プロローグ

 

 ──今日の一位は双子座のあなた。いつも通りを心がけてハッピーな一日を!

 スマホで占いをチェックしてから、塩見香子は家を出た。マンション前の集積所に燃えるゴミを持っていったら、この時間によくかち合う金髪の若い女性が、ゴミ袋を抱えてやってきた。

 口角を緩やかにつり上げたまま、香子はゴミ袋を指さす。

「今日、燃えるゴミの日ですよ?」

 女性が捨てたゴミ袋の中には、ペットボトルが何本も見えた。分別していないのが丸わかりだから、きっと回収してもらえない。

「あんたに関係ないじゃん」

 色褪せた金髪を掻き上げて、彼女は足早に去っていく。

「あらら」

 香子はゴミ袋からペットボトルを引っ張り出した。ペットボトルは中身がほんのちょっと残ってるし、ラベルも剥がしてないし、キャップもそのまま。

「え、香子ちゃん、それ持って帰るの?」

 他人のゴミを手に立ち上がった香子に、ゴミ出しにやってきたマンションの大家の牧野さんがギョッと目を瞠る。皺だらけの細い掌で口を覆って、香子の顔とゴミを見比べた。

「このままじゃ回収してもらえないですし。明日、ペットボトルの回収日なので」

 それにしたって、他人様のゴミを……。牧野さんはそんな顔をしていた。香子は気にせず一礼してマンションに戻った。

「優しいのねえ、香子ちゃん」

 そんな呟きが飛んできて、思わずふふっと声を上げて笑った。

 

 出勤前に会社の側のカフェに入った。オフィス街のど真ん中にある店だから、今の時間はレジ前に会社員達の列ができている。

 期間限定のフレーバーコーヒーのPOPを眺めていたら、鼠色の背広を着た男性が素知らぬ顔で香子の前に割り込んできた。

 香子の後ろには、もう五人もお客が並んでいる。全員が割り込まれたことに気づいて、香子に対し「一番前にいるんだから、あなたが何か言ってよ」という視線を向けてきた。

 香子は何も言わず列を外れた。そのまま最後尾に並び直す。これでプラスマイナスゼロだから、みんな納得だろう。

 なのに、前に並ぶ五人は、得体の知れないものでも見るような顔で香子を振り返る。割り込みをした男性にいたっては、香子が最後尾に回ったことなど全く気づかない様子でコーヒーを注文していた。若い女性店員に「今日も可愛いね」なんてナチュラルなセクハラをして、足取り軽く店を出ていった。

 

 玉雪出版が発行する少女漫画雑誌「月刊ペルル」の編集部は午前中にもかかわらず賑やかだった。あちこちのデスクで原稿や本が山を作る中、ある編集者は眉間に皺を寄せてノートPCを睨みつけ、またある編集者は……やはり眉間に皺を寄せてどこかに電話をかけている。

 なにせ、今日は月刊ペルルの入稿日──雑誌一冊分の原稿を、全部揃えて刷所に送らねばならぬ日なのだから。

 デスクでノートPCを開いて、メールをチェックして、香子は思わず「あはは」と笑いをこぼした。その声を、側のデスクを使う後輩の女性編集者・川上は聞き逃さなかった。

「塩見さん、その様子だと……」

「アオヤマ先生、また〆切破っちゃった」

 メールをもう一度チェックした。何度確認したところで、香子が担当する新人漫画家で、月刊ペルルで連載中のアオヤマ樹里から原稿は届いていない。「朝までには必ず送る」と昨夜のメールには書いてあったのに。

 試しにアオヤマに電話をかけてみた。スマホを耳にやった瞬間、機械的な「おかけになった電話番号への通話は、おつなぎできません」というメッセージが聞こえた。

「あ、着信拒否されてるね」

「いやいや、塩見さん、笑ってる場合ですか……? 〆切、一昨日ですよっ?」

 笑っている場合ではもちろんないのだが、かといって怒っても仕方がない。

「塩見ぃ、アオヤマ先生は今月もか」

 川上の声で何があったかを察したらしい月刊ペルル編集長の金沢が、大柄な体を揺らして(でも恐る恐るという顔で)香子のもとにやってくる。大学時代はラグビー部だったらしく五十歳になってもその名残が体格から窺える。スポーツ雑誌の編集者にしか見えないが、入社当時から少女漫画編集一筋のベテランだ。

「はい、今月もみたいです」

「困ったもんだなあ……」

 元ラガーマンとは思えぬ弱々しい声で金沢は肩を竦める。香子は慌てて「まあまあ、先月もなんとかなりましたから」と続けた。

 

 正午ちょうどに、大王印刷の営業が編集部に来た。漫画の原稿はデジタルがほとんどだが、数少ない手書き原稿を受け取り、ついでに遅れている作品の担当者に圧をかけるために。

