ふと、視線に気がついた。
あの、筧みのりがドアのところからこちらをのぞいている。胡雪と目が合うと、こっちこっちと言うように、手招きした。
胡雪が自分の鼻を指さして、「私?」と尋ねると、こっくりうなずいた。
間違いなく、田中でも伊丹でもないようだ。仕方なく席を立った。
「なんですか」
キッチンに入ると同時に、つっけんどんに訊いてしまう。
「あのね、これが夜食」
筧は銅色のアルミの大鍋の蓋を開けた。ふんわりと、カレーとそれだけじゃない、やさしい甘い香りがした。鍋の中にはたっぷりとカレー色の液体が入っている。
機嫌が悪かったはずの胡雪でも、思わず、笑みが浮かんでしまうような匂い。でも、顔を引き締めて尋ねた。
「これ、なんですか」
「カレーうどんの汁」
「こんな鍋、ありましたっけ?」
「上の棚にあったから、使った」
ああ、と思い出した。
昔、鍋料理を初めてする時に、駅前のスーパーで一番大きな両手鍋を買ったのだった。当時は一人暮らしの田中の部屋を会社にしていた。確か、大きさは直径三十センチだった。本当は土鍋がよかったけど、それだけの大きなものになると高くてアルミのしか買えなかった。
田中と胡雪、二人で買いに行ったのだ。スーパーで大きなレジ袋に入れてもらって、二人で片方ずつ、ぶらぶらと提げて帰ってきた。
「人が見たら、俺たち、同棲カップルみたいに見えるかな」
「ばーか」
二人でげらげら笑った。だって、同棲よりずっといいことが始まるってわかっていたから。
お金もなかった、信用もなかった、仕事もなかった。何もなかった、だけど、何かが始まる期待とわくわく感だけがあった。
それから、何度使ったかしれない。鍋料理はもちろんのこと、夏はそうめんを大量に茹で、モモちゃんが山でタケノコを取ってきた時もこれで茹で、秋は東北出身の田中が「芋煮会」をした。最初、くすんだ金色に光っていた表面も、ところどころぼこぼこにへこんでしまっている。
でも、この数年、使っていなかった。ここに越してきた時、地方の有名窯元の土鍋を、取引先から贈られたから。自分たちの仲の良さを知っている相手の、気の利いた引っ越し祝いだった。
「……昔、土鍋が買えなくて」
土鍋はアルミの数倍の値段だった。
「正解」
筧はクイズ番組の司会者のように人差し指を立てた。
「え?」
彼女が言い切った言葉の意味がわからなくて訊き返した。
「正解、これで正解。土鍋は鍋物と炊飯くらいにしか使えないけど、これなら菜っぱも茹でられるし、カレーも作れる。ご飯だってがんばれば炊ける」
「そうですか」
「冷凍庫に冷凍うどんが買ってあるから、電子レンジでチンして、これを上にかけて食べるの」
ああ、それで、カレーだけじゃない、醤油と砂糖の甘い匂いがしたのか、とわかった。純粋なカレーじゃなくて、出汁も入っているんだろう。
「ネギは千切りにして冷蔵庫に入れてあるから上に載せて。汁に入れて煮てもいいんだけど、今から入れると煮すぎちゃうから」
筧はテーブルの上の大皿を指さした。かけてあるラップは湯気で曇っていた。
「これはおにぎりと鶏のから揚げ。こっちは夕食用。大根葉とじゃこと卵を炒めたやつを混ぜ込んだのと、ゆかりと枝豆を混ぜ込んだの、ツナとゴマ油を入れたのの三種類。一人各一個ずつ。余ったら冷凍しておいて、明日チンして朝ご飯に食べるといい。から揚げは冷めてもおいしい味付けになってる。それから、具だくさんの豚汁が土鍋に入ってる」
それはガス台に置いてあった。筧が重い蓋を持ち上げると、また大きな湯気が立った。
「食べる時、温めなおして……それから」
「……それ、私がやるんですか?」
「は?」
それまで、すべてにおいて堂々と振る舞っていた筧が、初めて、虚を突かれた顔になった。胡雪は少しだけ、すっとする。だから、さらにきつい声が出た。
