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こりゃあとうぶん焼き肉が食べられなくなるかもしれないな、と保田真萩は思った。
明らかにそれは、焼きすぎた肉の臭いだった。これまで何度か死体を目の当たりにしたことはあるが、死臭はこんな臭いではなかった。もっと生臭く、退廃的で、まさに死の臭いと表現すべきものだった。しかし漂ってくる臭気は、肉を焼いた臭いでしかなかった。それだけに、食べ物の記憶と直結する。勘弁して欲しいと、内心だけで顔を顰めた。
今はドラム缶の周りを、鑑識係の者たちが取り囲んでいる。真萩たちは近づいてはいけないので、まだ焼死体を見ていない。それがありがたく、できることならこのまま見ずに済ませたいとすら思った。見てしまったら、少なくともバーベキューは今後食べる気になれないだろう。バーベキューが取り立てて好きというわけではないが、嫌いでもなかったものが食べられなくなるのはいやだ。人が焼けた臭いなど知らずに一生を終えたかったと、心底思う。
「バラバラ死体よりはまし、かな」
横に立っている同僚が、不謹慎なことを言った。遺族に聞かれたら大問題になりそうだが、不謹慎なことでも言わなければ耐えがたいのはよくわかる。真萩がハンカチを口許に当てたのを見て、自分は肘の内側で鼻と口を覆った。ハンカチを持っていないようだ。トイレに行っても手を洗わないタイプか、と変なところで同僚のいやな一面を発見してしまった。
離れたところにいる課長に呼ばれて、安堵した。課長はちゃっかりと、臭いが届かない辺りに立っていたのだ。この空き地の持ち主が判明し、近くに住んでいるようなので、話を聞きに行ってこいと命じられた。この場を去れるならどんな仕事でもかまわない。喜んで引き受けて、同僚とともに直ちに出発した。
「助かったなぁ。おれ、吐きそうだったよ」
歩きながら、同僚はうきうきした口調で言った。心底嬉しいのだろう。助かったとの思いは、真萩も同感である。「そうですね」と応じた自分の声も、弾んでいるように聞こえた。
「ドラム缶に頭から突っ込んでるってことだったから、死んでから焼かれたんだろうな。生きたままなら、さすがにドラム缶の中でおとなしくしてないもんな」
同僚の名は小久保という。小久保は動揺しているのか、多弁だった。真萩より年次は三年上だが、どこか子供っぽいところがあるので、あまり先輩という気がしない。そのくせ子供はもう三人もいるというから、どういう人物と認定すればいいのか未だに戸惑う。まあ、子供がいることと自分自身の成熟は別問題か、と考えている。奥さんにしてみれば、子供が四人いるようなものなのだろうなと、密かに同情もしていた。
「そうですね。生きたまま焼かれるなんて酷いから、せめて死んでからであって欲しいと思います」
真萩が同意すると満足したのか、「そうだよなぁ、酷いよなぁ」と小久保は繰り返した。町田署の管轄は都下とはいえ、それなりに都会なので、大事件も発生する。だが、火事でもない焼死体はさすがに初めてだった。小久保が動揺するのも無理はなく、真萩も自分が冷静でいるとは思っていなかった。おそらく第三者の目には、小久保と同様に動転しているように映るのではないか。
しかし、歩いているうちにさすがに気持ちは落ち着いてきた。酷い事件だからこそ、きちんと仕事をしなければならないと決意を新たにする。まず最初にやるべきことは、被害者の身許特定だ。身許を証明する物がすべて燃えてしまっていたら、難航が予想される。空き地の持ち主の話は大事だった。
町田市内は、賑やかなところと人気のないところの差が激しい。小田急線とJR横浜線の町田駅付近は都心部にも負けないほど開けているが、人が通わない山奥のような雰囲気のエリアもある。ドラム缶内の焼死体が見つかったのは、もちろん後者でのことだった。人が通わないエリアにもかかわらず発見されたのは、たまたま訪れた人が見つけたからではない。一一〇番に匿名の通報があったのだ。いたずらの可能性も考えられたが、最寄りの交番から警察官が駆けつけてみると、本当に焼死体があった。そうなると通報者の身許が問題となるが、公衆電話からの通報だった。やり取りは録音されているものの、微妙におかしな声だったという。プログラムによる音声読み上げなどを使い、自分の声が記録に残らないようにしていたのではないかと見られている。ならば、通報者は犯人自身か。
