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 なるべく音を立てないようにマンションの玄関のドアを開け閉めする。
 夫の革靴はたたきにあった。遅くとも終電で帰るつもりでいたのに、友里香が先に帰った後、璃子ともう一軒別の店に寄ってしまい結局タクシー帰りになってしまった。
 玄関を上がって廊下を進む。京王線の東松原駅からほど近い1LDKの賃貸マンションで、左手に寝室、奥に広めのリビングというつくりだ。そのリビングの明かり窓から光が漏れていた。まだ起きているようだ。
 そのまま素通りしようかとも思ったが、さすがに気が引けてリビングのドアを細めに開けた。
 夫はこちらに背を向けた恰好でソファに座り、テレビを観ていた。
 画面には、麻矢にはタイトルも分からないモノクロの古い外国映画が流れている。
「ただいま」
 小さく声を掛けると、「うん」とも「ああ」ともつかない声が返ってきた。
 なぜわざわざ自分が帰ってくるまで起きて映画など観ているのか。まさか嫌がらせか? と疑いながら、「遅くなりました」と付け加える。
 夫はちらりと時計に目をやると、「ああ、もうこんな時間」と呟いた。そのわざとらしさに舌打ちしそうになったが、何とかこらえた。
「シャワーを浴びて、寝るね」
 そう言ってドアを閉める。返事はなかった。
 洗面所に入るとまずはハンドソープをつけて念入りに手を洗い、うがいをしてから着ているものを脱いだ。シャツとスカートは畳んでとりあえず洗濯機の上に置き、下着は夫のものが入っていないことを確認してから脱衣カゴにいれる。
 浴室のドアを開け、シャワーのコックをひねった。
 頭からぬるま湯を浴びながら、麻矢はもう一度先ほどの自問を反芻する。
 自分は、夫のことをどう思っているのだろうか。
 二つ年上の夫──甲本光博と出会ったのは、「異業種合コン」だった。六年ほど前のこと。
 もともとその異業種交流会に参加していたわけではなく、会に登録していた後輩が行けなくなり、「代わりにお願いできませんか」と急遽頼まれて参加したのだ。
「会ったことのあるのは一人だけですけど、粒ぞろいですので!」
 後輩はそう力説したが、行く前は楽しみより憂鬱の方が勝っていた。「社交的だけど人見知り」という矛盾した性格で、仕事は別にして初対面の相手とすぐに打ち解けることができない。ましてや「異業種」つまり共通項となるものがなく、加えて最初から「交際相手ひいては結婚対象として品定めする」視線の異性にはどうしても気後れが生じてしまう。
 普段いろいろ無理を聞いてもらっている後輩への義理で「代理」を引き受けてしまったが、IT企業勤務・薬剤師・銀行員という馴染みも関心もない当日の顔ぶれを聞いてからは、何とかして断る理由を探しているような有様だった。
 しかし、結果として、その合コンは楽しかった。その理由が、最初に向かいの席に座った光博の存在にあったことは間違いない。
 お決まりの自己紹介が終わった後は自分から積極的に話しかけていくことができず、挙動不審に周囲を見回したり、手持ち無沙汰で飲み食いに精を出したりしていた麻矢に、「IT企業でプロジェクトマネージャーをしている」という彼が、適当なタイミングで答えに困らないような質問を投げかけ、無理矢理にでも共通項を見つけ、「会話」を成立させてくれたおかげだった。
「薗部さんは出身はどちらですか? ああ僕も東京です。立川。通勤圏内ですけどね、学生の頃からアパート借りてたので。ああ薗部さんもですか。実家の方がお金はかかりませんけど、やっぱり一人暮らしの方が気楽でいいですよね。でも『田舎』がある人ってうらやましくありません? ねえ、こっちは盆正月に限らずいつでも帰れちゃうし。地元っていっても特に長居しても面白いことはないし。『帰れる場所がある人』ってなんかいいですよねえ」
「お休みの日は何されてます? へえ、アクティブなんですね。僕はどちらかというとインドアかなあ。出かけたら出かけたで充実はすると思うんですけど、なんか億劫で。配信のドラマや映画を観たり、ゲームをやったりしてると一日なんかあっという間にすぎちゃいますね。映画とか観ませんか? ああ、僕も映画館には最近はほとんど行かないですけど、もっぱら配信で。ええ、ネトフリもアマプラも両方入ってます。それだけでも観る作品多くて困っちゃいますよ。あ、韓国ドラマですか? すみませんそっちには疎いんですけど、何か面白いのありました? へえ、そうなんですか……」
 常に会話を主導してくれながら、一方的でもなく、麻矢も自然に自分のことを話すことができた。会話が進むにつれ、「全くタイプが違う」ことが分かってきたが、そういう相手とプライベートで接することがあまりなかったので、むしろ新鮮だった。
 その気持ちが単に「異業種だから」ではないことは、その後席替えがあり、他の男性相手だと受け答えに困ってぎこちない会話が続いたことではっきりした。最後にもう一度光博が席に戻ってきてくれた時には心底ホッとしたものだ。
 別れ際に向こうからLINEの交換を口にしてくれたのも嬉しかった。その日のうちに【今日は楽しかったです。ありがとうございました】というメッセージが届き、麻矢もすぐに同じ内容の返信をした。
 それからLINEで毎日のように会話するようになり、半月後に初めて二人でご飯を食べに行って──。
 浴室から出て、タオルを巻いた姿で廊下を歩く。
 リビングの明かりはついたままだが、物音はしない。夫は寝室に入ったようだ。