プロローグ
車から降ろした死体を、台車に載せた。地面は舗装されているわけではないので台車も押しにくいが、死体を抱えて歩くよりはいい。石やくぼみに引っかかりながらも、なんとか目的の地点まで運んだ。
そこは拓けた空き地になっていて、奥にはドラム缶が見える。もともと、ここにあったものだ。内側には焼けた跡があるから、誰かが不要な物を放り込んで焼却していたらしい。同じ目的に使うつもりなので、このドラム缶を見つけたときにはありがたいと思ったものだ。これから始めることを完遂するには、いくつもの幸運が必要になるだろう。初手から恵まれていることに、勇気をもらった。
ドラム缶を倒し、開口部が横を向くようにした。そこに、膝を抱えた形で硬直している死体を押し込もうとする。人ひとりの重さが相当なものであることは、ここに運んでくるまでに充分身に沁みた。命があるうちは、無意識にでも動かされることに協力してくれる。だが死体になると、当然のことながらまったく動かない。死体の重みがそのまま抵抗となる。死体を頭からドラム缶に入れようとしているので、臀部や腿を押してなんとか動かした。はみ出しているのは膝から下だけという状態になったときには、そんな季節でもないのに全身汗まみれになっていた。
次に、ドラム缶を起こした。ドラム缶の底の側に立ち、開口部に手をかけて一気に後方へ体重をかける。底が土に引っかかってくれたから、梃子の原理で起こすことができた。
なんとかなった。思わず、大きく息を吐く。しかし、ここで気を抜くわけにはいかない。すぐに台車を押して車に戻り、今度はガソリンが入っているポリタンクを運んだ。
ガソリンを、ドラム缶の中に注いだ。尻を上に向けた間抜けな格好の死体に、たっぷりとかける。そして、これも用意してきたたくさんの新聞紙を中に落とした。死体が隠れるほど入れてから、最後にマッチを擦った。
夜の闇の中に、小さな明かりが灯った。今日は月が出ているので広場の視界が閉ざされていたわけではないが、それでも闇に慣れた目にマッチの火は眩しく見えた。ためらいなく、マッチをドラム缶に投げ込む。少し離れたところから、様子を見守った。
火は最初、新聞紙に燃え移るはずだ。新聞紙は乾いているから、徐々に火を大きく育てていく。そしてその火がガソリンに触れれば、一気に燃え上がる。火は炎となって、死体を包み込むのだった。
鈍い音とともに、火炎が上がった。死体に着火したのだ。赤い炎が、ドラム缶の中から立ち上がる。たちまち、広場は赤く照らし出された。その炎を、美しいと感じた。
これはドラゴンの炎だ。悪を焼き尽くす、浄化の炎。悪は駆逐されなければならない。心の中で、そう唱えた。
1
屈んだ姿勢で、そろりそろりと前進した。屈めば気配が消え、敵から存在を察せられにくくなる。だがその代わり、前に進む速度は落ちる。ゆっくり前進している間に、狙う相手が走り去ってしまうかもしれない。そうならないことを願いながら、アリエスは近づいていった。
狙うのは透明な一角獣だった。もちろん、本当に透明なら見えないが、ガラスのようにそこに何かが存在していることは視認できる。クリスタルの一角獣は、月光を照り返して美しかった。こちらとは逆の方向を向いている一角獣は、まだアリエスの接近に気づいていない。
一角獣は大柄だった。地面から頭までの距離は、アリエスの身長の優に倍はあるだろう。それだけに、正面から戦えばこちらも痛手を負う。下手をすれば、命を落とす。慎重に戦うべき相手だった。
一角獣の臀部まで近づき、一気に剣を突き出した。手応えとともに、一角獣の断末魔のいななきが聞こえる。一角獣は横倒しになり、絶命した。一撃死だ。思わず鼻から息を吐いた。
難敵なので、一撃死で屠ることができて安堵した。一角獣は見かけの美しさとは裏腹に、戦闘力が高い。正面から戦っていたら、相当ダメージを受けていたことだろう。
死体から、戦利品を回収した。一角獣の角だ。これこそ、依頼されていた品だった。
すぐに町まで戻らなければならない。クリスタルの一角獣の死体は、日の光を浴びると消えてしまうのだ。その意味で、クリスタルではなく氷のようだ。角も例外ではないので、夜明けまでに依頼人に届ける必要があるのだった。
今は馬に乗れないので、走って帰る。だが、夜明けまでそれほど間がない。急がなければならなかった。
街道沿いにひた走っているときだった。突然、右手から襲いかかってくるものがあった。視認できていなかったので、驚く。倒されてから、ようやく何が現れたのか理解した。クリスタルの一角獣だ。もう一頭いたのか。もしかしたら、つがいだったのかもしれない。一頭を仕留められ、恨んで襲いかかってきたのだろう。なんとか起き上がろうとしたが、一角獣の方が速かった。
