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 胡雪は行き場がなくなってしまった。
 トイレに入って、便器に腰を下ろす。もちろん、そこはきれいに整えられていた。手拭きタオルや床のマット……なんとなく惰性で置かれていたそれらがすでに洗ったものに取り替えられている。予備のものを使ったのか(それがどこに置かれているのかも、胡雪は把握していなかった)、あの人がここに来て最初にはぎ取り、洗濯したのか……洗濯機には乾燥機がついているからそれは可能なのだけど。
 トイレットペーパーの端が三角に折られていないのを見て、少しほっとした。そういう気配りをする女は嫌いだったし、三角に折る時の手はまだ洗われてないのだと少し前に気づいてから、あれ自体も嫌いだった。
 社内で家事を努めてやらないようにして、ずっと過ごしてきた。
 女だからといって、会社の中で家事をしなければならないわけではないはずだ。それが創業メンバーの「紅一点」という立場だったとしても。
 いや、昔は、少しはやっていた。ここを立ち上げた頃には。
 鍋パーティーで空のグラスがなくなったら率先して洗っていたし、たこ焼きパーティーをする時は足りない食材のチェックを自然にしていた。
 いつからそれをやめたのだろう。思い出せない。
 そして、いくらきれいでも、いつまでもトイレに入っているわけにもいかない。
 胡雪はジャーと水音を立てて、トイレを出た。
 そして、「ぐらんま」社の中枢部ともいえる、CEOの田中がいる部屋の前で立ち止まる。
 この会社の事務所は目黒めぐろ駅から徒歩十一分(徒歩分数が一桁と二桁では賃料が二万は違うと不動産屋で言われた)、ビルを真上から見るとクローバーの葉というか、変形ミッキーマウスというか、少し変わったデザイナーズマンションの一角にある。
 二つの部屋と一つのダイニングキッチンが放射状につながっているような間取りだ。普通のマンションなら居間にあたる部屋を田中や胡雪、伊丹といった、事務と営業畑の人間が使っており、寝室を桃田を始めとしたITチームが使っている。彼らを、胡雪たちはモモちゃんとその仲間たちと呼んでいる。桃田以外はアルバイト学生だ。
 社長が事務や営業と一つの部屋に押し込まれているのは不思議だが、システムとセキュリティーに大きな比重がかかっているこの会社の性質上、誰も異論は挟まなかった。もちろん、IT部屋もベッドも、誰もが使うことができたし、田中はそういうことをむしろ楽しげに言うタイプだった。「社長の僕が一番狭いとこに押し込まれているんですよ」なんて笑って。
 しかし、その日、胡雪は自分のデスクのある居間に入りにくかった。
 半年前からずっと接触していた、阿佐ヶ谷あさがやのレディースクリニックの契約が、どたんばで白紙に戻ったからだ。
「結局、やっぱりね、患者さんのプライバシーが一番大事なのよ、うちのような病院はね」
「ですから、もちろん、うちもそれを何より一番に考えて、最も比重を置いているんです。そのため、あの長谷川はせがわクリニックさんにもご契約いただけたわけですし」
 胡雪はもう何度くり返したかわからない説明をしていた。
 その時の口調が、もしかしたら、少し強かったのかもしれない。もしかしたら、少し押しつけがましかったのかもしれない。長谷川クリニックという名前を尊大に出しすぎたのかもしれない。
 何より、どこか「だから、何度も言っているでしょ」といった雰囲気を感じたのかもしれない。
 大先生と呼ばれている、おばあちゃんの先生に、「少し考えさせてくれる?」と断られただけでなく、きっぱりと「しばらく来なくていいから」とまで言われてしまった。
 いったい、あそこにはどれだけの労力と時間を割いてきただろう。
 女性だから、と担当に任命された。この間は「うちもそういうことに手を着ける時期が来たのかもしれないわね」とまで大先生は言っていたのに。次女の貴子たかこさんと「今度一緒に飲みましょうよ」と言い合える仲にまでなっていたのに。実行はまだだけど。
「まずは、病院内のカルテと調剤の記録だけでも、うちのシステムで再構築させていただけませんか。外とつなげるのはそのあと、いくらでもできますので」
「そうねえ。息子と相談してみるわ」
 先月、そう言ってもらえた時には心の中でガッツポーズをしたほどだった。
 息子はあそこの二代目、ただ無口なだけと胡雪が心の中であなどっていた「若先生」だ。大先生よりも百倍くみしやすそうで、これはほとんど決まりだろう、と思った。
 しかし、今日行ったら、前と少し雰囲気が変わっていた。
