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「高校三年生の頃に、父の事業がいきなり倒産したの。それから一気に生活が変わってね。わたしも学校をやめて、働かなければならなくなった」
 家は売り、親子三人で四畳一間のアパートに移り住んだ。トイレは共同、風呂もない。学校へ行く前に朝刊を配って、帰ってからも夜遅くまで封筒貼りの内職をした。父も母も、仕事を何個も掛け持ちして朝から晩まで働き、心身ともに擦り切れていった。
「“幸せはお金で買えない”とか、人はいろいろ言うけれど、果たしてそうかしら。最初からお金がなくて、何も知らずに済んでいれば、まだ幸せだったのかもしれない。知らなければ、それはこの世に存在しないものだから。貼っても貼っても減らない内職の封筒の山を前にして、ある日突然、絶望に押しつぶされそうになった。借金まみれで、この先、生きている限り、ずっとこんな生活を続けなければならない。これがわたしの日常で、現実なんだって」
「そう……だったんですか」
「でもね、テンコちゃんとカナちゃんは、誘いにやってきたの。“歌おう”って。“最後の校内発表会にわたしたち三人で出よう”って」
 ふうっと新垣はため息をついた。住んでいるところをふたりに見られたくなくて、必死で家の扉を閉めていた気持ちも、自分で切った不揃いな髪を気にして撫でつけていた惨めな思いも、一気に蘇る。もう退学したんだから出られないと言っても、ふたりは本気だった。三年生有志としての参加の許可を、学内の教師にひとり残らず取っていたくらいだった。
「はじめは歌う気にはなれなかった。それでもね、テンコちゃんとカナちゃんは、何度でも誘ってくれた。その発表会で歌ったのが、この、シューベルトの“鱒”だったの」
 今でも思い出す。発表会のあの日、ステージでライトを浴びるわたしたちの歌を、講堂にいっぱいになった観客が聴いていた。終わってもしんとしていて、あれ、と思ったら、一瞬後に、塊になったみたいな、ものすごい圧の拍手が来た。その拍手は鳴りやまなかった。なんと誇らしかったことか。
「ここで、この瞬間死んだっていいと思った。でもね、死ねないわね、人間簡単に。まだまだ人生は続くのよ」
 七星は、大きな目を見開いて、じっと聞いている。
「テンコちゃんもカナちゃんも名門大学に進学した。わたしは小さな会社の事務員に就職して、朝から晩まで働いた」
 見合いで結婚した男は酒癖が悪く、結婚生活で楽しいと思ったことは一度もなかった。子供ができなかったことで、姑にもひどくいびられた。
 それでも、誰かが就職したり、留学したり、結婚しても、一年に一回は、絶対に三人で会った。
 いつもは節約して自分で切っていた髪も、三人で会うとなったら、一年分のお金を貯めておいてカットに行った。着たきりスズメで、制服みたいに毎日同じ服を着ていても、会う日が決まったら、質のいいものを、値札とにらめっこしながら買いに行った。見栄を張るためじゃなくて、大切なふたりの友達の前で、「明るいユウちゃん」でいるために、それは必要なものだったから。
「気楽な学生時代とは違うものね、やっぱり。わたしだけじゃなくて、ふたりもふたりで、すべてが順風満帆とはいかなかったみたい。女友達三人で住み始めたのは、みんな人生でいろいろあった六十代手前。わたしが、六十代が一番楽しかった、って言うのもわかるでしょ」
「ですねえ。仲良しの友達と住むのって、本当に楽しそう」
 邪気のない顔で七星が言う。こちらの含みのある表情を見たのか、「え? 楽しかった、ん、ですよね?」などと訊いてくる。
 自分でも、なんでこんなことを気にしているのかわからない。
「楽しかった。幸せだった。でもやっぱり、ふたりとも、わたしには言えないこともたくさんあったでしょうよ」
 新垣の口から、ずっと心のうちにしまってあった、あるひとつの問いが、石ころみたいにぽろりと転がり出た。「――そんないびつな関係で、それは本当の友達と言えたのかって」
「えっ、友達、ですよね。いい友達じゃないですか。一緒に住んで、こんなにも仲良しで」
 新垣は力なく首を振った。
「でも、ふたりとわたしとは、やっぱり住む世界は違うのよ、学生時代もそうだけれど、大人になってからも、ずっとふたりは、わたしに気を遣ってくれていた。ふたりでは入れるレストランにも三人では行けない。ふたりでは行けるブティックにも三人では無理。豪華客船の旅も、高級旅館も、海外旅行もね。ふたりとも名家のお嬢様なんだし、財産はたくさんあるんだもの。一方こっちは、しがない年金暮らし。差はあって当然よ。そのふたりが、誰にも気兼ねなく買い物したり、いいものを思う存分食べたりしたいと思っても、わたしがいる限りおおっぴらに行けない。おごってあげるとは言えないの、わたしが気にするのがわかるから。正直、邪魔……だったと思う。わたしの存在は」
