最初から読む

 

 もういいかげん、帰ってほしい。
 その思いを感じとったのか、七星が飾り棚に目をやり、「あっ! あれ、もしかして、アルバムですか」と唐突に訊いてきた。飾り棚の一番上に立てかけてある、分厚い赤の表紙を見つけたのだろう。「へえ……赤い革のアルバムかあ、このお家の屋根と同じ色ですね……素敵だなあ……」と、しつこく言い募る。何とかここで会話を繋いで、懐柔し、荷物を開けさせようという魂胆らしい。
 仕方なく、飾り棚に埃まみれになっているのを、持ち出してきた。埃をぬぐう。このアルバムは、センスの良いカナちゃんが、パリのノミの市で見つけてきたものを、革細工職人のところへ修理に出して、綺麗に直したものだった。
「これなんて書いてあるんですか?」
 赤い革に、さらさらと筆記体でタイトルが書いてある。「フランス語で、“わたしたちの小さなお家”という意味よ」
「わあ、かわいい名前ですね。中、拝見しても良いですか」
「あなた、他の配送の仕事は」たいていの配送会社なんて、いつも忙しそうに走り回っているのに、そんなのでいいのだろうかと心配になる。
「今日はこれでおしまいなんです。後は社長が、わたしの分も頑張るので大丈夫です」と、目を細めて笑う。
 アルバムを開けると、真っ先に目を引くのは三人で旅行したときの写真だった。
 そうだ、これは、テンコちゃん、祝・離婚記念の旅行だ。
 三人とも、伊豆いずのホテルをバックにはしゃいで笑っている。
「これがテンコちゃん」と指をさした。テンコちゃんが一番背が高くて、言動もおねえさんぽく、わたしたちの頼れるリーダーだった。眉毛もりりしくて、その下に涼しげな目があり、学生時代は後輩の女子からもすごく人気があった。この写真を撮った当時は、まだ五十代後半だけれども、いつも通り姿勢もぴっと良い。“勤めていた事務所を早期退職するついでに、主婦業も早期退職することにしたの”なんて言っていたっけ。一番勉強ができて、早口で要領も良くて、何をするのも仲間うちで一番早かった。彼氏ができるのも、車の免許を取るのも、結婚もそう。パソコンに触るのも、携帯電話を持ち始めたのも、いつも一番乗りはテンコちゃんだった。そして、亡くなるのも……。
「このテンコちゃんは結婚したんだけど、歯科医の旦那さんとの仲は冷え切っていて、熟年離婚したの。これは、離婚記念旅行にね、三人で、ぱーっと温泉に」
「へえ。離婚記念ってのも面白いですね」この七星とかいう配達人は、頭が悪いのか何なのか、脳と口とが直結しているらしく、そのまま腹の中身を出してくる。まあ、暇潰しの話し相手としては悪くない。
「結婚するより、離婚するのってパワーが要るじゃない、だから、ねぎらいの意味もあっての旅行よ。その伊豆旅行中に、テンコちゃんがね、“離婚が成立したから家を出るんだけど、これからどこに住もうかな”って話しだしたのよ。ほら、五十代だから、人生長いにしろ、つい棲家すみかになるわけじゃない。田舎に大きな家を……いや都心にマンションを……軽井沢かるいざわはどう? いや温泉が出たら最高じゃない? とかね、みんなで遅くまでワイワイ話して」
 七星が身を乗り出してきた。
「温泉地良いですよねえ。わたしツーリングが趣味で、全国を回ってるんですけど、温泉大好きです。温泉地に住むの憧れます」などと言っている。
「で、まあ、いろいろ考えているうちに、カナちゃんのマンションも、そろそろ建て替え時だとわかって」
 写真の、カナちゃんを指さす。カナちゃんはテンコちゃんとは対照的で、大きくて優しそうな目に、凝ったデザインの眼鏡。思い切りよく短くした前髪で、いつもふんわりとした笑みを浮かべていた。小柄なこともあって、歳をとってもどこか女の子らしい。カナちゃんはおっとりしたお嬢様で、フランスに留学をしたこともあり、向こうの人と大恋愛もしたのだけれど、結局、文化の違いか結婚観の違いか、うまくいかなくなって、ひとりで帰ってきた。その後、大学でフランス語の非常勤講師や通訳をやりながら、ずっと独り身で暮らしていた。写真のカナちゃんも同じく五十代後半だけれど、街ではっと目を引くような、はっきりしたピンクを自信たっぷりに着こなしていて、スカーフは鮮やかな薄緑。やっぱりセンスから違うと思っていた。歳を取ってからの方が、ずっとおしゃれだった。
「そしたらね、テンコちゃんが、“ひらめいた! わたしたち三人で、ひとつの家に住むのはどう?”って」