 あれは若先生の差し金なのか。それとも、若先生が最近結婚したばかりの、若妻の影響なのか。
 彼女は六本木にある会員制のクラブで先生と出会ったらしい。クラブと言っても、元芸者のママがバレリーナやら舞台女優やら、そういう「夢を追いかけている若者」ばかりを集めた店で、妻もホステスではなく、バレリーナの卵として結婚式では紹介した、というのは看護師たちに聞いた。つまりとびきり美しくて、プライドが高い女だということだ。さらに大先生に従いながら、若先生をコントロールし、あの病院をすでに制御しかけているらしいのだから、なかなかのタマだ、と思った。頭もいいのだろう。
 彼女に嫌われたのかもしれない。理由はまったく思い当たらない。ただ、同じ歳だということ以外に。
 しかし、田中も、レディースクリニックだからと女を担当にするって偏見へんけんだろ、考えが当たり前すぎるんだよ、と胡雪は心の中で毒づく。
 女が女とうまくいくわけではない。
 仕方なく、居間に入る。どんなに嫌でもいつかは行かなければならない。
 正面に座っていた、田中がすぐに顔を上げた。彼の顔は色白で少し長い。それは真面目まじめそうに見えて、どこか公家くげのような品の良さも兼ね備えていた。
「あ、胡雪」
 あ、じゃないよ。帰ってきたのは聞こえていたはずなのに。
 心の中に文句があっても、胡雪はへらへらと笑ってしまった。向こうがいつもと変わらず、優しい笑顔をたたえていたから。柔らかい、こちらを包み込むような温かい笑顔。田中の得意技だ。
「どうだった?」
「ごめん。ダメだった」
 田中の前に立って、自然、小さく頭を下げる。
「いい、いい。あそこはむずかしいんじゃないかと思ってた」
 胡雪が説明しようと口を開いたところで、彼はさらに笑顔になった。
「でも……」
「しばらく様子見て、次は伊丹に行ってもらおう」
 その声はもちろん、すぐ近くにいる伊丹に聞こえて、「おう」と彼は手を挙げた。
 それで終わりだった。説明や言い訳さえする必要もなかった。
 胡雪は黙ったまま、自分の席に座った。田中の横で、伊丹の前。つまり三人はほぼ三角形に座っている。
 営業だけでなく、事務も担当している胡雪にはいくらでも仕事があった。来月の給料の計算もしなくてはならないし、帳簿もつけなければならない。
 だけど、すぐに手をつける気がしなかった。
 ―――いつもそうだ。
 ここで自分は怒られたり、叱責されたりしたことがほとんどない。
 もちろん、学生時代からの友達だけでやっている職場だ。いまだ、友人関係の延長のようなところがあって、上司も部下もない。
 田中のCEOは名目上だし、社員と学生アルバイトという違いがあるだけだ。
 叱責されたのは一度だけ。会社を立ち上げて六年目、長谷川クリニックが得意先になり、急に収入が増えた時だ。まだ税理士を入れておらず、胡雪が出した確定申告書に大きな記入漏れがあって税務署の調査が入った。
 あの頃は胡雪だけでなく、他の社員も仕事が倍増して、会社内がしっちゃかめっちゃかだった。
 いや、叱責といわれるほどでもなかったのかもしれない。
 税務署から田中と一緒に帰ってくると、桃田や伊丹が心配して「胡雪、ごめんな」と謝られた。田中には税務署を出たところで、「これから気をつけよう」と言われた。涙がどっとあふれた。
 きつく叱られないのは、期待もされてないのだと思う。
 起業当時、なんとなく、事務と経理を任されることになって、簿記の資格を取った。その後、部屋の中ばかりではつまらない、と訴えて、営業もやるようになった。でも、たいした成果は出せていない。本当は、事務ばかりしていると会社の経営から取り残されるような気がして怖かった。
 ―――田中君が社長をやってくれなかったら、この会社はどこに行ってしまっただろうか。きっと早々にたたんだに違いない。伊丹は生まれながらの営業、モモちゃんはITの天才。何もない、私。
 学生時代、成績だけはわりによかったけど、それはただ真面目にがりがり勉強してきたからだ。
 デスクの片隅に、純銀製の名刺入れが置いてあった。前にここにいた柿枝かきえだが、胡雪が営業の仕事をしたい、と言い出した時に贈ってくれたものだった。すぐにびて黒ずむのでしばしば磨かないといけない。けれど、その時間は気持ちを落ち着かせてくれる、良い息抜きになっていた。今はピカピカに光っていて、その必要がない。すぐにでもクロスを使って磨きたいのに。
 シルバーが輝けば、輝くほど、胡雪が鬱屈を抱え込んでいる証拠となる。
 ふっと、今、柿枝君がいたら、どう言ってくれるかな、と思った。