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 胡雪がしゃくりあげていると、筧は黙って自分のバッグを出した。ぺらぺらの、バッグというより袋と言った方がいいような、ナイロン製の鞄。スーパーのキャンペーンで配っているエコバッグのような、または、葬式の香典返しのカタログギフトの中から選ぶような、安っぽい、ださい鞄。
 そこから、彼女が取り出したのはリンゴだった。
 つやつやした、でも、まだまだらにしか色づいていないリンゴが、次々と出てくる。
 痩せぎすな中年女がリンゴを持っていたら、それは魔女にしか見えない。
「これ、今日、家を出る時に、アパートの大家さんがくれたの。田舎から送ってきたんだって。台風で落ちたやつ。傷物で、あまり赤くないけど、甘いんだって」
 これは、予算外、あたしからのお世話になるご挨拶、と言って、小さく笑った。
 胡雪は、彼女を雇う時に田中が夜食や夕食用に決まったお金を渡す、と言ってたのを思い出した。その予算外、という意味だろう。
 筧はくるくると器用に皮をむいた。むいたものを四つに割って、さらにそれを割って八つにした。
 きれいな手をしている、と気づいた。ごつごつと骨ばった体の大きな女なのに、指だけはすらりと長くて白くてしなやかだ。
 そのまま食べさせてくれるのか、と思ったら、彼女はキッチンの下の棚から、テフロン加工のフライパンを出して並べた。
 コンロにかけ、ごくごく弱火にして蓋をする。
 筧の様子をじっと見ていたら、少しずつ涙が乾いてきた。そっと指でぬぐった。
「焼くんですか、リンゴを」
「そう」
 その間も、彼女の手は止まらず、残りのリンゴもすべて同じようにむいた。それらを次々と焼いていく。
 キッチンにかすかに甘い匂いが漂った。
「砂糖も水も何も入れないの。ただ、フライパンに並べて蓋をするだけ」
 途中で、筧はフライパンの蓋を取って、胡雪に見せてくれた。みずみずしかったリンゴからじわりと水が出てきて、端がカラメルのように焦げ始めている。彼女はそれをフライ返しでひっくり返した。
「こうして両面、きつね色に焼ければ出来上がり」
 筧は冷凍庫からアイスクリームを出してきた。コンビニなどどこでも売っている、百円台の安いアイスだった。
 小皿に丁寧にこんもり盛って、焼いたばかりのリンゴを載せた。
「さあ。まずはこれ食べて」
 スプーンを添えて、胡雪に出してくれた。
「本当はデザート用だったんだけど」
 そして、胡雪の前に座った。
「……いただきます」
 熱いリンゴが載ったアイスクリームはとろりと溶け出している。それと甘酸っぱいリンゴを一緒に口に入れた。
「どう?」
 胡雪の顔をのぞき込むように見た。
「おいしい」
「よかった」
 筧は立ち上がって、包丁やまな板など、使ったキッチン用品を次々に洗っていく。
「……女の子がいるって聞いて」
 水音の中に、小さな筧の声が聞こえた。
「リンゴをもらったものだから、つい、アイスクリームを買っちゃった」
 女の子だから甘いものなんて、短絡すぎるよねえ、あたし。
 ありがとう、と素直に言えない。
 でも、甘すぎない、アイスクリーム以外、砂糖をいっさい使っていないデザートは心をとろかした。
「これ、紅玉こうぎよくですか」
 ごめんなさい、という言葉の代わりに尋ねた。
「ん? 違うの。普通のリンゴ。アップルパイとかジャムとか、本格的なお菓子作りに使うなら紅玉だけど、あれは高いし、砂糖をしっかり入れないとおいしくならないからね」
 これなら、普通のリンゴでできるから、時々作るんだ、と教えてくれた。デザートなんて柄じゃないんだけど、とつぶやく。
「そうなんだ」
「紅玉を知っているなんて、お菓子作りでもするの?」
「母と姉が」
 母たちのケーキは、砂糖とバターを贅沢ぜいたくにいっぱい使う。
 それそのものが、恵まれた立場を誇示するかのようなお菓子作りだ。
 でも、これは、台風で落ちたリンゴをただ焼いただけ。でも、甘い。十分、甘くて優しい。
 途中から、アイスが溶けきって、焼きリンゴを溶けたアイスのソースで食べているみたいになった。それもまたおいしい。
