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「解剖しても、身許まではわからないよなぁ。胃に名前でも書いてあればいいんだけど」
 小久保が言うと、冗談なのか本気なのか判然としない。小久保の子供たちは保育園に行っているから、おそらく持ち物には必ず名前を書いているはずだ。そこから来る発想なのだろうが、いくらなんでも本気で言っているわけはないと信じたい。冗談だと断じて、「そうですよね」と相槌あいづちを打った。
「せめて、名前を書いた紙でも呑み込んでてくれれば助かりますが」
「おっ、それいいね。そうだといいなぁ」
 口にしてみたものの、そんな可能性はほぼゼロに近いと真萩も考えていた。これが殺人で、被害者は殺される前に自分が燃やされるとわかっていたなら、そうした手を打つかもしれない。だが、普通はそこまで機転が利かないだろう。せめて歯型から身許がわかればいいが、そうでなければ特定の手段が極端に限られる。これは所轄しよかつの手に負えることではなく、本庁の捜査一課に任せるべき事件ではないかと思えてきた。
 死体は今、国領こくりようにある東京慈恵じけいかい医科大学に搬送されている。司法解剖をするためである。解剖学講座の教授がすぐ対応してくれるかどうかによるが、おそらく今日じゅうには結果が出るだろう。果たして他殺か、単なる死体損壊か。後者であることを願うが、きっと他殺だという確信があった。ゴミならともかく、死体を勝手に燃やす人がいるとは考えにくい。匿名の通報によって発見されたことを思えば、何者かの作為と、そして悪意が見て取れた。
 午後十時半過ぎに、解剖の結果が届いた。死因は絞殺こうさつ。首に索条痕さくじようこんがあったそうだ。肺はれいだったので、死後に焼かれたとわかる。この二点をもって、他殺と断定されていた。
 二十代から四十代の男性。もう少し絞り込むなら、確度が落ちてしまうらしい。胃の内容物はほとんどなく、眼球も焼けてしまっているので、死亡推定時刻を割り出すのは難しい。ただし、歯は砕かれずに残っているという。大半のことが不明の中、それだけは朗報だった。
「警察歯科医には、明日診てもらえる。で、他殺と判明したからには本庁の捜査一課様にお出まし願わなくちゃならない。今から捜査本部設置の準備にかかってくれ」
 そうなると思ってはいたが、うんざりする気持ちはぬぐえなかった。本庁捜査一課が出てくれば、所轄刑事の役割は完全に下働きになる。捜査本部設置の準備とは、本庁の刑事が寝泊まりできるように布団の手配をするとか、その際に飲む寝酒を買っておくなどのことだ。課長が“捜査一課様”という言い方をするのも、気持ちはよくわかる。
 真萩自身は、捜査本部設置の経験が二度ある。だから何をすればいいかはわかっていたため、刑事課の他の者たちと手分けして素早く準備を終えた。タクシーで駅まで向かう人たちと同乗し、なんとか電車があるうちに帰宅できた。明日からの激務に備え、シャワーだけ浴びてさっさと寝た。
 翌朝にはさっそく捜査本部が立ち上げられた。真萩たち所轄署の刑事は、本庁捜査一課刑事の案内役である。聞き込み時は、捜査一課刑事が質問するのをただ横で聞いているだけだ。よけいな口を挟もうものなら、怒り狂う人も中にはいる。警察は階級社会なので、上の者の仕事に下の者が口出しなど許されることではないのだ。だから、コンビを組むなら話がわかる人がいいなと密かに思っていた。
 現在判明していることを捜一刑事と共有した後、コンビが発表された。真萩は南条なんじようという、三十代後半ほどの比較的若そうな刑事と組むことになった。若いだけでなく、なかなかいい男である。鼻筋が通っていて、少しり気味の目には力がある。何かの間違いで刑事になったかのような外見だった。
「保田です。どうぞよろしくお願いします」
 名乗って、頭を下げた。南条は小さく頷いて、答える。
「おお、よろしく。南条だ」
 その物言いで、気さくな人なのかなと考えた。若く気さくで、その上いい男とは、コンビを組む相手として悪くない。幸先さいさきがいいなと、内心でガッツポーズを取った。
「町田は奥に入るととんでもなく田舎なので、びっくりされるかと思います」
 会話のとっかかりとして、そんなことを言ってみた。すると南条は、軽い口調で応じる。
「知ってるよー。前に行ったことある。東京は広いよな」
 眉間みけんしわを寄せてろくに言葉も発さないような人はいやだが、南条の話しぶりはいささか軽薄にも響いた。いやいや、天下の本庁捜一刑事なのだから、ただの軽い男のわけがない。こういう人が、実は切れ者だったりするのだ。第一印象で決めつけるような真似まねはよくないと、真萩は自分をいましめた。
「よし、じゃあ出発しようか。車でもけっこう時間がかかるんだろ」
「はい。三十分くらいは」
「遠いな。都心部だったら、隣の隣の管轄に入っちまいそうだ」
「はあ。管轄区域が広いんです」
 そんな言葉を交わしながら、駐車場に向かった。出せる車の数は限られているので、一台に四人乗って出発する。前の座席に所轄刑事、後部座席に南条たち一課刑事がすわった。道中、南条たちはなにやら楽しげにおしやべりをしていた。対照的に、真萩はハンドルを握る同僚とはひと言も話さなかった。おとなしくしているのが、所轄刑事の務めだからだ。
 死体発見現場周辺で聞き込みをしている間に、警察歯科医によるデンタルチャートが作成されているはずだった。デンタルチャートとは、歯の特徴を詳細に書き留めた記録である。これと歯の写真、レントゲン写真をこの地域の歯科診療所にファクスし、該当する患者がいないか尋ねる。返事があるにしても、早くて夕方であろう。
 周辺の聞き込みで期待するのは、死体を運んできた者が目撃されていないかだった。おそらく人目を避けて夜間にやってきたのだろうが、誰かが見ている可能性はゼロではない。死体運搬には車を使ったはずなので、せめて見慣れない車両の目撃証言だけでも得られればと期待していた。
 しかし、捜査本部設置初日の聞き込みは、空振り続きだった。夜になると真っ暗になる地域なので、住人たちは就寝時刻も早いのだ。皆、寝ていて何も気づかなかったと、口をそろえて言う。これは先が思いやられると、なげきたくなった。
 当然ながら、Nシステムなんて便利な物はこの地域に設置されていない。新町田街道にはあるものの、もともと交通量の多い道である。そこかられた車が死体発見現場に向かったかどうかがわからなければ、Nシステムの記録も意味がなかった。
「なんで死体を焼いたと思う?」
 聞き込みの途中で、南条から問われた。成果が得られないので、退屈したのかもしれない。真萩はさほど考えずに、答えた。
「身許をわからなくするため、ですか」
「だとしたら、歯も砕いておくべきだろう。歯型から身許を特定できることくらい、今は一般人でも知ってるんじゃないかな。そうしてなかったってことは、身許がわかったとしても犯人はかまわなかったのかもしれない」
「では、どうしてわざわざ死体を焼いたのでしょうか」
「さあ。それがなぞだよな。その謎が解けたら、犯人ホシに行き着けるんじゃないか」
 これは経験に基づく見通しなのだろうか。それとも単なる思いつきか。死体を焼いたことの目的をあまり深く考えていなかったので、指摘されてなるほどと思った。やはり捜一刑事は着眼点が違う。
 夜になるまで聞き込みをしたが、これはという証言は得られなかった。歯型から身許が特定されることを期待していたが、そのしらせも入らない。手ぶらのまま町田署に帰り、報告を終えた。前途は多難そうだった。

 

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