「そうです、明神さんと渡部さん。おふたりがこのテープを作成されたとき、貸会議室を借りて、歌を収録したらしいんですが、残念なことに、音源の質があまりよくなくて、おふたりともがっかりしていたんですよ。そしたら、その話を聞いたうちの社長が、“うち、ピアノあるんですが、よかったら”って。社長なんて、いつもは眼鏡の疲れたおじさんなんですけど、家に防音室と、こじゃれたピアノがあったものだから、みんな驚いちゃって。渡部さんなんか、“あらまっ、スタインウェイよっ”なんて大喜びして。
そのような事情で、歌の伴奏は僭越ながら、弊社の社長です。だから明神さんと渡部さんがお礼にって、このプリンとパイを二個ずつ私たちに下さったんです。誰かのために買ってあったんだろうと遠慮したんですが、どうしてもと仰って……さすがにゴージャスで美味しそうだったので、記念写真を」
「それ、何日のことかわかる」
七星が言った日付は、まさにあの日の頃だった。ふたりがこそこそ出かけ、ひとりぼっちで置いていかれた日。
本当は三人で食べようと、三つ買っていたうちの、三ひく二は、一だ。
「ところで、わたしテープ世代じゃないから、びっくりしちゃったんですが、このテープって、裏返せるんですね、衝撃です。アナログって感じがいいです」
カチリ、と七星がボタンを押すと、再生が始まった。
すうっ、と息を吸う音がした。
――お誕生日おめでとう! ユウちゃん――
テンコちゃん、カナちゃん、ふたりの声だ。拍手の音もする。
――まさかまさか、メソメソしてないわよね?――
――それとも起きたばっかりかしら。のんびりしてるもの。いつも一番最後に起きてくるし、着替えもマア、ゆーっくり、のんびりなのよ――
――一度、旅行も遅れかけたしね――
――あったあった、そんなこと――
笑い声がする。
――今、思い出すのは三人で歌ったことよ。ユウちゃんの声はどこまでも綺麗に通って、まさに天に選ばれた声みたいだった――
――いつだってユウちゃんは三人の中で一番うまかった。うまいだけじゃなくて、わたしたちの声をまとめる強さみたいなものがあった。“最強の三人”は、ユウちゃん抜きでは無理よ――
――今になってみるとね、どんな贅沢よりも、ユウちゃんと公園で歌ってた頃のことを思い出すの――
――わたしもよ。あの頃、わたしたちは本当に最強だった。ユウちゃんはわたしに、一番の思い出をくれた。人生で何よりも大事なプレゼントだった――
――ありがとうユウちゃん――
――ゆっくりのユウちゃんなんだから、もうちょっとゆっくりして、こっちにおいでなさいね――
――またね!――
ふたりの声が重なった。
しん、と部屋に静寂が戻る。
七星が、カセットテープの再生を止めた。
今日が誕生日であったことに、新垣は、今、気がついた。
毎年、誰かの誕生日は、カナちゃんが張り切ってケーキを作ってくれた。テンコちゃんがとっておきのワインを開けてくれた。そして歌う、お気に入りの歌。
寂しがり屋の最後のひとりが、たったひとりになっても寂しくないように。
三人で、もう一度歌えるように。
新垣は、カセットテープを抱きしめるようにして、うずくまる。
ふと顔を上げれば、もう日は傾きかけている。七星は、優しい目をして、じっと待ち続けてくれていた。
「あ。これ、さっきこっそり撮ってたんですけど、見ます?」と言って、七星が、スマートフォンで動画を見せてくれた。
なんと、歌っているときに、動画を撮られていたらしい。
自分が歌っている姿を見るのは、ちょっと気恥ずかしい。画面の中央で歌っているのは自分ひとりだけなのだが、画面の外に見切れて、テンコちゃんと、カナちゃんがそばに居るような気がする。
いや、きっといる。
七星が、「スマホがあったら、この動画、いつだって手元で見られますよ」と言い出した。「新垣さん、よかったら一緒に買いに行きませんか」
「え、今から?」
「もちろん今から」
七星が、いたずら好きの子供のように、にっと笑う。
外に出て見れば、道の脇にバイクが止めてあった。七星は、配達にはバイクで来ていたらしい。とりあえず駅方面に向かってふたりで歩いてみる。スマホショップがあり、七星も店員も、どれが使いやすいか、一緒になって考えてくれた。
こんな小さくて薄い機械なのに、めまぐるしく映像が変わったり、音楽を鳴らしたり、何だか目がくらみそうだ。
「でもねえ、わたしこんな難しそうなの持って、使えるかどうか……」と言うと、七星が、看板を指さす。〔パソコン・スマホ教室ひよこの子〕どうやら、教室のようなものもあるらしい。教室をのぞいてみると、机には同じくらいの年代の人たちがいて、わからないところがあれば、講師の先生をつかまえていろいろと訊いているようだった。これなら自分でも何とかなりそうだ。
買ったばかりの新しいスマホに、七星が操作して、さっきの動画を入れてくれた。「この三角を押したら、いつでも見られますから」と言う。文字も一番大きくて、見やすいものにしてくれた。