正面から、一角獣の角が突っ込んできた。とっさに横っ飛びしようとしたが、立ち上がる動作から切り替えるのが遅れた。角がまともに腹に刺さった。致命傷だ。目の前が暗転した。
2
思わず、舌打ちをした。ようやくの思いで必要アイテムを手にしたので、つい油断してしまった。ネットで情報を仕入れてあれば、一角獣が二頭いると事前に知っておけたが、それでは面白さが減じると思っている。できる限り自力で解決するのが、瀧川のスタイルだった。
VRゴーグルを外して、ひと息ついた。とたんに、これまで見えていた景色が一変する。幻想性も解放感もない、殺風景な六畳間。散らかりきった男のひとり暮らし空間は、いつも現実に対する幻滅を味わわせてくれる。VR世界に耽溺して帰ってこられなくなる人が続出し、今や社会問題になっているが、帰りたくない気持ちはよくわかった。
VRは当初、ゴーグルの重さと解像度の粗さから、長時間の体験が難しかった。疲れるし、頭が痛くなるし、VR酔いをする人もいたのである。しかし今やそれも過去の話で、ゴーグルは劇的に進化した。重量は眼鏡並みで、長く使うのが苦にならない。解像度は片目8Kとなり、ほとんど現実と変わらないリアルさで映像を映し出す。三百六十度から音が聞こえるイヤフォンを使えば、もはやバーチャルと現実の区別はつかなかった。価格も手頃になったことで、VRゴーグルは一気に市民権を得た。
統計によれば、十年前に比べて町を歩く人が減ったという。それは間違いなく、VRゴーグルの普及が原因だった。もう歩く必要はなく、世界のどこにでも行けるのである。特に夏場は、わざわざ自分の足で歩く人はいなくなった。殺人的な猛暑の中、外に出るのは自殺行為である。皆、エアコンの効いた室内でバーチャルの旅行や散歩を楽しむようになったのは、ある意味必然だった。一度そんな社会的慣習ができあがると、たとえ散歩日和であっても外には出なくなる。体力の衰えを気にするならば、屋内でいくらでもエクササイズができる。かくして、人は部屋に籠るようになったのだった。
VRの用途は様々だ。現実の風景を堪能することもできるし、幻想の世界に入り込むことも不可能ではない。ゲームを楽しむのも、アダルトな目的も、他者とコミュニケーションをとるのも、すべてVR世界内で完結する。かつてはスマートフォンが生活必需品だったが、今はVRゴーグルが完全にそのポジションを奪い取ったと言えた。
瀧川はVRゴーグルを連絡手段として使わないわけではなかったが、ほとんどゲーム専用機となっていた。仕事をしているときにはあまりに多忙で遊ぶ余裕などなかったから、その反動ですっかりゲーム世界に入り浸っているのである。現実を忘れる、という表現はかつて比喩だったが、今や譬えでもなんでもない。本当に現実世界を離脱し、幻想の空間に自分の存在を置いている。ゴーグルを外すと見えるこの汚い六畳間の方が、瀧川にとっては非現実だった。こんな悪夢からは、さっさと抜け出したかった。
瀧川が耽溺しているゲームのタイトルは、《ドラゴンズ・グレイブ》といった。龍の墓、という意味である。発売当初から話題になり、現在はワールドワイドで一千万本以上売れている。設定は中世ヨーロッパ的世界を舞台にした剣と魔法の物語で、ごくオーソドックスだが、細密なVRで展開されると人々の度肝を抜いた。テレビ画面に映っているのと、実際に自分の周囲に世界が広がっているのでは、体験がまるで違う。もちろん《ドラゴンズ・グレイブ》以前にもVRゲームはあったが、フィールドの広さが先行作品とは段違いだった。行けども行けども果てに辿り着かない世界は、まさにリアルだったのである。クエストを引き受けて達成するもよし、のんびりと釣りや狩りを楽しむもよし、ただ風景を見るために旅をするもよし、あるいはそれすらもせず他のプレイヤーとのコミュニケーションに徹することすら可能だった。《ドラゴンズ・グレイブ》に全世界から人が集まるのは、ここがもうひとつの現実に他ならないからであった。
瀧川はゴーグルを置き、立ち上がった。喉が渇いたのだ。VRは今のところ、視覚と聴覚、それとわずかに触覚に訴えるだけである。さらに技術が進んで五感で感じられるようになり、現実の飲食すら必要なくなればいいのにと思う。飲み食いもトイレも風呂も、もはやすべてが煩わしい。VR廃人まっしぐらだなと、自分でも苦笑した。
小説
龍の墓
あらすじ
町田市郊外で発見された身許不明の焼死体。捜査本部が有力な手がかりを掴めない中、荒川区内で女性の変死体が発見される。その殺害状況が公表されるや、「町田と荒川の事件は、人気VRゲーム《ドラゴンズ・グレイブ》の中で発生する連続殺人の見立てではないか」という噂がネット上で囁かれ始める──。
龍の墓(1/4)
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