 今の自分に一番合っているデザートだと思った。
「女の子がいるって聞いて、デザートを作るなんて、女は甘い物好きだっていう、もしかしたら、思いこみや差別かもしれないけど」
 筧はつぶやいた。
「でも、相手を喜ばしたかっただけ。それだけ」
「ありがとうございます。私も感情的になってすみませんでした」
 そんなふうに人に謝ったのは久しぶりだった。なんだか、すっきりした。
「男の役割とか女の立場とか、そんなに気にしなくてもいいじゃないの」
 筧がさらりと言った。
「あたしが家政婦やってるのは、ただ、この仕事がよくできて、好きだからだし」
「あ、なんか、いいもん、食ってる」
 急に声をかけられて驚いた。
 仮眠から起きたらしい、モモちゃんがキッチンをのぞいて叫んでいた。
「うまそう。おれにもちょうだい」
「これはデザート、皆はご飯のあとだよ」
 筧はモモちゃんにも夕飯と夜食の説明をした。さっき胡雪にしたのと同じように。
 これはおにぎり、これは豚汁、冷凍うどんはチンしてカレー汁をかけて。
「うわ、おいしそうだなあ」
「徹夜や夜遅くまで仕事する人には、カレーうどんっていいんだって。消化がよくて、スパイスが脳を活性化する」
「へえ、そうなんだ」
「できたら、食べたあと、三十分くらい仮眠するとさらに効率がいいらしいよ」
「そんな時に寝たら、もう、目覚めない永遠の眠りについちゃいそう」
 筧とモモちゃんが声を合わせて笑った。
 そうだ。女の子のために甘いものを(でも甘すぎないものを)作るのと、徹夜の人のためにカレーうどんを作るのと、どう違うのだろう。
「カレー一口、味見させて」
「少しだけだよ」
 筧は小皿にすくったカレーを彼に差し出した。
「うまーい!」
「油揚げとちくわと玉ねぎが入ってる。食べる時に、ネギを別に載せるんだ」
「これ、うまいなー、ご飯にもかけたい。普通のカレーと少し違うけど」
「カレーうどんの極意、知ってる?」
「なんですか?」
 胡雪と桃田は同時に子供のような声をあげてしまった。
「一さじの砂糖だよ。それを加えることで、味に丸みが出る」
「へえ」
「じゃあ、あたしはそろそろ帰りますから」
 筧はキッチンを磨き上げて、エプロンをイスの背にかけ、コートを着込んで、あのペラペラバッグを手に持った。
「さあ、失礼しますよ」
 玄関に向かう筧を、皆、部屋からぞろぞろ出てきて見送った。
「ありがと、あんした」
「また、今度」
「いいんだよ、あたしは仕事で来ているんだから」
 さあ、仕事に戻って戻って、と筧はしっしとするように、手を振った。
「こんなの、今日だけでしょ。そのうち、慣れたら誰も顔を出してくれなくなるんだから」
「ばれたか」
 伊丹が笑った。
 筧が部屋を出て行くと、誰ともなく顔を見合わせて、「俺たちもご飯にしますか」と言い合った。
 田中や伊丹たちもキッチンのテーブルで、思い思いに、おにぎりと豚汁を食べ始める。
「これ、うま」
 大根葉のおにぎりにかぶりついていた田中が思わず、という感じでつぶやいた。
「こっちの、ゆかりおむすびもなかなか」
「から揚げ、最高。なんか、運動会のお弁当思い出す」
「豚汁、身体があったまるな」
 皆、きっと、さっきの胡雪と筧のやり取りを聞いていたのだろう。だけど、自然に食事が始まったことで、誰も何も言わない。
 悪くないね、家政婦、と胡雪がつぶやいた。
 だろ、と田中。
「じゃあ、まあ、しばらく来てもらうか」
「そうだな」
「賛成!」
 モモちゃんが一番大きな声を出した。
 食べ終わると、また、皆、順番に皿や容器を洗って片づけた。
 胡雪はびっくりしていた。
 このところ、なんだか、ずっと孤独だった。なんだか、「ぐらんま」はずっとぎくしゃくしていた。
 それが、赤の他人が一人来て数時間いてくれただけで、家族みたいにご飯を食べている。
 自然に筧のエプロンを畳んで、戸棚にしまった。なんの義務感もなく、こだわりもなく。
 さあ、私も仕事に戻りますか、と胡雪も少し微笑ほほえんだ。

 

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