 そのとき、ぱあっと目の前が開けたような気がした。気が合った女同士、ひとつ屋根の下、三人で暮らす。自分も夫の死後独り身、テンコちゃんはひとりっ子で両親とは死別、子供もいない。カナちゃんは姉がいたけれど、先日亡くなった。となると、ここに三人、独り身の女が揃ったことになる。遠縁の親戚はいても、子供や親類と呼べる人はいないので、相続の面でも、そうややこしくはならないだろう。テンコちゃんが行政書士なので、そういった相続問題に関しては詳しいはず。夢物語ではなくて、本当に、三人の家ができるかもしれない。
「それからは早かった。カナちゃんもマンションを売却して、わたしも住んでいたアパートを処分した。古いけれど、風情のある家を共同購入して、綺麗にリフォームしたのがこの家。遺言書もきちんと書いて、もし誰かが亡くなっても、もめないように先手を打った。この小さな家はね、三人のお城だったの」 
 遺言書を書いたときには、まだまだ先の話だけど、一応ね、というくらいの心持ちで、死なんて、遠い未来の話だった。実感さえ湧いていなかった。
 まさか、自分がこの家にひとり残されるなんて、想像もしていなかった。
「いいですねえ、女友達と住むの、すごく楽しそう」
「そりゃそうよ。歳をとるとわかるわ、気の合う友人がどれだけ貴重か。わたしは、それまでの人生より、六十から、みんなでこの家に住みだした十数年間の方が、ずっとずっと楽しかった。人生で一番楽しかった。青春がいつかって訊かれたら、六十代って言うわ」
 今は荒れ果てて臭う家にも、花の良い香りが漂っていた頃があったのだ。三人とも好きな花が違っていて、それぞれ季節の花を庭に植えるのを楽しみにしていた。朝一番にみんなで水をやり、はさみで切ってアンティークの花瓶に飾りつける。花を生けるのが一番上手なのはあなたね、と言われていた。三人分の花を、どうやって生けようか考える時間も好きだった。一本一本個性のある花が、三種類集まったら、色も香りも補い合って、もっと綺麗に見える。この小さな家の三人組のように。
 どうして花は、そのままの姿を保ってくれないのだろう。花瓶から傷んだ花を一本ずつ取り去っていき、最後の花が傷んだらみんなゴミ箱へ。花の記憶だけは残るけれど、手元には何も残らない。
 元はとても綺麗な花だったものが、茶色くしおれてゴミ箱に重なっていく。
 思い出が綺麗な分、それがうしなわれたとき、こんな風に胸に穴が開いたようになるとは思わなかった。
 最初からひとりならば、こんな風に思うこともなかったのだろうか。
 歴史に名を残すわけでもなく、仕事で何か特別な功績を残したわけでもなく、今や家族もいない。今、この世から突然いなくなったところで、誰も悲しまない。いなくなったことすら、しばらく気付かれないかもしれない。
 いったい、自分は何のために生きてきたのだろう。
 残り時間が切れるまで、今はただ死を待つだけの毎日だ。そんな風に生きることに、意味なんてあるのだろうか。
 毎日、コンビニのできあいのパンを、パックから噛みちぎるようにして食べて、日々を食いつないでいる。むさぼり食う姿は、近所の子供が言う通り、オニババそのものだ。
 わたしたちの美しかった庭は、もう、雑草で何も見えない。
 何もかもめちゃくちゃになってしまった。
 何もかも。 
 それは、ふたりがいなくなる前の、ほんのささいなもめ事――いや、実のところ、もめ事にまでも至らなかった。あのとき、自分の心の中に言いたいことを全部飲み込んで、ふたりの前では口をつぐんだのだから――その、ある出来事が尾を引いているせいかもしれなかった。
 ふたりの前で、いっそ自分の思いを、全部ぶちまければよかったのだろうか。あのとき自分の心に刺さったトゲのようなものが、いつまでも抜けないままでいる。ふたりが亡くなってしまった今も。
「あの……」七星がのぞき込む。「大丈夫、ですか」
 はっと我に返った。
 広げられたアルバムの中では、テンコちゃんもカナちゃんも、昔のままで笑っている。
「こうやって見ると、本当に三姉妹みたいですよね」七星が言った。
「……周りの人には、本当の三姉妹だと思われてたみたい。長女がテンコちゃん、次女がカナちゃん。そして末っ子がわたし。わたしは、みんなからゆっくりのユウちゃんって呼ばれてた。三人の仲では何でも一番遅かったから」
 アルバムをめくっていく。三人で食べる朝食、温泉旅行、ホテルの鏡越しに、顔パックした三人組で写った写真もある。着物でめかし込んだ写真、庭で好きな花を植えた後の写真、ケーキを焼いて失敗して、煎餅みたいになってしまったときの写真……。
 十年間あまりの、いろんな思い出が詰まっていた。

 

「天国からの宅配便(第1話 わたしたちの小さなお家)」は、全6回で連日公開予定