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「こちら、ご依頼のあった判例をまとめておきました」
「ああ、ありがとう」
 差し出された文書を受け取ったとき、ふたりの指先が軽くふれあう。その瞬間、沙貴がわずかにうろたえたのを、忠雄は見逃さなかった。
(ちょっと純情すぎるんだよな……)
 忠雄にとって、沙貴は娘でもおかしくないぐらいの年である。そして彼女から見れば、こちらは異性として意識されようのないオジサンなのに、時おりこういう反応を示すのだ。
 どうやら恋愛経験がとぼしく、男に慣れていないと見える。おかげで、わざとふれたわけではないのに罪悪感を覚えた。
 とは言え、沙貴は誰に対してもこうなのではない。
 裁判官だからといって、必ずしも高潔な人間とは限らない。中にはセクハラじみた言動をする者もいる。そいつが沙貴の容姿に関して軽口を叩いた結果、ちょっとした騒動になったのは去年のことである。
 彼は判事として不適格だと、沙貴は地裁の上層部に訴えた。感情的にならず、事実のみを正確に述べ、録音した証拠音声も添えた。その判事はセクハラの常習者だったから、証拠を得るため周到に準備していたようだ。
 それでも上が対応を渋ると、彼女はこのことをメディアに告発するとまで強く出た。そこまで言われたら、何もしないでは済まされない。くだんの判事が厳重注意され、謝罪することで事なきを得た。
 忠雄とてセクハラを容認するつもりはないし、くだんの判事も目に余るところがあったから、正直いい薬になるだろうと思った。
 ただ、そのせいで沙貴が、腫れ物にさわるような扱いを受けるようになったのが気の毒である。そうなる前に、自分が何か手を打つべきだったかもしれないと反省もした。
 あの騒動のあとも、沙貴への評価は変わらない。他の女性職員が嫌な思いをしなくて済むようになったのは、彼女のおかげなのだから。むしろ、怯むことのない正義感と、泣き寝入りしない芯の強さに好感を抱き、信頼が揺るぎないものになったほどである。
 そうやって目をかけているから、沙貴もこちらを男として意識するようになったのだろうか。ふと思いかけたものの、そんなことはないかと、胸の内でかぶりを振る。
「あの、それから──」
 不意に、彼女が思い詰めた顔を見せたものだからドキッとする。考えていたことを悟られたのかと思ったのだ。
「例の賠償金ですけど、まったく支払われていません」
 その報告だけで、何の件か理解する。
「そうか……」
 忠雄の表情も、自然と険しくなった。
 五年前、ひとりの少女が自ら命を絶った。まだ十七歳であった。
 原因は、同級生らによるいじめである。いや、いじめなんてなま易しいものではなかった。
 少女──柳瀬佳帆は、自慰行為をするよう強要され、その姿を撮影された。さらに、その場に呼ばれた少年にレイプされたのである。明らかに性暴力であり、犯罪以外の何ものでもない。
 にもかかわらず、多くのいじめ事案がそうであるように、この事件も全貌が明らかにされるまでに長くかかった。
 遺書が残されていたことから、佳帆の両親は事実を解明するよう学校に訴えた。けれど、自己保身に走る学校側は、本気になって調査しようとしない。おまけに、加害者とされた少女たちには未来があるなどと、最愛の娘の未来を奪われた親に冷酷な言葉を吐いたのだ。
 遺書には加害者たちの名前はあったものの、何をされたのか具体的なことは書かれていなかった。ただ、辱めを受けたのは読み取れたため、両親は騒ぎを大きくしまいと決めた。メディアに嗅ぎつけられ、詳細が暴かれる羽目になったら、亡き娘が晒しものになるからだ。
 ところが、学校や教育委員会に働きかけても進展が見られない。警察に相談しても証拠がないからと門前払いを食らい、苛立ちと失意の日々が続いた。
 その後、被害者少女を辱めた行為を撮影した写真や動画が、SNS内で共有されていたのが発覚したことで事態が動く。児童ポルノ製造と強制わいせつで、警察の捜査が入ったのである。
 だが、すでに一年が経過していた。学校側もようやく協力する姿勢を示したものの、当時の担任や管理職は異動もしくは退職。明らかに逃げたと見られ、どこまで本気なのかは不明だった。
 そもそも、警察が動いたからといって、直ちに解決するわけではない。加害者側も未成年だったのであり、非行事実を明らかにするのに通常の犯罪捜査と同じ手法を取るのは難しい。事情聴取も任意となり、佳帆をレイプした少年が逮捕されるまで半年以上もかかった。
 かくして、愛娘が穢されたという事実を突きつけられた両親が、どれほどの悲しみと怒りに苛まれたのかなど、想像に難くない。
 結果として、少年は更生施設への送致となり、写真をSNSに投稿した少女は保護観察処分となった。
 驚くべきことに、遺書で首謀者とされた少女──北野倫華は、説諭のみでお咎めなしだった。現場にいたのは認定されても、触法行為までは明らかにされなかったのだ。
 倫華は狡猾だった。SNSへの写真と動画の投稿は、取り巻きの少女にさせたのである。さらに、佳帆が自殺すると、自身が撮影したものはすべて削除し、スマホの機種変更までして証拠を隠滅する念の入れようだった。
 遺書に首謀者だと書かれてあると、両親が訴えても無駄であった。それが認められたら、他者を陥れるべく虚偽の遺書を残して自殺する者が出るだろう。証拠になるのは、生きた人間の証言なのである。
 そして、倫華に箝口令を敷かれた取り巻きたちが、聴取で事実を述べるはずがなかった。
 ならばと、佳帆の両親は民事訴訟を起こした。娘の命をお金に換算することにためらいもあったが、加害者たちに反省してもらうためにと訴えたのだ。
 あくまでも当人に改心してもらいたかったから、被告に親は加えなかった。すでに全員、成人年齢に達していたためもあった。
 この裁判を担当したのが忠雄である。
 民事での事実認定は、刑事事件としての司法判断とは異なる。また、民事裁判では判決だけでなく、和解も重視される。
 事実を明らかにするために、原告は被告たちとの和解を求めた。正しい証言を得るためである。賠償金を減額する代わりに、本当のことを教えてほしいと加害者たちに訴えた。
 これにより、あの日の出来事が詳らかにされたのである。
 愛娘の命を奪われたのだ。親であれば、いじめに荷担した連中を八つ裂きにしたいと思っても不思議ではない。
 佳帆の両親は、そうは考えなかった。