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「家政婦を雇おうと思う」
 胡雪たちが学生時代の友人と立ち上げた会社「ぐらんま」のCEOである、田中優一郎たなかゆういちろうがそう言い出したのは一ヶ月ほど前のことだった。
「家政婦?」
 一番にそう訊き返したのは、営業担当の伊丹大悟いたみだいごで、彼は桃田とは反対に、小学校に入る前からリトルリーグをうろちょろしていたような根っからの体育会系体質だ。
 けれど、ずっと同じ競技を続けてそちらの方に進む、というわけではなく、小学校では野球、中学サッカー、高校ラグビー、大学アメフト、と見事なくらい一貫性がない。
 どこに行ってもそこそここなし、常にレギュラーの座を得る運動神経を持ちながら、プロを目指すほどの根性も野心もなく、それなのになぜ体育会系かと問われれば、「だって、部活ってそういうもんだろ?」とすらり、と言う。
「文化系の部活だっていくらでもあるでしょ」
 昔、知り合った頃に胡雪が尋ねると、「体育会系以外の部活動なんて意味ないじゃん。数だって、そりゃいくつかはあるだろうけど……少しだろ?」と答えた。「ブラバンと……あと……なんだっけ?」
 そういう屈託のなさが、彼の良いところであり、逆に言えばそれしかない、ということにもなる。
 とりあえず、人に好かれるし、人と接することにまったくストレスを感じないし、先輩後輩の関係とか大好物、らしい。営業用のネクタイをつけて生まれてきたような男だ。彼のような人がなぜ普通に就職せず、胡雪たちの起業に加わったのか、いまだ不思議だ。
「家政婦ってさ、あれ? 人のうちに来て、子供を厳しくしつけたりするやつ」
 そこで例に出すのは『家政婦は見た!』じゃないか、と思ったが、彼は新しい方の家政婦ドラマを口にした。
「会社で何するの? だいたい、会社に来てくれるの?」
 週初めの夕方行われる会議、月曜会の席でのことだった。
 午後五時に集まって、打ち合わせと報告をする。その日に決まっていたのは、一番、プライベートの予定が入りにくい曜日だったからだ。五時ならどんなに忙しくても食事をとりながら話をすることもできる。
 創立時の八年前はほとんどそのあと飲みに行ったり、酒とつまみを買ってきてそのまま宴会をしたものだ。冬なら鍋をしたし、ボージョレーヌーボーを飲んだこともあったし、たこ焼きパーティーをしたこともあった。
 けれど、この数ヶ月、一度もメンバー全員がそろったことはなかった。皆、忙しくて外に出ていたり、締め切りが迫っていたり、「そんな話をするくらいなら一分でも寝たい」と言って仮眠を取っていたりした。
 それが、一週間ほど前「話があるから集まってくれ。どうしても予定があるなら先に言って」と田中からLINEが回ってきていた。
 田中の改まった態度が少し気になりながら集まったのは、創立メンバーの四人だった。
「それが、会社にも来てくれるらしい」
「でも、どうして?」
 きつい口調にならないように気をつけながら、胡雪が尋ねた。
「このところ、忙しいのが続いているじゃん。前は、家事は気がついた人がやるってことだったし、アルバイトの子にやってもらってたこともあった。けど、今、そのアルバイトたちも忙しくてそこまで手が回らないのが実状じゃん。それなのに、会社に泊まったり」
 というところで、一番、会社泊が多い桃田が首をすくめた。
「ご飯食べたり、風呂を使ったりってことは増えている。仕方ないと思うけど、水回りとかいつも汚れているよね。ご飯だって、外に食べに行くなんて夢のまた夢、皆、コンビニとか弁当屋とか、出前とかさ、食べられるのはまだましで、一日、何にも食べないやつもいる。いろいろ身体に悪いし、なんか、会社の空気が殺伐としてる感じがするんだ、ここのところずっと」
 それには、誰も、一言もなかった。
「毎日じゃない、一週間に三日、十四時から十八時まで四時間いてもらって、水回りの掃除と夕食と夜食を作ってもらう」
 夜食、としたのは、この会社が全体的に遅くから始まるからだった。昼少し前くらいに出社して、十時過ぎまで、というのが一番多い。営業の伊丹だけはわりに早く、九時くらいから出社して、夕方には帰る。彼はもともとそういう時間に働くのが好きだったし、取引先に合わせるからだ。年下の、普通のOLの彼女がいることも理由になっている。
「夜食、食べない人は?」
 当然、その質問が伊丹から出た。
「それは家政婦さんに伝えて減らしてもらったら。翌朝食べてもいいし、臨機応変にいこう。来てもらう時間も、とりあえず今はそう決めて、合わなかったら変えてもらう。どちらにしても、家政婦代、食費は会社の経費から出す」
「家政『婦』、ということは女性なのね?」
 胡雪はその時、ざわざわする気持ちを抑えながら初めて尋ねた。
「ん? そう」
 田中は、そこ問題か? と言いたげな顔で答えた。
「どんな人?」
「いや、まだ、決まってない。まだ、どこから雇うかも決めてないんだ。家政婦の派遣事務所というのがいくつかあるらしいからこれから声をかける。まあ、家政婦というくらいだから、女性かな」
「……あんまり若い人はどうかな」
 胡雪は意見した。そんなにうるさく聞こえないように、でも、最低限のことは言っておきたかった。
「同じくらいの歳の人はいろいろ頼みにくいと思う、四十代も……かといって、あんまり年寄りもね。身体が悪くて働くのもつらいって感じじゃ、来てもらうのも悪いし……母親ぶっていろいろこちらに指図してくるのも困るよね」
「結局、どんな歳でもだめじゃん」
 伊丹が笑いながら混ぜっ返した。
「そんなわけじゃないよ。ただ、気になることを確認してみただけ」
 胡雪は言ったが、自分が強く否定しすぎていないか、気になった。面倒くさい女と思われるのだけは避けたかった。
「わかった、わかった。とにかく、いくつかのとこに声かけてみて、推薦してもらった人と会って決めるよ。こんな感じの仕事って話して、やってくれる人がいるかどうかもわからない。それに、嫌だったら、すぐにやめてもらってもいいんだよ。さっきから言っているように、事務所はいっぱいあるし、違うところにまた頼めるんだから」
 そこまで言われると、胡雪はそれ以上反対する理由がなくなってしまった。
 田中はいつもそうだ。完璧に論理を組み立ててから提案してくる。
 桃田が最後にそっと手を挙げた。
「何、モモちゃん」
 田中が問う前に、桃田が言った。
「その人、寝室に入ってきたりするの?」
 IT担当としてプログラムを組んでいる桃田は、この中で会社にいる時間が一番長い。一つの部屋に簡易ベッドを置いて、泊まれるようにしていた。それは社員の誰もが使えることになっていたが、彼の使用頻度が最も多い。そこにパソコンを置いていて、ほとんど彼の自室のようになっている。
 会社への貢献度を考えれば、それはごく自然の成り行きだったし、誰もそれを責めたりしていない。
「いや。掃除を頼みたければ、お願いできるけど」
「お願いしたい時は言う。言わなければ、やらないってことにしてもいいのかな」
 虫が良すぎるかな、と心配そうに付け加えた。
「ううん。好きなようにしていいと思う。こっちもこういうの初めてだし、とにかく、お互いあまり気兼ねなくやっていこう。さっきも言ったように、うまくいかなければすぐやめてもらえばいいんだし」
 そんなふうにして、家政婦を雇うことは決まった。