「また塩見さんの担当作ですか」

 営業の矢敷は香子より一回り年上の男性だ。三年前、香子が新卒で編集部に配属された頃、月刊ペルルの担当になった。

 当時は物静かで落ち着いた営業担当だと思ったが今では、編集部の全員から「〆切の鬼」と呼ばれるようになっていた。

 その〆切の鬼は、真っ直ぐ香子のもとにやってくる。香子はすかさず席を立って「マドレーヌ食べます?」と差し入れでもらった焼き菓子を差し出した。

「入稿日に原稿すら上がっていないの、今月も塩見さんだけなんですが」

 マドレーヌを一瞥すらせず、矢敷は酷く冷淡な目で香子を見下ろす。「今月も」の部分にかなりの苛立ちが籠もっていた。

「今月だけでなく、先月もその前もですよね」

「あはは……ていうか、連載の初回からこの調子なので、かれこれ半年ですね」

「だったら、〆切を早めに設定するとか、もっと真面目に催促するとか、先回りして対策を打とうと思わないんですか。それも編集者の仕事じゃないんですか」

「すみません、今日中には送りますので」

 この人は〆切を守らない人間がとにかく嫌いなのだ。漫画家から原稿を回収できていないのに、笑顔で焼き菓子を差し出す香子に腹が立つのも、無理はない。

「僕が終電帰りになろうと月の残業時間がかさもうと構わないんですが、印刷所で原稿を待っているスタッフ達にも迷惑がかかっているんです。塩見さんからすれば下流工程の人間でしょうが、そういう人間の存在を軽んじるのはいかがかと思います」

「はい、ごもっともです。できる限り急ぎますので」

 香子が深々と頭を下げたら、見かねた金沢編集長が「大王印刷さん、いつもごめんね」と応援に来てくれた。矢敷は鼻を鳴らし、「原稿お待ちしてます」と言い残して帰っていった。

 

「今日の矢敷さん、怖すぎませんでした?」

 遅めのランチに出たら、川上が真っ先にそんなことを言った。明太子パスタを口に運びながら、香子は首を横に振る。

「しょうがないよ、だって遅れてるんだもん。遅れてるどころか作家は音信不通だし」

「それにしたって怖すぎませんか? 編集長より恐れられてるじゃないですか」

 怒らせてるのは私だから……言いかけた香子の声を蹴飛ばすように、酷く険しい声が飛んできた。賑やかで楽しげなランチ時の空気が、その声色だけで途端に緊張する。

「だから、なんで私の注文したお料理だけこんなに遅いのって聞いてるの、わかる?」

 近くのテーブルに、中年女性のグループが座っていた。四人組で、三人のもとにはもう料理が届いているのに、店員を呼び止めた女性にだけ、料理がない。

「申し訳ございません。お客様がご注文なさったドリアは、提供までにお時間をいただいておりまして……」

 ぺこぺこと頭を下げる店員を横目に、香子はランチメニューを見た。

シーフードドリアの写真の下には、赤い文字で大きく「お時間をいただきます」と書いてある。実は香子も最初にドリアを頼もうとして、時間がかかるならとパスタに変えたのだ。

「だから、急いでるから早くって言ったじゃない。あなた、『はい』って言ったよね?」

「『できる限り急ぎます』とは言いましたが、確実に早くできるというわけでは……」

「え、何? それ口答えってこと? お客様に口答えするの?」

 女性はお構いなしに店員を責め続け、他の三人も止めようとしない。むしろ「嫌な店ね、怖いわ」という目で店員を睨みつけている。

「うわっ、立派なカスハラじゃないですか。何もランチの席でやらなくてもいいのに」

 ねえ、と香子が頷いたとき、店長らしき男性が出てきて頭を下げ、その場は収まった。間を置かずドリアは運ばれてきて、女性客は何事もなかったかのように楽しくお喋りを始めた。

 帰り際、香子達がレジに向かうと、先ほどの店長が対応してくれた。

「すみません、別々にお会計できますか?」

 香子が尋ねたら、店長はあからさまに嫌な顔をして「混んでるので困ります」と答えた。

「そうですよね、すみません」

 にっこり微笑んで、香子は二人分をまとめて支払った。店を出た直後に「あの態度は酷くないですか?」と怒る川上を、まあまあと宥める。理不尽なクレームに頭を下げさせられて、イライラしてたのよ、と。

 

〈担当の塩見さんが鬼のように電話してきて恐怖を感じます〉

 ランチから戻ってすぐ、編集長がプリントして見せてきたメールの文面に、香子は「あらら」と笑いながら肩を落とした。

 今後同じことが続いたりするようなら、SNSで公開させていただきます──メールはそんな一文で終わっていた。差出人は今朝から音信不通のアオヤマ樹里だ。編集長の金沢宛で、CCに香子は入っていない。