「それ、私がしなくちゃいけないんですか、って訊いているんです」
「あんたが……何?」
筧は意味がわからないようで、ますます、「?」という顔になる。
「私が女だから、皆の夕食と夜食の用意をしなくちゃならないってことなんですか? 私に声をかけてきたのは」
低いけど、筧にははっきり聞こえるように言った。
「いや、そんなんじゃないよ」
「だって、そういうことでしょ。私を見つけて声をかけたんだから。私だって仕事があるんですよ。これから、あなたが来る度に、食事の用意を私がしなくちゃならないなら……まあ、途中まで作るのはあなたですけど、最後のそういう用意っていうか、仕上げっていうか、そういうの、私がしなくちゃならないんですか? そんなの聞いてないし、そういうふうに思っているなら、私、困るんですよ」
「……違うよ」
「どこが違うんです? 現に今、あなた、私を指名して、私に説明してますよね?」
「そういうつもりじゃなかった。そういうふうに思わせたら、ごめん」
筧は意外と素直に謝った。
「ただ、あたしももう少ししたら帰るから、誰かに言付けないと、と思って部屋をのぞいたら、あんたが一番暇そうだったから」
「暇……?」
さらに頭に来た。もしかしたら、女だから声をかけてきた以上に頭に来たかもしれない。
「いや、そんなこと、どうしてわかるんですか。私、給料の計算とかしてたんですよ? それなりに忙しいんですよ。男とは違うけど、男の人がしている仕事とは違うけど、だけど、忙しいのは一緒で」
声が大きくなっている、と途中から気がついていた。もしかしたら、田中や伊丹たちにも聞こえているかもしれない。だけど、やめられなかった。
「バカにしないでよ」
「ごめん。そういうつもりではなくて、でも、さっき部屋をのぞいた時、あなたからは殺気っていうか……覚悟っていうか……そういう気配みたいのが感じられなかったから。他の人と違って。でも、それはあたしのただの感じ方で、勝手な見方だから、間違ってたらごめん」
覚悟……?
胡雪はふっと力が抜けて、近くにあったイスに崩れ落ちるように腰掛けてしまった。
覚悟がないってこと? 私は。
「だから、とっさに声をかけてしまった。女とか、そんなんじゃなかったつもりだけど」
「……わかりました」
もういいです、と言って立ち上がろうとして、今度は本当に自分に行き場がないことを知った。
今の会話が聞こえていれば、居間にも、寝室にも行けない。
「私だって、がんばってますよ……覚悟がないとか、言わないで」
気がついたら、泣いていた。
そんなこと、言われなくても自分が一番わかっている。友達が起業すると聞いて、なんとなくふらふらと付いてきてしまった。本当は別にやりたいことなんてなかった。ただ、大学時代の友人付き合いが楽しくて……男たちの間に、女が一人の「紅一点」の環境を続けたくて、ここまで来てしまった。
お姉ちゃんが言っていたことも当たってる。就職活動から逃げた。
家事をしたくない、と言いながら、女である環境に甘えていることは、自分が一番、よくわかっている。
ずっと一緒だと思っていた。ずっと男女は同権の世界で、中高大と育ってきたのだ。
それなのに。
三十になったら、急に「それじゃあ、だめだ」と言われるようになった。
母から、姉から、心ない親戚から、ふと立ち寄った居酒屋で隣に座ったおやじから、生理不順で通った婦人科医から……。
結婚を強要するわけではないですけど、女性の妊娠に期限があることもまた、事実なんですよ。
阿佐ヶ谷のではない、別の産婦人科医に言われた。
平成元年に生まれた自分が、令和が始まると同時に突き付けられた現実。
そんなことも何も知らないのに、なぜ、この、今日来たばかりの女に「覚悟がない」なんて言われなくてはならないのか。