仕事を終えて会社を出るのは、いつも遅い時間になる。
とはいえ小田急線で町田まで帰る私は、遅くとも日付が変わる前に新宿駅へ駆け込まなくてはならない。仕事帰りの人とほろ酔いの人が半々くらいの新宿駅を抜け、朝よりはいくらか空いている小田急線に三十分揺られて帰る。町田駅は遅い時間でも煌々と明かりが点っていて、駅構内こそ狭いものの行き交う人の量は新宿と遜色ないほど多い。
駅から更にバスに乗るから、実質的な通勤時間は一時間超だ。職場の人に町田に住んでいると話すと、声を揃えて『遠くない?』と言われる。二十三区内に住んだ方が通勤は便利だとわかっていたけど、部屋探しの時、どうしても譲れない条件があって町田に決めた。
一つは、二十三区内よりも安い家賃で広い部屋が借りられること。
もう一つは、妹の通学に便利なこと、だった。
「ただいまー……」
帰宅途中にスーパーに立ち寄り、町田と相模原の境界線、境川のすぐ傍に建つアパートに帰ってきたのは午後十時少し前だ。これでも今夜は早い方だった。明かりの消えた部屋の中に声を掛けても返答はなく、私は黙って電気を点ける。
妹と暮らしていたのは去年までのことなのに、未だに声を掛けてしまう習慣が抜けていない。八つ年が離れた妹の華絵は現在横浜で就職していて、おまけに彼氏と同棲中、とても幸せそうにしている。2LDKの部屋に今は私が独り暮らしで、近いうちに引っ越したいなという願望だけはずっとあった。踏み切れないのは単に仕事が忙しいからだ。
朝から働き詰めではあったけど、着替えて手を洗ったらキッチンへ向かう。
ちゃんと食べないと疲れも取れないし、何より今日の収録の記憶が残っているうちに作っておきたい。千賀さんの前で大見得を切った以上、次回放送に間に合うように『旬のキノコのバター醤油パスタ』の物撮りを済ませておかねばならない。
『本日は旬のキノコを使ったパスタを作ります。栃木県産のキノコをたっぷり使用して、ランチにもお夜食にもぴったりなお手軽パスタを仕上げますよ』
収録時の文山さんのコメントを思い起こしつつ、私はキッチンに立つ。
私の料理の仕方は、文山さんとは少し違う。
まず、うちのキッチンには包丁がない。
代わりに取り出したるは清潔なキッチンバサミ、私はこいつで大抵の食材を下ごしらえする。お肉もお魚もお野菜も、ほとんどをこれ一本で食べやすく切ることができるから便利だ。昔からずぼらというか適当な性分で、台所に初めて立った時、いろんな食材をハサミで切れることに気づいてしまった。それからはもう包丁なんて技術の必要な刃物は使っていない。
『キノコは石突きを切り落とします。もったいないので、ぎりぎり根元で切りましょう』
記憶を手繰りつつ、私もキノコの石突きを切り落とす。キッチンバサミでシメジ、エノキダケ、マイタケとぱちんぱちん切っていく。キノコは野菜類よりも柔らかくて切りやすいから好みだった。
それが終わったら豚肉も切る。普段の調理では切り落としとして売られているお肉をそのまま鍋にぶち込むこともあるけど、今回は物撮りが控えているので上品に、一口サイズに切っておこう。切れ味鋭いキッチンバサミはサシが入っていようが筋が多かろうが関係なく、豚肉の下ごしらえもものの数秒で完了した。
「おっと、パスタも茹でないと」
文山さんがこの時点でお湯を沸かしていたのを思い出し、慌てて用意をする。といっても私は鍋なんて使わない。電子レンジでパスタが作れる容器に、
「ふんっ」
力任せに捻り折ったパスタと水を入れて、あとはタイマーをセットするだけだ。
電子レンジにパスタを任せている間、ソース作りに戻ろう。フライパンにサラダ油を垂らしたら、キノコと豚肉をいっぺんに入れて炒める。火が通ったキノコがしんなりとして、豚肉の色がしっかり変わったら、いよいよ調味料を投入だ。
『調味料はシンプルに醤油とバターだけです。先に醤油を入れて、水分を飛ばしたらバターを絡めてください』
熱したフライパンに醤油を一さじ入れると、たちまちじゅうっと蒸発しそうな音がする。ほんのり焦げてくるいい匂いまでして、一層お腹が空いてきた。そこにバターもひとかけ入れたら、狭いキッチンはバター醤油の背徳的な香りでいっぱいになってしまう。
電子レンジが終了のアラームを鳴らしたら、あとはお湯を捨てて盛りつければ、ついに完成──。
『最後に大葉の千切りを載せたら──本日のメニュー、旬のキノコのバター醤油パスタの完成です』
そうだ、最後に大葉を載せないと。
洗ったキッチンバサミで大葉を細く切って、パスタの上に散らせば、今日収録で見たものと遜色ないパスタの出来上がりだ。
「いや、『遜色ない』は言い過ぎか……」
よくよく見れば大葉は一部切りきれていなくて繋がっているし、キノコや豚肉の照りも文山さん作パスタの方がきれいだった。もちろんそれはスタジオの素晴らしいライティング設備と、一般家庭の平凡な照明との違いもあるだろうから、見劣りするのは致し方ない。
それに多少見劣りしようが、ぺこぺこのお腹は今すぐ食べたいと言っている。
しかしその前に物撮りだ。私はデジカメを鞄から取り出し、撮影の準備を始める。
今回は事前にカメラの来島さんから、料理の美味しそうな撮り方を聞いておいた。
『湯気の立つ料理は低めの室温と高めの湿度で撮るのがいい。理想を言えば黒背景が一番適している。せっかくの湯気が消えたら元も子もないので、スピード感が肝要だ』
本職のありがたいお言葉通り、エアコンで室温を下げてみる。黒背景になるものが見当たらなくて、やむなくデスクトップパソコンのディスプレイを背景にした。デジカメを構えて、立て続けに何枚、何十枚と撮る。キノコと豚肉をたっぷり載せたパスタからは白い湯気がゆらゆらと立ちのぼり、写真には写せない美味しそうな匂いも漂わせていた。照明を斜めに当てて照りのよさを表現すれば、シズル感もばっちりの被写体が出来上がる。
「……うん、いい感じ」
撮影後の画像フォルダを確認すると、湯気の形が美しく写っているものが何枚かあった。これだけ撮っておけばホームページに載せるに相応しいものもあるだろうし、いい感じに加工もしてもらえるだろう。
一仕事終え、リビングに置いたローテーブルにパスタとお茶と箸を運び、一人座って手を合わせた。
「いただきまーす」
誰も返事をしないのはわかっているけど、独り言を口にせずにはいられない。それが独り暮らしだ。
散々焦らされた上でようやくありつけた『豚肉とキノコのバター醤油パスタ』は実に美味しかった。濃厚なバター醤油がこりこり食感のキノコや柔らかい豚肉とよく絡み、パスタが進む味わいだ。散らした大葉の香り高さもいいアクセントになっていて、こってりめなのにいくら食べても飽きが来ない。夜食にしては背徳的なメニューかもしれないが、これも仕事のうちだからいいのだ。食べてしまうのだ。
パスタをぐいぐい減らしつつ、思い浮かぶのは母の顔だった。