高志はふたたび泰介の隣に腰をおろし、落ちついて三人の視線の先を見さだめることにした。やはり月ではないのか。そうとしか思えない。あの怪しげな満月がすべての視線を束ねてたぐりよせているように見える。しかしいつもの満月とどう違うというのか。何か異常があったからこそ誰もがあの月を見あげたはずなのだ。
もう一度しっかりと満月を睨みつけてやろうとしたが、高志はすんでのところではっと目を逸らした。みながもし本当に月を見てこうなったのだとしたら、当然俺もこうなるのでは? あらためて家族三人の凝固した顔に目をやってから、ほかに一人でも意識のある者はいないかとすがるように店内を見わたす。見あたらない。見ているこちらが息をするのも憚られるほどに、動いているものが何一つない。なんと不気味な光景だろう。誰も彼もがいっせいに月を見あげ、凍りついている。世界の一瞬をそっくり切りとる立体写真などというものがあるとしたら、きっとこんな具合だろう。そしてそこにうっかり足を踏みいれてしまった人間は、きっとこんな、言葉の向こう側に放り出されたような心持ちになるのだろう。
高志はしばしぽつねんと途方に暮れていたが、しかしやはり月を見ないわけにはいかない気がしてくる。敵の正体をたしかめないわけにはいかない気がしてくる。考えてみれば、ついさっきトイレの窓からじっくりと見あげたばかりだし、トイレを出てからも、ちらちらとではあるが何度か視線を向けている。月を見てこうなるのならとうにそうなっているはずだ。高志はそろそろと首を曲げ、目の端から視界に沈めてゆくようにゆっくりと満月を見た。しばらくそうしていた。またじわじわと、あれは俺の月だ、俺の夜に昇ってきた月だ、という世界の軸が尻に突きあげてくるような感覚が蘇ってきた。
そこではっとした。月が動いているように見えた。夜が胸をひらくことであらわれた白い心臓のように、ふわりふわりと拍動している。いや、錯覚だ。ほかのものが目に入らなくなるほど一途に何かを凝視しつづければ、それがなんであれ仮そめの命を得て拍動するように見えてくるものだ。月は動いてなどいない。じゃあなんだ? 絶対に何かが変わりつつある。絶対に何かが……。
そうか。月が回転しているのか。地球にけっして裏側を見せないはずの月が、いまふりかえろうとしている。見ろ。クモヒトデのような純白の光条を放つティコ・クレーターが右へずずずと動き、裏へ回って見えなくなった。そして雲の海が、コペルニクス・クレーターが、雨の海が、アナクサゴラス・クレーターが、次々と姿を消した。
やがて回転が止まった。かつて見せたことのない裏側の月世界をさらして、ぴたりと静止した。こちらこそが本当の顔だと言わんばかりに。月の裏側にはほとんど海がない。餅をつく兎もいなければ、バケツを運ぶ少女もいないし、本を読む老婆も薪を背負う男もいない。つまり月の裏側には物語がない。心がない。漉きあげたばかりの和紙にこれでもかと滴を散らしたような、あばただらけの白じらと荒廃した世界だ。
高志は月ではなく自分の脳味噌が裏返ったかのようにぐらりと眩暈をおぼえ、思わず夜空から目を逸らした。その瞬間、さらに異様なものを見た。突然、泰介がふりかえったのだ。泰介だけではない。詩織も、美緒も、いっせいにこちらを向いた。その不気味なふりかえり方に高志はぎょっとした。液状の肉体の上で顔だけがずるりと地すべりを起こしたみたいに一瞬でこちらを向いたのだ。
人間としての存在の関節を無理やりもどしたような気色悪い動きに、ほとんど吐き気のようなものをもよおした刹那、すべてが瞬時に動きを取りもどし、現実が騒がしく鳴り響いた。いまのいままで静まりかえっていた店内に、いきなりなごやかな話し声や食器のふれあう音やゆったりとした管弦楽のBGMが渾然一体となってわざとらしいまでになまなましく立ちあがり、分厚く耳をおおった。高志はその世界の急激な揺りもどしによってたかって担ぎあげられ、束の間、魂がぽかんと浮かびあがった気がした。
焼きたてパンの入った籠を持つフロアスタッフがにこやかに横を通りすぎた。背後に座る初老の女が「この前行った孫の運動会で、やっぱり組体操をやったんだけど……」と話すのが聞こえる。窓の外の県道を路線バスが立てつづけに二台通りすぎていった。なんだったんだ、いまのは? 座ったまま夢を見たのか? 高志ははっとして夜空を見あげた。満月だった。そこに餅をつく兎はやはりいなかった。そんな暢気なお伽噺は掻き消え、依然として月の裏側が冷ややかにこちらを見おろしていた。やはり夢じゃない。それともまだ夢を見ているのか? 覚めても覚めてもまだ夢のなかという夢を……。
「あの……」と詩織が目の前でようやく声を発した。
夫の様子がおかしいことに気づいたのか、ひどく戸惑ったように眉根をよせている。しかし話せるのだ。やはり世界はもどってきた。
「ん? 何?」と高志は言った。
「どなたですか?」と詩織が恐るおそるという様子で言った。「その席、うちの主人が座ってるんですけど……」
「え?」と言った高志の驚きの声に、弱々しい笑い声がまとわりついた。「何? 今度はどういう遊び?」
取り入るような笑顔で隣を見るが、泰介もまた困惑と怯えが入りまじった面持ちで、こちらを見あげたり詩織の顔をうかがったりしている。その固く身がまえたような瞳にはいささかの遊び心も見て取れない。美緒に至っては、口もとをへの字にぐっと引きむすび、高志の存在を心から閉め出すべく、あらぬ方を睨みつけている。この美緒の反応は、知らない人間が、とくに知らない男が、近づいてきたときのものとそっくりだ。
「いや、遊びとかじゃなくって……」と言う詩織の声つきもいまや怪訝を通りこし、拒絶と恐れが喉の奥でせめぎあうぴりぴりとした抑制を帯びている。「いま、うちの主人、トイレに行ってるんですけど、もうすぐそこにもどってくるんで……。というより、ここの席はうちの家族で使ってるんで……。なんですか、急に?」
「え?」と言うばかりで高志は言葉が出ず、なけなしの笑みも軋むほどに強張る。
鉄格子をおろしたような冷たい険のある詩織の目つきに、こんな顔もするのか、といまさらながら衝撃を受けた。最後の“なんですか、急に?”と言う口ぶりにも、高志の知らない斬りつけんばかりの響きがあった。演技だとはとうてい思えない。詩織は“うちの主人”とやらを捜すためかトイレのほうをふりかえったが、見つからなかったのだろう、またこちらをぐっと睨みつけてくる。家族の席に突然割りこんできた見知らぬ男から二人の子供を必死に守る雌の獣の目つきなのかもしれない。