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 こんなときでもなければ、このアルバムは開くことはできなかったかもしれない。 
 写真を見ていると、だんだん、三人の顔に皺が浮いていって、大柄だったテンコちゃんが次第に痩せてしぼんでいく。この少し前、テンコちゃんは、膀胱炎になったかもしれないから、旅行の前に薬をもらってくると軽く言っていたのだった。
 その旅行は、結局キャンセルとなった。
 もうそこからは、写真はあまりない。
 病室の写真が一枚あるのみだ。
 横たわったテンコちゃんは、頬もこけ、別人のように小さく縮んで見える。病気の進行は、わたしたちが考えていたよりずっと早く進んだ。最後、あんなに望んでいたわたしたちの家に帰ることも叶わず、そのまま入院先の病院で息を引き取った。
 七星がめくった次のページは、空白だった。
「“行かないで”ってさんざん言ったんだけどね」顔を覆った新垣に、七星がティッシュを差し出す。
 テンコちゃんが亡くなった後、悲しみも癒えないうちに、今度はカナちゃんが倒れた。普段は、持病なんて何でもないように振る舞っていたけれども、数値がずっと悪くなっていたのを隠していたらしい。あっという間だった。
 息ができない。
 なんでわたしだけ。
 この家は、わたしたちの小さなお家なのに。
「この人生はね、もういらない、あまりの人生なのよ。テンコちゃんもカナちゃんもいない、この家にひとりでいるのは、本当に本当に辛いの。いつもテンコちゃんの紅茶を思い出すし、カナちゃんの焼いてくれたパンを思い出す。でも今は家も庭も荒れ果てて、生きていても何にも面白くない。大事にしていたピアノだってゴミ置き場になった。じゃあ死ねよってあなたも思うでしょ? でも死ぬのは怖い。死んでテンコちゃんたちにも会えない、暗いところにただひとり、迷い込んでしまったらって」
 七星は、泣き止むのをじっと待ってくれていた。
 そっと荷物に手をやる。
「……この包み、開けてくださいませんか」
 新垣は、首を横に振る。
「これ以上何も喪いたくない。だってふたりはもう行ってしまったんだから。どんなに泣いたって、すべては終わったことなの」
 毎朝、また目が覚めてしまったと思いながら起きる。
 生ゴミが腐って臭うこの家は、今の自分そのものだ。
 本能だけが生にしがみついていて、いつやってくるかもわからない死を、長椅子の上で、ひたすらに待ち続けている。
 この気持ちを、誰にもわかられてたまるか。
「……この家で、またひとりぼっちの朝が始まるときの気持ちなんて、あなたのような子供には、絶対にわからないでしょうよ」
 七星は、真剣な顔でこちらを見た。重大な託宣をする、巫女みこのような目だった。
 不意に、七星が目を閉じて、部屋に緊張が張りつめる。長いまつ毛だ。しばらくそのまま、何かに集中しているように、七星は動かない。
 もしやこの子は、不思議な力によって、何かを感じ取ることができるのだろうか――
 さあっと吹いてきた風がカーテンを揺らす。
 七星は、ゆっくりと目を開けて、こちらを見た。
「わかりません」
 あまりにもさっぱりと言うので、なんだか力が抜けてしまった。さっきの溜めは何だったのか。こちらの表情を見たのか、慌てて「ええと。わかるかわからないか、と言われたら、わからないですね。わからない寄りのわからないです……」などと妙な言い回しをして、頭なんてかいている。
「すみません。だって平成生まれだし、わたしは新垣さんとは違いますし。わかると言ったら、それは嘘になってしまうと思うんです。今、何かすごいこと言えないかなって、ちょっと集中してみたんですが」
 何の飾りもなく言うので、逆に虚をつかれてしまった。
 まあそれもそうなのだ。
 誰かに聞いて欲しい、わかって欲しいとどこかで思っていながら、わかられてたまるか、なんてことを思う矛盾。
 七星がこちらをじっと見つめる。
「でも、完全にわかることはできませんが、残された側の人のためにできることは、まだ、あると思っています」
 無駄なことを。
 死なんていう、どうにもならない現実に、遺された者がいくらあがいても無駄なのに。何をしたところで、死人が戻ってくるわけでもないのだから。
「人間はふたつに分けられると思います。“死んだ人”と“まだ死んでない人”と。死んだらみんな、川の向こうに行くんです。けれど新垣さんは、まだ川のこちら側にいます。今日という日を生きていらっしゃいます」
 そう言うと、七星は、また、そっと両手で宅配便を寄せてきた。「これは、きっと今の新垣さんにこそ、必要なものじゃないかと」
 目の前に置かれた、ふたりの筆跡をじっと眺める。
 何を思って、ふたりはここに名前を書いたのか。
 ふたりの、人生最後の贈り物とは、いったい何なのか――
 仕方なく開けると、中には四角い何かが入っている。包装紙を外すと、一台の機械が入っていた。どうやら、カセットレコーダーらしい。中には、テープが入っている。
 その他は、何の手紙も入っていない。
 機械には弱いので、これをどうすればいいのかわからない。
「じゃあ、わたしが再生してもいいですか」と、七星が指を伸ばしてきた。
 なぜだか、怖い、と思った。
 本当のことを知ってしまったら。
 あの日のように、ふたりと自分とは、はっきり住む世界が違うんだとわかってしまったら。
 制止しようと思ったが、もうかすかに、カセットのテープは動き始めていて――
 ちょっと、これ、何? と言いかけたときに。
 ピアノの音が流れ出した。
 新垣は、すべての動きを止めた。目だけが瞬きを繰り返す。
 聴き覚えがある。何百回、いや、何千回と聴いたこのメロディー。
 透明な音が次々に連なり、川のせせらぎを作りあげる。想像の中で新垣は、いつしか森の中にいて、冷たい川の流れにふくらはぎまで足を浸たしていた。岩にぶつかって冷たいしぶきを上げる流れ、そこへ、銀の光のように魚影が通り過ぎていく。
 これは、シューベルトの「ます」だ。
 コーラスが重なる。よく通る低い声と、その上に重なる、少し高い声。間違いない、これはテンコちゃんとカナちゃんの声だ。

