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 ピンポンと、また音がする。
 この家に一日に二度訪問者が来るのは、とても珍しい。もしや沖野が引き返してきたのかとうんざりしつつ、新垣はモニターをチェックした。
 モニターに映るのは、知らない顔の女だ。
 ショートカットに灰色の帽子をかぶり、制服を着て何やら荷物を持っていることから判断して、宅配便の配達なのだろう。ところが新垣には子や兄弟はおらず、夫とも十年以上前に死別、夫の実家とも付き合いはまったくないので、天涯孤独に近い。それだけではなく、友人もいないため、宅配便を送ってくるような人間はひとりもいないはずだった。現に、ここ一年近く、何の宅配便も受け取っていなかった。表札も外してある。
 これはひとり暮らしの老人を狙った、送りつけ詐欺か何かに違いないと見当をつける。沖野といい、この女といい、ふつふつと怒りが込み上げてくる。どうやって追い返してやろうかと腹をくくる。このあたりでは、一度も見たことのない制服というのも怪しい。
 ピンポン、とまた呼び鈴が鳴った。
 扉を開けるなり、「すみません、こちら、新垣夕子さんのお宅でしょうか」と配達人が訊いてきた。「“天国宅配便”です。お荷物のお届けに参りました」
 天国、宅配便? 耳慣れない配達業者だ。配達人は、女にしては背が高い、若い娘。ほっそりしていて、腰の位置も驚くほど高い。見上げると目が合ったが、制帽の下の目が、人懐こそうにくりっとしている。灰色の制服の胸には白い羽根のマーク。やはり家の中からすごい臭いがするのだろう、この配達人は顔に出るタイプなのか、一瞬、吸い込んでむせそうになったが、何とか持ちこたえたように笑みを作った。手に持っている小さな包みをこちらに差し出そうとしてくる。
「いりません」
 そのまま扉を閉めようとすると、向こうは慌てたらしい。
「待ってください、このお荷物はですね――」
「いらないわよ!」怒鳴りつける。声量には昔から自信がある。こういうときは先手必勝、怒鳴って戦意を喪失させるのがいい。この前も同じ方法で訪問販売を撃退したばかりだ。「どうせ詐欺か何かでしょ! 警察呼ぶわよっ!」
 耳にビリビリ響くのか、配達人は後ずさりしかけて、何とか踏みとどまった様子。
「でも、新垣さん。この荷物、明神みょうじんさんと、渡部わたべさんからのお届け物なんです」
 明神さんと、渡部さんからのお届け物。
 まさか、そんなはずは。
 本当にテンコちゃんと、カナちゃんから? 
 一瞬、すべての時間が止まったような気がした。
「い、いらないわよっ!」
 その名前を聞いたら、もうさっきまでの怒鳴り声は、出なくなっていた。
「でも本当に、明神さんと、渡部さんからのお届け物なんですよ。ほら、ここを見てください」と、包みの上に貼りつけられた伝票を見せてくる。宛名は〔新垣夕子さま〕とある。
 送り主のところに、連名で書かれた、懐かしいその名前。
 見覚えのある筆跡。筆圧が強く、右上がりの角ばった字のテンコちゃん。どこか筆記体のような優雅な字のカナちゃん、ふたりの。
 急に目の前が揺らいだ。何が起こっているのか、自分でもわからなかった。
 ひざの力が抜ける。
 顔を覆った手の間から、ぽたん、ぽたんと玄関にしずくがこぼれ落ちていく――

 その配達人の名札には「七星ななほし」とあった。いきなり泣き出した老婆にそのまま荷物を渡して、すぐ立ち去るわけにもいかないと思ったのか、近所の人間が怪しんで見に来るのを避けようと思ったのか、七星は「とりあえず、ここじゃなんなので、中に入りませんか。よろしければ、このお荷物の事情を説明いたします」と、玄関の中へ誘う。
 玄関から部屋の惨状を見て、七星は驚いたように視線をあちこちさまよわせていたが、それには触れず、こちらが泣き止むのを辛抱強く待っていた。
「こちらの写真が、明神さんと、渡部さん……ですよね?」と、七星がおずおず声をかけてくる。玄関には写真館で撮った、大きな額に入った女性三人組の写真が飾ってある。何も知らない人が見たら、仲のいい初老の三姉妹に見えるだろう。けれど実際は、血なんて繋がっていないし、人生もバラバラの三人だった。テンコちゃんが、“わたしたちの小さなお家”完成記念に、写真館で三人で写真を撮ろうと言い出して、みんなでエステにダイエットにまつ毛パーマまでやったのだ。服は、おしゃれ好きなカナちゃんが全身選んでくれた。朝から美容院に行って、白髪を、テンコちゃんが薄い紫、カナちゃんがピンク、自分はオレンジに染めたのだった。あらー、わたしたち信号機みたいねってげらげら笑ったっけ……
