新垣あらがき夕子ゆうこの定位置は、長椅子の上だった。朝に入ってきた光が天井を通り、壁に移って部屋がまた暗くなるまで、硬い板の上に寝転び、ただうつろに天井を眺めている。したくてそうしているのではない。部屋は足の踏み場もないくらいで、体を伸ばせるのが長椅子の上くらいしかないからだ。積まれたゴミ袋からは、割り箸がつきでており、何かのチラシやぼろ布、菓子パンの空袋が透けている。洗濯もせず脱ぎっぱなしで置いた服があちこち山をなし、一年以上前の古新聞は地層のよう。この前のゴミの日にも、生ゴミをまた出し忘れた。きっとこの部屋のよどんだ空気は、七十五歳の総白髪にも、カサカサに乾燥した肌にも、深く染みついていることだろう。
 足音がして、家の前でピタリと止まった。誰かがやってきた、と新垣は身を起こす。身体中の関節という関節がいやなきしみ方をした。薄汚れたカーテン越しに、外を眺める。それが頭痛の種のあいつだと知って、顔をしかめた。
 この家にやってくるのは、招かれざる客ばかりだ。
 豊かな白髪をふわふわさせた民生委員の沖野おきの。手には何やら包みを持っている。いつもの通り丸顔に丸い眼鏡に丸い目でニコニコしている。
「こんにちは。新垣さーん。いらっしゃいますか。今日もいい天気ですよねえ」
 呼び鈴が鳴り、モニターから声がする。この民生委員の沖野、居留守を使っても、ずっと玄関先で呼び鈴を鳴らし続けるので、うっとうしいことこの上ない。何がうっとうしいかと言うと、すべてがだ。モニターに映る今日の沖野の服も、一見目立たず、質素に見えるが、新垣にはわかった。こげ茶の生地の厚みととろみ、ボタンの特徴ある形から判断するに、コートはたぶんエルメスで、長年手入れしながら着ているもの。下のニットもたぶんそう。足元は見えないが、おそらく靴はいつも履いているトッズだろう。履きやすい形のモカシンを、足形に合わせてオーダーしている。
 ひとり暮らしの老婆、かつ貧乏人のゴミ屋敷を訪問するには、色味を抑えた方がいいと配慮したのだろうし、手持ちの服で、一番地味で質素に見える組み合わせをしてきたのだろう。ご苦労なことだ。
 生まれてきてからずっと貧乏ならば知らずに済んだことも、なまじ知っているがために、いろいろわかってしまう。民生委員の沖野が、何の裏もなく、おそらく完全なる善意で動いているだろうことも、とにかく忌々しい。
「アップルパイを焼いたんです。新垣さん、一緒にいかがですか」
 歳が近いとはいえ、沖野の方がちょっと若い。裕福な出で、このあたりの地主一族である沖野家へ嫁に来たらしい。この家より少し離れたところにある豪邸だ。生まれてこのかた金にも仕事にも苦労せず生きてこられた女特有のおっとりさがある。子供が手を離れて久しく、地域のために何かやってみようと思い立ち、民生委員になったらしい。ひとり暮らしの老人たちを集めて憩いの場を作ったり、お菓子教室や料理教室を主宰したり。ボランティアの清掃活動、通学時にも旗振りと明るい挨拶を欠かさない、この町の人気者。
 何もかも持っているから、他人にあげられるのだ。余裕があるから、いつでもそうやってニコニコ笑っていられるのだ。心の奥のどこかで、暗い炎が燃える。いつもそうだ。持っている人間には、持っていない人間のことまではわからない。持っていない人間が、優しい隣人からありがたい施しを受けるときに、どんな気持ちになるか――そこまで思って新垣は、まだ自分が、ずっと前に終わったことを引きずっているのだとわかって、自分という人間の、器の小ささを思い知る。だから沖野の顔など見たくもなかったのだ。こちらがどんなに拒否しようとも、おせっかい善意ばあちゃんの沖野はへこたれない。「二度と来るな!」と何度追い返してもそうだ。
 このままピンポン、ピンポンと呼び鈴をずっと鳴らし続けられるのもうんざりなので、ゴミ袋で獣道のようになった通路を通り、仕方なく扉を開ける。
「あらこんにちは、新垣さん。一緒にアップルパイでもどうかなと思って、今日、焼いてきたんです」