夕陽に照らされた帰り道を、七星と一緒に歩く。思えば今日は妙な日だった。自分の誕生日の中で、一番奇妙な日だったかもしれない。見知らぬ配達人に、謎めいた宅配便。もうここにはいない、大切な人たちからの、思いがけない贈り物。
七星は帽子を取って、荷台から防寒具を引っ張り出して羽織った。バイクにまたがると、ヘルメットをかぶる。
荷台にある運搬用の箱には、大きく「天国宅配便」とあり、シンボルマークなのか、向かい合った白い羽根が描かれている。
「それじゃ、失礼します!」とハキハキ言って、ヘルメットのシールドを下ろし、エンジンをかける。小さく言ったら、聞こえなかったらしい。七星は「え、すみません何です?」と二回くらい訊いてから、一度かぶったヘルメットを脱いだ。
「…………ありがとうって! 言ったの!」と、声を張って目を逸らすと、七星はにやっとして、親指を立てた。「お誕生日、おめでとうございます」何となく自分も真似して、親指を立ててみた。
エンジン音を響かせて七星が行ってしまうと、あたりは急に静かになる。今日のことは、本当に現実にあったことなのか、考えると、ぼんやりしてきてしまうくらい、不思議な一日だった。
でも、さっき歌った心の高まりは、まだ続いている。
あれから、一念発起して、家の中のゴミを全部出し、業者にも来てもらって、大掃除と庭の草刈りをお願いした。草を刈ったら、今まで全然見えなかったのだが、下から花壇が現れた。土の間に、小さな新芽が顔を出していることに気付く。みんなで植えていた植物の種が、春になって、一斉に芽吹いたらしい。荒れ放題にしていて、雑草は伸びっぱなし、ずっと水も何もやっていなかったのに、けなげなことだ。人生、死にそうなほど辛いことが起きようとも、春はまた巡ってくるものだと、しみじみ思う。
小さなその芽に、肥料をやって、水もやる。通りすがりの近所の人が、こちらを見ているようなので、顔を上げたら、向こうはさっと目を逸らした。「こんにちは」と言ってみたら、驚いたようにこちらを見て、「……こんにちは」と言う。
ひとりで住む家は、ガランと広くなった。今思えば、ひとりになった家の空間を見てしまうのが怖くて、何でも良いから隙間を埋めたかったのだと思う。それが段ボールや、溢れるゴミの山だったとしても。
今、その空間は歌で埋めている。ひとりのときも、三人で歌うときもある。
スマホの教室は続いていて、顔見知りも増えた。気の合う人もできて、たまにはお茶を飲んで帰ったりもする。こういうことがやりたいんですが、と講師の先生に相談すると、すぐに、何をどう準備したら良いかを、わかりやすく教えてくれる。
スマホの便利さには驚いた。犬ころみたいに機械の名を呼んで、「クラシック音楽をかけて」と言うなり、ポーン、と音がしてスピーカーから音楽が流れ出す。“鱒”をかけてもらうこともある。三人で歌った、思い出の曲を何曲でも流す。
三人でいたときも、これがあれば良かったかもしれない。サルサなどのラテン音楽が好きだったテンコちゃんと、シャンソン好きのカナちゃんと、クラシック好きな自分ならば、きっと取り合いになったに違いない。
民生委員の沖野の家にもお礼に行った。アップルパイがとても美味しかったこと、気遣いがありがたかったこと。
「お誕生日おめでとうございます……ございました」と沖野は言って、笑った。
「どうして誕生日がわかったんですか」と訊いてみる。不思議だったのだ。
「それはね、ご近所の人たちがいつも、あの赤い屋根のお家のお三方はとても仲良しで、お誕生日の歌も、ものすごく上手なハモリで聴こえてくるのって噂していたから、もしかして、と思って。みなさん、あのお家から楽しげな歌が聴こえなくなったって、気にしていらっしゃったんです。つい聴き入っていたファンも、たくさんいたんですよ」
まったく知らなかった。近所のどの家も、自分のことを邪魔者扱いして、早く消えて欲しいんだとばかり思い込んでいた。
「気が向いたら、歌のサークルも顔を出してみてください」と言われる。礼を言って帰りがけ、沖野に、「そういえば、何がきっかけで、心境の変化に至ったんですか」と訊かれた。
思い浮かぶのは、灰色の制服、目がくりっとした、不思議なあの子のことだ。
「宅配便が来たんです。天国から」
そう言うと、沖野は何かの冗談だと思ったのか、「それは何よりです」と頷いた。
天国宅配便の、ほっそりしたあの子を思う。
制服のマークは、純白の羽根。七星とか言っていたあの子は、今日は、誰の、どんな最後の贈り物を配達に行っているのだろう。今日もショートカットに帽子をかぶって、誰かの家の呼び鈴を押しているのだろうか。
きっとそうだ。
今日を生きる、誰かのために。
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