都内でテレビの仕事をしています。
 ──と言われたら、大抵の人が思い浮かべるのは華やかできらびやかな世界だろう。
 二十四時間眠らないテレビ局、巨大なビル内を行き交うのは普段なら画面越しにしか見ることの敵わない芸能人の方々、彼らの間を縫うように秒刻みのスケジュールで駆けずり回るテレビマンたち。私もこの仕事に就くまではそんな世界を想像していた。
 日本中の人々が報道、情報、娯楽を求めて見つめるテレビの世界で、私もいつか、誰かの心に残る番組を作りたい。そんな思いでこの業界に飛び込んだ。
 しかし現実は地味だった。私が今いるのは西新宿にあるビルの五階、灰色のロッカーが立ち並ぶ女子ロッカールームだ。他に人がいないのをいいことに床にしゃがみ込み、持参したケーク・サレを食べている。いわゆるお惣菜系ケーキで、味わいはキッシュに近いけどタルト台は使わず、どっしりした生地で焼き上げる逸品だ。オフィスや休憩室へ行けばちゃんと机や椅子がある、だけどそこでのんびり朝ご飯を食べられる保証はない。
「浅生、食べながらでいいからこの企画書に目通しといてくれる?」
 と、朝から笑顔全開のプロデューサーに分厚い資料を手渡されたり、
「暇なら今から編集室来てくれ。前回の収録分のナレーション原稿書いて欲しいんだ」
 と、仕事中毒なディレクターに有無を言わさず連れて行かれたり、
「美味しそうっすね浅生さん! 一口! 一口ください!」
 と、年下のチーフADくんにツバメの雛みたいにねだられたりするのは困る。せっかく美味しく作れたケーク・サレの味が台無しになっては嫌なので、こうしてこそこそ食べていた。
 それにしても我ながらいい出来映えだ。フライパンに生地を流し込んで焼き上げたケーク・サレは冷めてもしっとりとしていて、端っこはサクッと軽い歯ごたえなのもいい。適当な大きさに切ったパプリカやズッキーニのごろごろ感も食べごたえあって美味しいし、塩味の生地に野菜の自然な甘さがよく合っている。
 食後に水筒に入れてきた温かい紅茶を飲むと、気分はすっかりピクニックだ。たとえ周りに立っているのが緑の葉を茂らせる木々じゃなくて、減価償却されまくった年季入りロッカーの群れだとしても。
「……ごちそうさまでした」
 手を合わせて立ち上がり、自分のロッカーに据えつけてある鏡を覗く。
 新人ADだった頃はこんなふうに、職場で鏡を見る余裕はなかった。常に全力疾走するせいで髪はぼさぼさ、メイクは落ちたらそのままだ。今みたいにリップを塗り直したり髪を結わえ直す時間があるのは、私が多少出世した証でもあるのだろう。
 もちろん変わったのはそれだけじゃない。三十代半ばともなればさすがに疲れが誤魔化せず、顔に出ている日だってある。今だって、鏡に映る顔は昨夜の寝不足を引きずって、随分くたびれているように見えた。
 だからあえて、口角を上げる。
「……よし」
 気合を入れつつ微笑めば、三十五年の付き合いになる顔もなかなか悪くなかった。あいにく美人と言われたことはないものの、優しそうとはよく言われる。この間もプロデューサーの千賀さんに番組予算のことで苦言を呈したのに、全部言い終えた後で向こうから返ってきた言葉は『なんか今日はご機嫌だね!』だった。
 垂れ目、丸顔、下がり眉と確かに威厳とは程遠い。父は『霧歌は年々母さんに似てくる』と言うし、私も鏡の中の自分に母の面影を見ることがある。そういう意味でも、私はこの顔が好きだ。
「よしっ」
 もう一度気合を入れた私の背後で、ロッカールームのドアが開く。
「あっ、浅生さん。おはようございます!」
 今年度の新人AD、古峰蒼衣ちゃんが鏡越しに私を見て、ぴょこんと頭を下げてきた。入社したての頃はきれいな丸みボブだった彼女も、今は伸びた髪を小鳥のしっぽみたいに結んでいる。カーゴパンツに左右非対称の紋様を描くがごとく貼りつけたバミリテープもいかにも新人ADさんらしい。あどけなさの残る顔立ちは連日の激務にもかかわらずつやつやしていて、私の目には眩しいくらいだ。
「おはよう、今日も頑張ろうね」
 元気をもらって振り返った私に、古峰ちゃんはもう一度頭を下げる。
「すみませんっ! 手が空いてたら大至急お願いしたいことがあって──」
 ──よかった、朝ご飯済ませておいて。
 一呼吸置いてから、私は大きく頷いた。
「いいよ、任せて!」

 私たちの職場はいわゆる番組制作会社で、株式会社チルエイトという。チルアウトとクリエイトを足してチルエイト、が由来だ。社員は私を含めて二十人前後、西新宿駅から徒歩五分という駅近ビルの五、六階にオフィスを構えている。最近では関東ローカルのお昼のワイドショーや深夜バラエティーの番組制作が主な業務だった。
 番組制作会社とは簡単に言うとテレビ局の下請けで、テレビ番組やその中のコーナーなどの企画から撮影、編集まで請け負う。チルエイトは小規模ではあるものの自前のスタジオと編集室を備えており、うちだけで完全パッケージ化──つまりテレビ局側へのテープ納品までできるのが売りだった。
 テレビのお仕事には華やかなイメージがあるだろうけど、大抵の制作会社の業務は地味だ。芸能人にそれほど会えるわけでもないし、テレビ局にさえそうそう行かない。ロケのない日は一日中内勤でこつこつ業務を進めることになる。それでいてスケジュール管理は厳しく、テレビ局が要求する締め切りに追われる毎日だから、ここだけの話、離職率はそこそこ高い。お給料も決して高くはない。いいところは完全能力主義なので、女だから云々とは決して言われないこと、くらいかな。
 私は現在、アシスタントプロデューサーを務めていた。APの業務は多岐にわたり、出演者との交渉やスケジュールの調整、ロケ地への問い合わせや収録時のセットの発注、番組予算の編成、その他撮影に必要な大小さまざまな道具の管理なども担当している。収録に携わるディレクターやAD、カメラやVEなどの技術スタッフをまとめて『撮影班』と呼んでいるけど、私の仕事は撮影班のみんなが滞りなく収録できるように陰日向になって補佐することだった。もっともチルエイトの場合、純粋に人手不足でもあるから収録にも毎回駆り出されているし、時には編集室でのデータ編集作業にも付き合う。私の場合はディレクター経験もあるので、いざとなればカメラを回して撮影だってする。いわば何でも屋の立ち位置だった。
 現在の担当番組は『文山遼生のマヨナカキッチン』、関東ローカル六局で放送されている深夜のグルメバラエティーだ。俳優の文山遼生が関東地方の名産品などを買い求め、キッチンで調理する。文山さんは現在三十七歳、容姿と実力を兼ね備えた俳優として名を馳せており、過去には映画やドラマなどにも多数出演されている。そんな彼を出演者に据え、いわゆるF1層──二十歳から三十四歳までの働く女性をターゲットにしていた。
 本日はその調理パートの撮影が六階のスタジオで行われる予定、だけど──。