 ――清き流れを 光映えて
   矢のごとはしる 鱒のありき

 新垣は、指先で涙をぬぐうと、椅子から立ち上がった。
 肩幅に脚を開き、両肩を少し上げて、力を抜いて落とす。視線を上げて。
 新垣は、ふたりの声の上に、一番高い声を重ねた。

 ――歩みをとどめ われ眺めぬ
   輝く水に踊る姿 
   輝く水に踊る姿 

 二番、三番と流れて曲が終わり、伴奏の音も終わると、ぱちん、と音がして、テープが止まった。
 部屋に静けさが戻ってくる。
 新垣が、よろけるように椅子に座り、レコーダーに指先で触れる。食い入るようにカセットレコーダーを見つめていた。
 これはいつられたものだろう。歌声も声も、嘘みたいにどこまでも張りがある。もしこの録音が、テンコちゃんたちの病気がわかってから録られたのだとしたら、体調だって、かなりきつかったに違いない。でも、そんなことをまったく感じさせない声量と、声の伸びだ。もしかしてふたりとも、これを録音するために、かなり無理をしたのではないか。
 それでも、歌った。
 カセットレコーダーの輪郭が、視界の中でにじみ、ぼやけていく。
 新垣は涙をぬぐった。
「……久しぶりに歌った。わたしたち、コーラス部だったの。テンコちゃんのアルト、カナちゃんのメゾソプラノ、わたしのソプラノで、“最強の三人”ってね」
「今だって最強の三人です。歌、素晴らしかったです」
 カナちゃんがピアノを弾いて、この部屋で、何度も歌った。イントロが流れてくると、雑誌を読んでいても、ついつい鼻歌で歌い始めていて、洗濯物を干していたテンコちゃんも声を重ねてきて、気がついたらいつも三人で歌っていた。昔からずっとそうだった。ひとりで歌うのも好きだが、三人で声を重ねると、ひとりで歌うより、ずっと世界が開けるような気がしていた。
 お腹の底から出した声を、体中に共鳴させたからか、身体が奥からカッカと熱い。鼓動を感じる。こんなことは久しぶりだった。
「……この歌、シューベルトの“鱒”には、思い出があるの」
 不思議なものだ。何も飾らないこの娘を見ていると、なぜか聞いて欲しくなった。この、わたしたちの小さな家にまつわる物語と、自分自身のことを。
「今じゃこんななりで、想像もつかないだろうけれど。わたし、実は、かなり裕福な家に生まれ育って、有名な私立の女子校に通ってたのよ。その学校のコーラス部だったテンコちゃんとカナちゃんとは、気が合って、毎日一緒だった」
 その頃のことを、懐かしく思い出す。制服がとても可愛い学校で、丸襟の白いシャツはみんなの憧れだったから、着るととても誇らしかった。毎日、コーラス部で遅くまで練習した。部活の帰りには三人集まって、いろんな話をしながら帰る。好きな人の相談、いじわるな女教師の愚痴、将来についてや、発表会のこと。話はいつまでも尽きなくて、道端で三人とも笑いが止まらなくなったりした。ずっとこんな風に、笑っていられるのだと思っていた。
 ――あの日までは。