 ふたりは、もういない。
 とりあえず、気持ちが落ち着くまで七星を居間に通すことにした。机の上のものを腕でかき集めるようにどかして、一角をあけた。出しそびれたゴミ袋を隣の部屋に全部突っ込み、半開きになっていたカーテンを開ける。カーテンにひっかかるので、山になっている紙ゴミもどかすと、下から埃まみれのピアノが出てきた。もう調律も長らくしていない。
 今まで、昼でも薄暗かったのでよく見えなかったのだが、日差しが入って明るくなると、あちこちにモワモワとした埃が目立つ。さすがに恥ずかしくなってモップを取り出すと、「あ、わたしやります」と七星が受け取って、手早く大きな綿埃を集めてくれた。七星がくしゃみをするので、換気しようと、窓に手をかける。久しく窓を開けていなかったので、サッシに落ち葉などが積もっていて引っかかるのを、七星と一緒に「せえのっ!」と声を上げて、一気に開け放った。
 三月の風が入ってきて、カーテンを丸く揺らす。庭に伸び放題になっていた枯れ草が、ざわざわ鳴った。
 この部屋の中に誰かが足を踏みいれるなんて、本当に久しぶりのことだった。
 配達人にモップまでかけさせておいて、茶の一杯も出さないというのも、さすがに気が引けた。久しぶりに急須を出し、お湯を沸かす。
「どうぞ」とお茶を出すと、帽子を取った七星は「ありがとうございます」と一礼して、湯飲みを手に取った。短い髪に帽子のあとがついていて、耳のあたりでぴょんと跳ねている。目が大きくて、首もすらっと長く、なんだか鹿を連想した。
 テーブルの上にぽつんと置かれている包みは、宅配便。重みを確かめてみると、小さいわりに図鑑でも入っているような、けっこうな重みがする。
 何かの間違いかと思ったが、伝票はやはりふたりの筆跡なのだった。
 配達人は、七星りつ、と名乗った。
「わたくしども天国宅配便は、ご依頼人の遺品を、しかるべき方のところへお渡しするという仕事をしております」
「天国……宅配? 遺品?」
 理解が追いつかない。ふたりのそれぞれの葬儀会社からも何も案内はなかった。まさかふたりが天国から地上宛に送り状を書いた、というわけでもないだろう。まじまじと七星の顔を見た。テーブルの下に足があるか、確かめたりするまでもなく、どう見ても、実体のある人間だ。
「明神さんと渡部さんは、ご存命のうちに、わたくしどもに依頼をされました。これを新垣さん宛に届けるようにと」
 七星は静かに笑みを浮かべた。ふたりのことを話す七星の口調はごく自然で、もう亡くなってここにはいない人、という感じはしなかった。この配達人は、本人こそ若くて元気なのだろうが、どこか死と地続きのところにいるようでもあり、不思議な存在感の娘だ、と思う。
「ということは、ふたりは生きているときに、これを?」テンコちゃんが入院したのが今から一年半ほど前なので、その少し前と見ていいだろう。
 荷物を目の前にしても、開ける気にはなれなかった。中に何が入っていようとも、どうせふたりとも、ここにはいない。開けたところで、このひとりの家で、よけいに寂しさが増すだけだろう。
 顔色が急に曇ったのがわかったのか、七星は心配そうにこちらを見つめている。
「あの。新垣さんとおふたりは、お友達だったのですよね」
「そうよ。友達よ。高校のときに出会って、同じ部活で、卒業してからも大人になっても友達だった。でもね、ふたりともさっさと行ってしまった。わたしひとりを置いてけぼりにして……」声がまた、裏返りそうになるのをこらえる。
 慌てて七星が、ポケットを探った。
「あの、これ。わたしのですみませんが、チョコレートです。悲しいときは甘いものです、配達で疲れたときにも甘いものです。どうぞ」
 と、七星が四角いチョコレートを出してくる。言われるがまま、銀色の包みを開き口に入れた。初対面の配達人と、謎の宅配便を前にして、荒れ果てた居間の妙な空気の中、チョコレートはどこまでも甘かった。
「開け……ませんか」七星が、ちょっとずつ宅配便をこちらに寄せながら言う。
「嫌よ」
「なんでです。お友達の荷物なのに」
「今さら、がっかりしたくないの。何が入っているかわからないけど、期待すれば、その分がっかりするかもしれない」
「シュレーディンガーの何とかみたいですね。開けるまで、がっかりが入っているのか、いいものが入っているのかわからない」
 何やら妙なことを言い出した。それにしても、この配達人、いつまでいるのだろう。
「仕事は宅配したら終わりじゃないの」
「いえ、手元にお届けして、完了です」
「手元に届けたじゃないの」
「明神さんと渡部さんには、新垣さんには、必ず“中身”を届けてと頼まれているんです」
 気まずい沈黙が続く。