 たぶん扉の間からは、どっと室内の臭いが漏れ出ているはずで、たいていの人は顔をしかめるのだが、よく訓練された犬みたいに沖野は顔色ひとつ変えない。なんじの隣人を愛せよ、悪臭がものすごくても、ということだろうか。
「もう構わないでください。このゴミを何とかしろって言うんでしょ。いつかやりますから、気が向いたら」
「いえいえ、わたし、文句を言いに来たんじゃないんですよ。新垣さんが、三人暮らしから急におひとりになって、何かこう、がっくりと、気落ちするのもわかるんです。いろいろお辛いでしょうし。新垣さんひとりではやっぱり、掃除とかもね、やりにくいじゃないですか。身体だってきついだろうし。嫌ですよね、掃除って面倒で」
 長年の友人みたいな気さくな笑みを浮かべたまま、沖野がさりげなく視線を新垣の背後に走らせるのがわかった。ゴミがどのくらいあるのか、気になるのだろう。いくらでも人を雇って掃除させることのできる富裕層の沖野が、何が「嫌ですよね、掃除って面倒で」だと新垣は思ったが、何も言わずにおいた。
「新垣さん、もしよかったらなんですけど、ケアマネージャーさんとも相談して、例えばどこかで新垣さんが昼間のんびり、ご飯を食べたりしてくつろいでいる間に、区から派遣された掃除の業者が――」
「いりません」
「でもねえ、新垣さんは、まだまだお元気だから何よりですけど、このままだと、もしも火事とかになったら大変ですし」
「何かあった方がいいでしょ、ここが更地になって、わたしも家も消えて無くなればせいせいするって、このあたりの人間はみんな思ってるはずよ。ここらの小学生の子でもね。なにせここは死臭漂う“呪いの家”なんだし」
 近所の子供は面白半分に、この家を“呪いの家”だとか“たたりハウス”と呼んでいる。たまに外に出たときに、オニババだと指をさされて笑われたこともある。
「“呪いの家”だなんて……そんなことないですよ、みんなで掃除したら、きっとすぐに元通りの赤い屋根の綺麗なお家になります。新垣さんも、もう七十を超えていらっしゃるんだから、ときには誰かの手を借りるということも、必要じゃないかなと思いますよ」
 いりません、などと言ったぐらいでへこたれないのが沖野だ。周りから苦情の出ているこの家を何とか掃除させて、町内の問題を解決したいというのが、目下の目標らしい。正義の味方は諦めない。邪魔な粗大ゴミが消えてなくなるまで。
「それにやっぱり、人間、人との繋がりが、少しはあった方がいいのかなって思うんですよ。新垣さん、お歌、好きだったでしょ、歌のサークルがあるんです、みんなで一緒に昔の歌とか歌って、楽しいですよ」と、ビラを渡してくる。
 受け取って、ちりばめられた音符のセンスのない並びを見ていると、なぜだか猛烈に腹が立ってきた。
「帰ってください」
「え、でも……」
「帰ってください! この前も言いましたけど! もう来なくていいから!」
 ひっこんで閉めようとするドアの間から、沖野がめげずに包みを差し出してくる。
「これどうぞ。アップルパイ、後で食べてくださいね。すごくうまく焼けたの」
 はたき落とそうかと思ったが、さすがにそれははばかられて、仕方なく包みを受け取った。
 アップルパイは焼き立てだったのか、まだほのかに温かい。
 わざと派手な音をたてて鍵を閉めると、もらったビラをぐしゃぐしゃに丸めてゴミ袋の山の上に放り投げ、通路のゴミをかき分けるようにして新垣は居間に戻った。アップルパイは机に置き、そのまま手を付けなかった。
 もう誰もこの家に来なくていい。
 心から。
 このゴミ袋とよどんだ空気でまゆのようになった家の中で、ゆっくりと眠りにつきたい。新垣は定位置である長椅子の上で、元のように身体を横たえた。
 じっと天井を眺める。得体のしれない虫がっている。
 あのふたりがわたしを置いて行って、もう一年近くが経とうとしていた。
 ずっとふたりに訊きたかったことがあったのだが、もはやその問いは、この長椅子の上から、どこへも届かない。
 この問いに対する、ふたりの返事は戻ってこない。永遠に。
 ねえ。
 わたしたちは、本当の友達だったの。テンコちゃん、カナちゃん――

 

「天国からの宅配便(第1話 わたしたちの小さなお家)」は、全6回で連日公開予定