「このご時世、一番の脅し文句ですよね、SNSで公開させていただきます、って」

 肩を落とした香子の横で、金沢の眉尻が勢いよく下がる。「こちらに非があろうとなかろうと、な」と彼も溜め息をついた。

「うわ、いますよね〜、気に入らないことがあるとすぐ相手の上司に苦情送る人。それでダメだったらSNSで公開して世間の皆様に怒ってもらおうって魂胆ですか」

 香子の手元を覗き込んだ川上が顔を顰める。編集長の金沢も同じ顔をしていた。

「少し様子を見て、ダメだったら謝罪に伺いましょうか。原稿の進捗も伺いたいですし」

 ふふっと微笑んで、香子は首を傾げた。「塩見さん、仏対応が過ぎますよ」と川上が呆れている。さっきまとめて支払ったランチ代を、彼女からもらっていないことに気づいた。

 

「出てくれないねえ」

 金沢の溜め息と共に、何度目かのインターホンの音がマンションの外廊下に鳴り響く。でも目の前のドアが開くことはない。

「アオヤマ先生、月刊ペルルの塩見です〜」

 ノックして呼びかけても、やはり応答はない。昼間届いたアオヤマからのメールに金沢が返事をしても返信はなく、夜になっても変わらず音信不通のままだった。結局、謝罪の品としてドーナツを買い、金沢と共にこうしてやってきた。ただのドーナツじゃない。東京駅でしか売っていない、アオヤマの大好物だ。

「部屋の電気、点いてたよな?」

「ええ、点いてましたね」

「先月もこんな感じ?」

「連載の始まった半年前からずっとです」

 スマホを確認するが、アオヤマからの連絡はない。時刻は午後九時。画面にはでかでかと「月刊ペルル6月号 入稿日(これ以上は無理!)」とリマインダーが表示されていた。

「塩見、どうする?」

「編集者は最終的に原稿を待つことしかできないと、編集長もよく言うじゃないですか」

「まあ、そうなんだけど、それにしても……」

 お前は優しすぎ……いや、甘すぎじゃないか。編集長の語尾に、そんな本音が滲んで聞こえる。後輩の川上も、大王印刷の矢敷も、他の編集達も、きっと同じことを思っている。

 もう一度、穏やかにノックをして、香子は中にいるアオヤマに呼びかけた。

「アオヤマ先生、怖い思いをさせてしまって申し訳ございませんでした。でも、私はアオヤマ先生の連載、すごく楽しみにしているんです。お詫びにもなりませんが、東京駅でドーナツを買ってきたんで、ドアのところに置いていきますね」

 それだけ伝えて、ドーナツの紙袋をドアノブに引っかけた。金沢も「うちの塩見が申し訳ございませんでした」と謝罪し、香子と共にマンションを出た。

 アオヤマのSNSが更新されていると気づいたのは、その直後だった。

〈今月も順調に〆切を破ったのでそろそろ担当が家に突撃してきそう!〉

 数分前、手描きのイラストつきでそんな投稿がされていた。フォロワー達からは「頑張ってください!」とコメントが寄せられている。

「これ以上続くようなら、考えた方がいいな」

「アオヤマ先生は家に突撃すると原稿をあげてくれるんです。毎月そうだから、大丈夫ですよ」

「塩見……よくもまあこの状況でずっと笑顔でいられるな」

「だって、怒っても仕方ないですし」

「それはそうなんだが……俺は塩見の〈そういうところ〉が年々羨ましくなってくるよ。編集長なんてやってるとさあ、ブチッと行っちゃいそうになることが毎日のように」

 思わず足を止めた。アスファルトにパンプスの踵が引っかかり、ガリッと歪な音がした。

「〈そういうところ〉って、どういうところですか?」

 笑顔を崩すことなく、編集長に問いかけた。「喜怒哀楽の怒がないところだよ」と彼はなんてことない様子で答える。

「私、喜怒哀楽の怒がないように見えます?」

 自分の顔を指さして、もう一度問いかける。香子を見つめたまま数回瞬きをしたと思ったら、金沢は肩を震わせて噴き出した。

「塩見、お前ほど心穏やかな人間に、俺は五十年生きてきて会ったことがないぞ」

 まるで、それが塩見香子という人間の最大の美徳であるかのように、金沢は笑っていた。

 香子と一緒に会社に戻ろうとする金沢に「あとは私が何とかしますので」と丁重な断りを入れ、香子は一人、会社のある神保町へ向かう地下鉄に乗った。

 

「恋するブタハナ」は全2回で連日公開予定