った相手で、麻矢はひそかに、亮介の存在があったから彼女は離婚を決意できたのではないかと思っている。
 だからすぐに亮介と再婚すると思っていたのだが、意外にもそうはならず、独身生活を楽しんでいた。他にも「ボーイフレンド」は複数名いるらしく、最初の結婚の反動か亮介のような大人し目なタイプを最近は選んでいるようだった。
「とにかく離婚はハードルが高すぎ」
 友里香が、嘆くように言った。
「考えただけでも気が重くなっちゃって、だったら今のままでいいやって思っちゃう。結菜さえいれば、もうガーベのことは単なる同居人、生活費供給マシーンだと思って生きていけばいいやって」

「友里香がそう言うならしょうがないけど……」
 璃子の言葉に麻矢も肯きながら、でも本当にそれでいいの? と内心思う。そういう生活を、あと何十年も続けていくの? 子供なんてすぐに成長して親の手を離れていくのに。
「一番いいのは、遺産と保険金と遺族年金を残していなくなってくれることよねえ……」
 集まりの最後は大抵、友里香のこの言葉で締めくくられる。
「ほんと、元気なまま死んでくれないかしら」
 それが今の友里香の、そしてかつての璃子の、間違いなく本音なのだろう。
 じゃあ自分はどうなのだろうか?
 麻矢は自らに問う。
 二人と一緒になって夫への愚痴を吐き出してはいるが、自分は彼のことを本当はどう思っているんだろうか。