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 柿枝駿はやおも学生時代、胡雪たちと一緒のメンバーだった。
 正直、いわゆる、人間的というか、男性的というか、そういう魅力はこのメンバーで随一だったと思う。
 胡雪は最初に柿枝に話しかけられた時のことをよく覚えている。
 胡雪は大学の選択授業をどれにするか迷っていた。
 まだ、友達と呼べる友達ができていなかった。
 新しいクラスに集まった時に、なんとなく席の前後や、隣の人と、前から知り合いのように話しているけれど、皆がなぜそうできるのか不思議でたまらなかった。
 いわゆる「楽勝」と呼ばれる、何も勉強しなくても「優」を取れる授業やら、少しは厳しいけれど、おもしろく将来のためになる授業をしてくれる教授やらがいる、というのは聞いていたけど、そんな情報は誰とも話していない胡雪のところに回ってくるはずもなく、ただ、どうしたらいいのかわからずに手をこまねいたまま、選択授業の用紙を事務局に出しに行った。
 胡雪が一般教養に選んだのは、「心理」「文学」「ドイツ語」「統計学」などだった。
「心理学はヤバいって」
 いきなり、後ろに並んでいた男子が胡雪の用紙をのぞき込んで言った。
「え?」
「心理、めちゃくちゃ人気あるから、たぶん取れない。取れないと、空いている科目に適当に回されるから厳しい『数学』とか『物理』になって、苦労するよ」
「……なんでそんなこと知ってるの?」
 どきどきしながら振り返ると、柿枝と田中が並んで立っていた。柿枝は背が高く、なかなかの男前だった。田中は今と変わらず、ただただひょろりと細かった。
「うちの従兄いとこがここの出身だから」
「へーそうなんだ」
 なんでもないみたいに応えたけど、内心めちゃくちゃ嬉しかった。見た目がさわやかで、誰にでも屈託なく話しかけていた柿枝は、クラスでも目立った存在だった。
「心理やりたいなら、それほど人気がない『教育』にしたら? 中身は教育心理だし。それでもどうしても心理がよければ来年選ぶか。二年の方が優先されるし」
「そうなんだ」
「あと、生物、おすすめ。イギリスの生物学のテレビ番組のビデオ観てレポート書くだけでやさしいし、先生もおもしろいって」
「よく知ってるね」
 同じような相づちばかりくり返している自分が歯がゆかった。本当は、もう少し、気の利いたことを言いたかったのに。
 田中がそこで初めて口を開いた。
「統計はどうせ三年以降、びっちり経済でやるしさ」
「あなたたちも経済なの?」
 気がつかないふりをして尋ねた。
「そう。君もでしょ。A組の池内胡雪さんだよね」
 柿枝はこともなげに答えた。

 あの時……柿枝たちがどうして胡雪のフルネームを知っていたのか、いまだに訊けずにいる。
 訊けずにいるけど、「かわいかったから」だとか「きれいだったから」「魅力的だったから」ではないことは、もうずっと前から知っている。
 自分がそんなことで男たちから選ばれる女ではないことは幼稚園の時からわかっているのだ。
 だけど、それ以外のどんな理由でも、自分ががっかりしそうで怖い。

 胡雪は、のろのろとパソコンを立ち上げ、エクセルを使って社員とアルバイトの給料計算を始めた。
 単純作業だから考え事をしながらでもできる。
 会社事業のアイデアを出したのも柿枝だった。
 さまざまな病院で受けた、検査、治療、投薬などの記録をすべて一括して一枚のカードやスマートフォンのアプリで管理できるシステムを作りたい、というのは彼の夢だった。彼の八十を超えた祖母が、多くの病院に通い、自分の症状や投薬を「覚えきれない……」と嘆いているのを見て思いついたらしい。また、彼は祖母がいろいろな病院で何度も何度も同じような検査を受けていることも気になっていた。
「保険が使えるとはいえ、金と時間の無駄遣いだよな。保険料は高くなるばかりだし。それに、祖母ばあちゃん、MRIが大嫌いで、あれをやるたびに体調が悪くなっていく気がするんだ」
 彼の志を受けて、社名も「ぐらんま」となったのだった。
 起業当初は病院側にまったく相手にされなかったが、伊丹のねばり強い営業で、美容整形外科として有名な長谷川クリニックに採用されて、少しずつ顧客が増えた。今では、田中は時に厚労省などの委員会から声をかけられることもある。
 ―――私たちはずっと彼の夢を追っている。
 自分がここで家事をしなくなったのは、柿枝がいなくなってからではないか。
 昔は鍋パーティーの時に灰汁あくを取ったり、空いたグラスを下げて洗ったり、そのくらいのことはしていたのだ。
 鍋はモモちゃんが作ってくれたし、最後の片づけは皆でしたけど。
 そんな時、すっと隣に来て、一緒にやってくれたのが柿枝だった。
 胡雪の隣に来てグラスを拭いてくれたり、「胡雪はたこ焼き、どっちが好き? 外カリカリの関東風か、やわやわの関西風か」と訊いてくれたりした。
 ―――そうか。柿枝君がいなくなった頃から家事をやらなくなったのか……いや、違うかな。母と姉が、結婚を迫るようになってからか。