もっとも、まだ殺人と断定されたわけではない。自然死した遺体を焼いたのかもしれない。予断は禁物だった。
死体発見現場はちょっとした小山で、木が生い茂っていた。その中にぽっかりと空き地があり、そこにドラム缶があったのだ。遠目にはドラム缶は新しい物に見えなかったから、以前から置いてあったのだろう。だとしたら、地主がゴミを燃やすためにでも設置したのか。本来、勝手な焼却は違法だから、地主は白を切るかもしれない。慎重な聞き込みをする必要があった。
小山の麓に、地主の家があるとのことだった。車に乗るほどの距離ではないので、下り坂を歩いている。三分ほどで、かなり大きな家の前に出た。屋敷と評しても大袈裟ではない。大きすぎて、建坪の見当がつかないほどだ。町田には、駅から離れるとこの規模の家がある。おそらく、昔からの地主なのだろう。
胸くらいの高さの門扉があり、その横のインターホンを小久保が押した。門扉から家の玄関までは、飛び石が続いている。いちいち出てくるのも面倒そうだ。インターホンから、「はい」と女性の声で返事が聞こえた。小久保が顔を近づけて、話しかける。
「恐れ入ります。町田警察署の者です」
「あ、はいはい」
所有地内で死体が見つかったことは、すでに耳に入っているのだろう。警察と聞いても驚くことなく、「少々お待ちください」との言葉が続く。しかし実際には待たされることなく、すぐに玄関扉が開いた。
初老の女性が出てきて、頭を下げた。門扉まで、飛び石伝いに歩いてくる。身長が高くないので、門扉で顔半分が隠れてしまっていた。小久保は改めて身分を名乗り、切り出した。
「少しお話を聞かせていただきたいのですが、お時間をちょうだいできますか」
「あ、はい。それはかまいませんが、主人は出かけております。私ではあまりよくわかりませんけど、よろしいですか」
「旦那さんはいつ頃お戻りですか」
「仕事に行ってますので、夜になります」
「でしたらまたそのときに改めてお邪魔しますが、まずは奥さんの話を伺わせていただけますか」
「はあ。では、どうぞ」
あまり気が進まないようだったが、そんなことを斟酌するわけにはいかなかった。ゴミの捨て方なら、主婦でもわかっているはずだ。むしろ、夫婦は別々に質問した方がいい。双方の話が食い違えば、そこを衝いて真実を引き出せるかもしれないからだ。
幅が三メートル以上はありそうな玄関を通り、応接間に案内された。応接間にはソファセットと、ローボードや木目調のステレオセットがあった。ローボードの上には皿や木彫りの熊などが置いてある。ふた昔前の、昭和の応接間といった趣だ。まだこういう家があるのか、と言葉にせず感心した。流行遅れ感すら通り過ぎ、歴史を感じさせる風情がある。
「少々お待ちください」
女性は真萩たちを応接間に入れると、そのままどこかに消えようとした。お茶でも淹れるつもりか。「どうかおかまいなく」と呼び止めたが、女性は聞かなかった。五分ほどして、盆を手にようやく戻ってくる。
「どうぞ」
案の定、お茶を真萩たちの前に置く。いらなかったのに、とは言えず、頭を下げて礼を述べた。
「どうぞ、おかけください。二、三、お伺いしたいことがあります」
小久保が自分の正面のソファに手を差し伸べた。女性はまた、「はあ」と返事をして浅く腰かける。いかにも、すぐに立ち上がりたそうだ。小久保は軽く身を乗り出した。
「失礼ですが、まずお名前を伺えますか」
姓が田崎であることはわかっているが、下の名前までは情報がない。女性は言いたくなさそうに眉根を寄せながらも、答えた。
「田崎トヨコです」
「田崎トヨコさん。どんな字を書きますか」
「豊富の豊に子供です」
「旦那さんは?」
「リョウジです。良い悪いの良いに、治める」
田崎豊子、良治と真萩はメモを取る。その横で小久保は、矢継ぎ早に質問を重ねた。
「ご家族は、他にいらっしゃいますか」
ふたりで住むには大きい屋敷である。他に住人はいないのかと真萩も思っていた。田崎豊子は頷く。
「はい、息子と娘が」
「ええと、おひとりずつ?」
「はい。ふたりとも、出戻りで」
つまり、息子も娘も結婚はしたが別れて実家に戻ってきたということか。経緯はどうあれ、四人家族だとわかれば情報としては充分だ。
「今、いらっしゃるのは奥さんだけですか」
「はい。息子も娘も仕事に行ってます」
顔を出さずにいるわけではないようだ。前提条件が明らかになったところで、いよいよ本題だった。