まず、玄関が違った。
 池内胡雪いけうちこゆきが外回りの営業から帰ってくると、いつも玄関のたたきに山積みになっていた小汚い靴がなくなっていた。床も、さっぱりとほこりがなくなっている。
 本来なら、喜べるはずの光景なのに、胡雪は眉根を寄せた。
 胡雪は学生時代、友人たちと医療系のベンチャーを起業した。住居としても使える、2DKのデザイナーズマンションを事務所にしている。まあ、当時、なんとなくつるんで、「就職活動したくないね」と言い合っているうちに会社を立ち上げたのを「起業」と呼ぶのならだが。
 いい歳をして、いつまでも学生気分が抜けきらず、さらに、それを許される環境である胡雪たちは、営業にでも出ない限り、ほとんどスニーカーで出勤していた。夏はクロックスのサンダルで、それらの靴を乱雑に会社の玄関に置きっぱなしにしていた。
 かくいう胡雪自身も、スニーカーを二足、パンプスを一足、置いたままだった。渋面じゆうめんのまま靴箱を開ける。もしも、なくなっていたりしたら(その一足は穴が空いていてゴミ箱行きなのは明白だったが)怒鳴りつけてやるつもりだった。
 しかし、そこには彼らの靴がきれいに並んでいるだけだった。棚には古新聞紙が敷かれ(彼らは新聞なんて取ってないので、どこから持ちこまれたのかは謎だった)、磨かれたりはしていないものの、これまたこざっぱりとほこりが払われている。
 その時、「がははははー」という仲間たちの笑い声が部屋の中から聞こえてきた。胡雪は、こっそり靴箱をのぞいた自分が笑われたかのような気がして首をすくめた。
 仲間と立ち上げた会社なのに……。
 そんな自分にさらに頭に来て、誰にも見られていないのに顔をくいっと持ち上げて、靴を脱ぎ中に入った。すると、左手にあるキッチンに、背の高い、痩せぎすな女が、こちらに背を向けているのが見えた。何か洗い物をしているらしい。
 手洗いをするため、その手前にある洗面所に向かう。彼女は、胡雪が声をかける前にくるりと振り返った。
 頬骨の高い、がっちりとした顔立ち、短く切りそろえた髪には白いものが交じっていた。女らしさをみじんも感じさせないその風貌に、胡雪は少しほっとした。
「今日からこちらに来てます、家政婦のかけいみのりです」
 抑揚よくようのない、低い声だった。その体型や容姿にぴったり合っている。
 それもまた、嫌じゃなかった。母の女らしい、でも、妙に強弱のはっきりした、感情的な声にいつもうんざりしていたから。
 それでも、そのくらいでは、胡雪も愛想良くはできなかった。同じくらい、ぶっきらぼうに応えた。
「あ、池内胡雪です」
 他に何か言った方がいいのかしら、年齢とか、趣味とか、会社の担当とか……迷っているうちに、彼女はまたくるっと背を向けて、皿洗いに戻ってしまった。
 こっちが気を遣っているのに、なんだ、その態度は……胡雪はまたむっとしながら立ちすくむ。
 そこに、皆からモモちゃん、と呼ばれている、IT担当社員の桃田雄也ももたゆうやが来た。
 さっきの笑い声は彼のものだったのか、口元にまだそれがひっかかって、口角が上がっている。まっすぐに冷蔵庫に向かうと迷いなく開けて、ミネラルウォーターのペットボトルを取った。見なくてもそれに彼の名前が書かれているのはわかった。キッチンの飲食物には自分の名前を書く決まりになっていたからで、彼は規則をきちんと守るタイプだった。そして、ボトルに口をつけたところで、胡雪と筧の間に漂っているものを感じ取ったらしい。
「何?」
 そっちが入ってきたのに、なに、はないだろう、と胡雪は思った。
「大丈夫?」
 桃田はおそるおそるといった感じで、胡雪に尋ねた。
「何が?」
 かれていることはわかったが、逆に訊き返してやった。
「ん? なんとなく……」
 そして、筧の後ろ姿をちらりと見た。
「冷蔵庫、開けてよかったですか」
 こちらには、そうおびえずに尋ねた。
 筧は振り返り、「あ、もちろん、どうぞ」と言った。
 桃田はひょこひょこお辞儀をしながら出て行った。
 わかってる、桃田はそういうやつなのだ。大学時代からの付き合いだからよくわかっている。
 ITには強く、身体ががっちりしていて、でも山登り以外のスポーツにまるで興味がない。中学二年の時に急に身長が伸び始め、特に鍛えなくても筋肉がつきやすい体質のおかげで、どこに行っても運動部に誘われる。それをうまく断るだけで、高校時代は終わってしまった、と言っていた。そのせいだろうか、いつもどこかおっかなびっくり人と付き合っている雰囲気がある。このごろは、山のためにスポーツクラブに通っているようで、その身体はさらにごつさを増してきた。
 内面も外面も女性に興味を持たれそうなタイプなのに、気づいた時にはもう女に去られているような、察しの悪いところがあった。
 桃田が出て行ったあと、胡雪は洗面所に入った。手洗いとうがいは風邪を持ち込まないための、会社のルールでもあった。
 その洗面所に衝撃を受けた。
 事務所としても、普通の住居としても使える造りのマンションで、しばしば社員が泊まっていく。そのため、洗面台も、鏡も蛇口も、歯磨き粉がこびりついていた。それがぴかぴかになって輝いている。散乱していた歯ブラシや歯磨き粉チューブはもちろん棚に整頓されていた。
 念のため、風呂場をそっとのぞくと、こちらもまた、掃除されたばかりだということがわかった。これまで、ぐちゃぐちゃに床に置かれていた、共用のシャンプーとリンスが片隅にきれいに並んでいた。ふっとそれを取り上げて、ひっくり返して底を見る。
 そこはまだ、汚れていた。底にねばねばした黒い水垢みずあかか、カビのようなものがこびりついていた。
 胡雪は思わず、にやりとした笑みがこぼれるのを抑えられなかった。
 ―――なんだ、家政婦とか言って、家事のプロのはずなのに、こんなことにも気づかないの?
「まだ、完璧な掃除じゃなくて」
 後ろで急に声がして、シャンプーのボトルをとり落としそうになる。いつのまにか、胡雪の後ろに筧が立っていた。
「これから、二回三回来たら完璧になるから」
 それだけ言うと、ドアを閉めて出て行った。
 ―――やっぱ、いけ好かない女! 忍び寄るなんて、気味が悪い。口の利き方まで偉そうだ。
 胡雪は思い切り顔をしかめて、なんとか怒鳴りたくなる気持ちを抑えた。