最初から読む

 



 小便器の前に立ち、ふと左手の小窓を見あげると、尊大なまでに際立った満月が目に飛びこんできた。また、あれ、と思った。地平線からはなれてすでに赤みがぬぐわれ、いまやぎらぎらと言ってもいいであろうつつしみのない月光を放ちながら、こちらをひたと見すえていた。あの月は家族四人で座ったテーブル席からも見えていて、さっきまでは特段気にならなかったのだが、こうして一人きりになって見あげると、またしても得体の知れない違和感が頭をもたげてくる。家の前で見あげた月がレストランのトイレからも見える、そんな当たり前のことが、当たり前ではなく思える。胸の奥を、あいつは影みたいに俺を追いかけてきた、あれは俺の月だ、という不条理な思いがごろりとよぎる。月とはそもそも、そういうものなのかもしれない。太陽はみなの頭上に分け隔てなく昇ってくるが、月はそれぞれの人間の心の闇に昇ってくるのかもしれない。
 そういえば、前に月を見あげたのはいつだろう。長いあいだ月などまともに見てこなかった気がした。極端な話、子供の時分からずっと月が昇らなかったのだとしても、気づかなかったかもしれない。それがきょう、なぜかはわからないが、俺の心に月が帰ってきたのかもしれない。
 小用を終えて洗面台で手を洗いながら、高志はビール二杯分のほろ酔い機嫌でくつくつと込みあげてくる自嘲の笑いを楽しんだ。月が追ってきただって? 心に月が帰ってきただって? どうかしてる。まったくどうかしてる。
 そのときだ。背後でトイレの扉がひらき、男が一人、後ろを通りすぎていった。高志はそれを洗面台の鏡越しに見ていた。またもや、あれ、と内心で首をかしげた。が、なぜいぶかしく感じられたかはわからない。顔見知りだったろうかと思い、入れ替わりで小便器の前に立った男のほうを横目で見る。四十代前半の中肉中背、ハーフリムの眼鏡をかけ、グレーのセーターにチノパンという地味なファッションで身を固めている。高志でも衣装ケースをあされば、双子のようにそっくりな格好ができそうだ。顔立ちもまた、そこらにいくらでも落ちている目鼻を拾い集めて無難に顔らしくこしらえただけのような、いまいち印象に残らないものだ。つまりどこにでもいそうな四十がらみの男なのだが、しかしこの男にしかない何かがたしかにあって、その何かが、さっき背後を通りすぎたとき、高志の心の裏側をするりと撫でていったのである。そしてその感触は、大槻高志という人間のありようを逆撫でするような、そこはかとなく不快なものだった。
 男が視線に気づいてこちらを向く気配を察し、高志はすぐさま目を逸らしてハンカチで手をきはじめる。そしてそのままドアを開け、背中で気にかけながらトイレを後にした。あの男の何がこうも引っかかるのだろう。見憶えのある顔だったところでなんの不思議もない。この店に来るのは、近所に住む連中が大半だと思われるからだ。しかしそういうことではないという思いが脳裏を去らない。そういうことでないのなら、どういうことなのか。そんなことを考えていると、わずかな酔いまでトイレで流してきてしまったような心持ちになってきた。あの男が近くのテーブルに座っているようなら、あとで詩織に顔を確認してもらおう。誰だか知っているかもしれない。
 
 トイレで見た男についてあれこれ思いを巡らしながら、高志は半ば上の空で自分たちのテーブルに近づいていった。そこでまたもや妙な光景に行きあたる。詩織たち三人はなぜかそろって首を曲げ、窓の外を眺めていた。ただなんとなく同時に目をやったという様子ではなく、外に何かがあり、あるいは外で何かが起き、それに視線が釘づけになっている、そんなふうに見えた。そう思ってレストランのフロアを見わたすと、外を見ているのは三人だけではなかった。なぜトイレを出てすぐに気づかなかったのだろう。食事中の客はもちろん厨房ちゆうぼうに立つ店のスタッフまでが一様に首を曲げ、窓の外に目をやり、何かを喰い入るように見ていた。まさしく喰い入るように。
 高志は立ちどまり、みなの視線をたどって外に視線を向けた。それらしい物音は聞かなかったが、店の前で交通事故でもあったのだろうか。しかし店内から見える範囲の景色にさっと目を走らせても、それらしきものは見あたらない。いったいこの人たちはこうまで顔をそろえて何を見ているのだろう。誰も彼もがやや斜め上を見あげる格好だが、だからといって空に何があるわけでもないのだ。いて言えば月ぐらいか……。
 そこではたと気づいた。店内がしんと静まりかえっている。話し声がまったく聞こえない。食器がふれあう音も聞こえない。レストランならBGMの一つでもかかっていそうなものだが、それすらも聞こえない。ここにいる人間は一人残らず、いや、レストランそのものが口をつぐみ、手を止め、ただひたすらに窓の外に見入っているのだ。
 高志はもう一度、外に視線を向けた。しばし眺め、やがて刺すようなあわちが背すじを這いのぼってきた。車が一台も動いていない。目と鼻の先に交差点があり、県道のほうの信号は青になっているのだが、どの車も中途半端な位置に停車し、まったく流れていない。人も同様だ。交差点で何人か信号待ちをしているが、店内の人びとと同じ方角を見あげたまま、身じろぎもしない。さらにこつけいなことに、散歩中らしいダックスフントまでが足を止め、人間たちと同じ方向を見あげている。
 まるで時間が止まったかのようだ。何か動いているものはないのか、俺以外に。世界に飛びつくように視線を走らせる。樹だ。向こうの街路樹が風にそよいでいる。いや、樹だけではない。窓の外の植えこみにこのレストランの大きなのぼりが何本か立っているのだが、それも絶え間なく風になびいている。つまり時間は止まっていないのだ。ほっとすると同時に引きつるような笑いが込みあげてきた。時間が止まる? 俺はいったい何を考えてるんだ? しかし待て。じゃあこの人たちはなんだろう。なぜ外を見たまま動かないのか。なぜひと言も口をきかないのか。
 高志は詩織のもとに駆けよって肩を揺すり、「おい!」と声をかける。動かない。返事をしないどころか、こちらを見ようともしない。さらに強く肩を揺すり、何度も呼びかけるが、やはり同じだ。夜空を見あげたまま魂が抜けたように呆然とソファに座っている。顔をのぞきこむと、瞬きすらしていないことがわかる。頬に手をあてると、冷たくはない。テーブルに載った右手をつかみ、手首を親指で押さえて脈をたしかめる。脈はある。それならと、手を伸ばして詩織の向こうにちょこんと座る美緒の小さな肩を揺すってみるが、やはりいっこうに反応がない。黙らせるのもじっとさせるのもひと苦労の二歳児が、無言で空を見あげたままいつまでも固まっている。泰介の頭をつかみ、こちらに向けようと試みるが、やはり首が硬直していて無理をするとへし折れそうな嫌な手応えだ。