「まさか。そんなことは」
「わたしの目を盗んで、ふたりでこそこそ話していることもあったし、こっそり出かけて行くときもあった。“ちょっと会合があるの”なんて言いながら、目を逸らして。やっぱり、ふたりとわたしとは違うんだと思った。それが、とても惨めでね。“ただいま”って、お土産にわたしの好物のお菓子を買ってきてくれたこともあったんだけど、なんだか味もしなかった」
 袋にひとり分だけ包まれたお菓子を見たとき、ああ、ふたりはどこかで、別に美味しいものを思う存分、食べてきたんだろうとわかった。
 何をこんなに、今になってつまらないことに引っかかっているのだろうと思う。三人でいて、とても楽しかったし、幸せだったのも確かだ。でも、ふたりの気遣いがとてもありがたくて、同時にとても辛かったんだということも思い出してしまう。
「ただひとつの心残りは、わたしはあのふたりに、何もしてあげられなかったということよ。いつだって、もらってばかりだった。さっきのこの歌だってそう。ふたりが死んだ今でも。気を遣われて、可哀想にって、手を差し伸べられて……」
 そのとき、ぐう、と七星の腹が鳴った。
「すみません。お話に聞き入っていたんですが、この腹が空気を読めなくて」と頭をかきながら謝る。
「いいのよ、生きてりゃお腹も空くってことね」と新垣も笑った。「何か食べるものがあるかしら……」
「いえいえ、それは悪いので」
 七星が恐縮するように手を振った。
「わたしもお腹が空いたのよ。付き合いなさいよ」
 そういえば、さっき民生委員の沖野が持ってきたアップルパイがある。丸い包みをほどくと、色つやの美しい見事なアップルパイが入っていた。
「わあ、これすごいですね、どこかで買ってきたんですか」
「これね、民生委員の人が、持ってきてくれたのよ。今日も追い返しちゃったんだけど、あの人、諦め悪くてね。ちょっと味見してみましょうか」
 お茶をれなおして、アップルパイを切り分けると、断面から隙間なくリンゴが詰まっているのがわかる。
「すごーい! お店で売ってるものみたい」
 ひとくち口に含んで、うんと頷いた。美味しい。
「きちんと紅玉こうぎょくを使ってあるのね」
「紅玉?」
「リンゴの種類よ。普通に食べたらちょっと酸っぱいんだけど、パイにしたらいっそう美味しくなるの。カナちゃんも、お菓子作りによく使ってた」
「へー、そんなのスーパーにあるんですね、わたし何でも食べるから、どんなものでもだいたい美味しくて」
「普通のスーパーにはあまり売ってないから、特別に準備しないと紅玉は手に入らないかも」と言いつつ、民生委員の沖野は、これを一緒に食べようと、わざわざ準備してくれたんだな、ということに思い当たる。
 ちょっとでも美味しくなるように、手を尽くして作られたもの。喜ぶ顔が見たくて、一生懸命作ったもの。
「食べないんですか。これ、本当に美味しいですねえ」
 しばらく手が止まっていたことに気が付いた。美味しい、と言って、噛みしめるように食べる。七星はあっという間に平らげる。
 誰かと美味しいね、と言い合いながら食べるのは久しぶりだった。
「でも、こうやってアップルパイを作ってくれる人がいるなんて、このあたりもいいところじゃないですか」
「まあその町の、“呪いの家”といえばうちで、“祟りハウス”の“オニババ”がわたしなんですけどね」
「“祟りハウス”とかって、逆にちょっと面白いですね」
 ふたりで笑った。
 
 アップルパイの皿は綺麗に空になった。
「アップルパイのお礼に、わたくしが新垣さんの一番の好物を当ててしんぜましょう」と、七星が妙な手つきをして、変なことを言い出す。
「あらかじめ写真に撮ってあったんです」
 突然何を言い出すのだろうこの子は、と思って、苦笑しながら見ていると、七星はスマートフォンを出した。何やら操作し、手で覆う。
 まあ、乗ってやるかと、仕方なく、老眼鏡を取り出してかけてみた。
 七星は、撫でまわすみたいな手つきをして、三、二、一、それっ、と手を離した。
 ぎょっとする。
 画面に映っていたのは、プリンと、レモンパイ。
 本当に大好物だった、オークラのものだった。
「え、どうしてわかったの。なんでこの写真を。わたし、あなたに好物の話、一度だってしてなかったでしょ」
「魔法です…………」溜めに溜めてから、にやっと笑う。「嘘です、これはある人から以前差し入れにもらったんです。ある人ってわかります?」
 はっとなった。

 

「天国からの宅配便(第1話 わたしたちの小さなお家)」は、全6回で連日公開予定