 胡雪の六つ年上の姉、胡春こはるには、もう小学四年生の子供がいる。その下に幼稚園児の五歳の男の子と二歳の女の子もいる。三人というのは、今時では子沢山の方ではないか。
 四年生の女の子を私立中学用の進学塾に通わせるかどうか、というのが、この正月の実家の話題の中心だった。
 三人の子供と専業主婦と、その中学受験を支えられる収入がある義兄は商社勤務だ。東急とうきゆう線沿線に中古だけど百平米近いマンションを買っていた。
 普通。
 姉と母はそれを普通と呼ぶ。普通とか人並みとか。
 普通という名の、実は、とんでもなくハイレベルのエリート人生。
 それに気づかないならともかく、本当は心の底で二人は気づいている。自分たちが一見普通そうに見えながら、すばらしく幸福な場所にいることを。
 国産だけどワンボックスカー、ブランドもののベビーカー、流行りのマザーバッグ……それらすべてが「上質の普通」を高らかに指し示している。
 そんな場所に胡雪の居場所はなく、正月二日には早々に自分のマンションに帰ってきてしまった。
 仕事がある、と言って。
 そして、その足で目黒の会社に出社すると、そこには当然のように、モモちゃんとアルバイト学生がいた。年末からずっと泊まり込んでいたらしかった。その日はめずらしく、強引に彼らを誘って飲みに行った。
 そう、いろいろ文句を言いながらも、この会社はいつでも居場所を胡雪に与えてくれていた。仕事という口実、同僚という仲間を。
 母はここ数年、ちらちらと結婚を勧めてくる。
「お姉ちゃんはその歳には二人の子がいたのよ」と言って。
 言われなくてもわかっているし、その一人はお腹の中だったはずだが、それを指摘するのもいまいましい。どうせ「そんなのどちらでも同じでしょ」と言われるに決まっている。
「あんな、男ばかりの会社にいて、彼氏はできないの?」
 姉が問うのも毎年のことだ。
 だいたい、胡雪が大学を卒業して就職もせず、友人たちと起業する、と言った時、一番反対したのはこの姉だった。
「大きな会社にしか大きな仕事って来ないんだよ」
 あの時の、姉のしたり顔をよく覚えている。
 なんだよ、大きな仕事って。
 姉は結婚前、大手ゼネコンに勤めていたから、文字通りビルとか駅とかを建てることを「大きな仕事」と言ったのかもしれないけど。
 しかし、それよりも、姉が心配していたのは別のことだとすぐにわかった。
「お父さんたち、あの子を甘やかしすぎ。なんでちゃんと就職活動させないの。就職活動も人生経験の一つなんだから!」
 まあ、そこまではよかった。しかし、姉は本当に言いたいことを後回しにする癖がある。
「妹がちゃんとした会社に入らないなんて、恥ずかしくて君島きみじまさんやお義母さんたちにも言えないよ」
 君島、というのは義兄の名字だ。
「まあ、いいじゃないか。胡雪は女の子なんだし」
 無口な父がめずらしく取りなしているのを隣の部屋から聞いてしまった(その父の言葉も少し気に入らなかった)。
「もしも、その起業とやらがうまくいかなくて、借金でも作ったらどうすんのよ? お父さんやお母さんに借金頼んできたりして、うちの財産使い込んだり」
「使い込むほどの財産もないよ」
 父はうまく話をそらしていたが、姉はまったくひるまない。
「保証人になることを頼んできたり、破産したり、うちまで借金取りに追われたり、やくざが家に来たり……」
 すげえ想像力だな、と胡雪は思った。起業するって言っただけで、これだけの物語をあみ出せるとは。実際には、学生時代の友達とアルバイトで貯めた金、一人二十万ずつ出して、百万を出資金に起業しただけなのに。
 確かにその後、柿枝が数千万を出してくれる出資者を見つけてくれて、姉が心配するような大きなお金が動いていたことは間違いない。
「そんなことになったらどうするつもり! ねえ、お父さんてば!」
 知らんがな、と心の中で思わずつぶやいてしまった。
 とにかく、姉の頭の中では、起業→行き詰まり→借金→やくざの督促→破産みたいな図がきれいにできあがっているようだった。
 正義の人は怖い。
 自分が正しいと思っている人間はどうしてこんなに偉そうなのだろう。普通からそれることをどうしてこんなに恐れているのだろう。
 ただ、起業しただけ、ただ、仲間が欲しかっただけなのに。