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 十五分後、四人はすでにファミリーレストランのなかにおり、窓ぎわのテーブル席に座を構えていた。〈ブリックハウス〉という名のとおり、れん調ちようの外観の洒落じやれた店で、家から歩いて十分ほどということもあって、いまの家になってから月に一度は来ている。ファミレスと言っても、茶髪にスウェット姿の家族がどやどやとれこんで来る店でもなければ、行き場のない若者たちが夜更けに流れ着いてひと晩じゅう頬杖をつく店でもない。地に足のついた現実的な人間が、地に足のついた料理を現実的な料金で楽しむための、下手な飾り気のない堅実なレストランなのだ。
 泰介はさっそくメニューを手に取って、選択肢のとぼしい“お子様ドリンク”の欄をさも悩ましげに眺めだす。どうせまたコーラだろうと高志は思うが、どうせまたコーラだろうと言われるのはもちろん、そう思われるだけでも泰介としては大いに誇りが傷つけられるらしく、毎回、ほかの案も充分に検討した結果、わずかの差でやむなくコーラになるのだという雰囲気づくりにはげむのだ。
 詩織は美緒にもメニューを持たせると、いつもやるようにちょっとにやつきながら、
「なんて書いてあるの?」と聞く。
 美緒は促されるままに、料理の写真を見ながら、
「はんばーぐさんは、すたべっきーさんとはもうあそばない、といいました」などと物語を即席ででっちあげる。絵本や図鑑はもちろんスーパーのチラシを渡しても、美緒は産みの苦しみなど毛ほども感じさせずにつらつらと話をこしらえる。二歳でこれなのだから、男が女の嘘にかなうはずがない。「すたべっきーさんが、ちかごろ、いじわるするからです」
「“ちかごろ”だって!」と詩織が笑いながら高志を見る。「一応、使い方合ってるよね」
「みいちゃんが“ちかごろ”なんて言うと、チカチカゴロゴロする何かみたいだな」と高志も笑う。
「チカチカゴロゴロするもの? たとえば何?」と泰介が話に入ってくる。
「それはまあ、あれだな……」と高志は少し考える。「雷だな。チカチカッとしたなと思ったら、しばらくしてゴロゴロいうでしょ」
「うわッ、よく思いついたね。天才!」と詩織が茶化してくる。
「たまたまだよ。絶対たまたま……」と泰介が悔しげに腕を組む。
「たまたまじゃないよ! お父さんはちっちゃいころからずっと、雷のことばっかり考えながら生きてきたんだから……」
「嘘ばっかり!」と詩織と泰介が声を合わせる。
「うそばっかり!」と美緒までもが満面の笑みで重ねてくる。これでまた一つが増えたわけだ。
 泰介は結局、決まり悪げにコーラを頼んだのだが、高志も詩織もまたかという思いをおくびにも出さなかった。美緒はカルピスで、詩織はラ・フランスのフレッシュジュース、高志は隣の市に工場のある地ビールの生だ。ペールエール一杯で九百円もするが、高志はこういうちょっとした贅沢ぜいたくは世界に対するささやかな復讐だと思っていた。
 大学教員を志す者にとっていまはまさに冬の時代、というよりまだ氷河期のとば口に立ったところなのだろうが、地べたを這いずりまわるような非常勤講師の身からからくも脱し、三十五のときにようやく都内の私立大学の社会学部に准教授としての職を得た。長い長いトンネルを抜け、にわかに空がまぶしく晴れわたったのだ。とうとう本物の人生、それまでの借りを世界から返してもらうための、まっとうな男の人生が始まったのである。
 学生時代から十五年にわたって交際していた詩織と、やっと籍を入れることができた。十五年のあいだに一度だけ別れていた時期があったが、それはどちらかに愛情がなくなったからではなく、結局のところ、一向に専任教員の職にけない高志の年々深まりゆく卑屈さがそうさせたのだ。いまとなっては、高志は内心で詩織のことを“そうこうの妻”と呼んでいた。もう一度生まれてきて、今度はさんざっぱらほかの女たちと遊んだとしても、それこそ港に帰るように最後はまた詩織と一緒になりたいとさえ思っていた。
 詩織は不思議な女だった。知りあって二十年以上になるが、高志は詩織が涙を流すところを一度も見たことがない。浮かれてはしゃぎまわるところも見たことがない。怒りに我を忘れる姿も見たことがない。もちろん笑うことも気落ちすることもあるし、腹を立てることもあるのだが、心が天井の低い部屋に住んでいるみたいに、感情のおもむくままに立ちあがって頭をぶつけてしまうのをいつも恐れているように見えるのだ。
 喫茶店でこちらから別れ話を切り出したときも、詩織は取り乱すことなく、大きな危うい感情が潮みたいに引いてゆくのをじっと待つようにしばし黙りこんでから、ほとんど震えるようなかすれ声で、ただ「悲しいこと言うねえ……」と言った。それを聞いた瞬間、詩織が悲しいと言うときは本当に悲しいのだ、というほとんどこの手でつかみとれそうな気づきに胸を貫かれた。そしてその悲しみは目の前に詩織と一緒に座っていて、詩織がそこから立ち去れば詩織の背中にぴたりとついて歩き、詩織がとこにつけば一緒に蒲団ふとんにもぐりこみ、詩織が目を覚ませば一緒に目を覚まし、それこそ影のようにどこまでも詩織についてゆくのだ。結局、高志は詩織と半年ほどしか別れていられなかった。
 これは別れているあいだにある日、はたと気づいたことなのだが、そんな硬い殻を背負ったような詩織の性格は、高志の母ととてもよく似ていた。気づいてしまったとたん、その事実は紙に書かれて最初から自分のひたいに貼りついていて、それを見た何かがずっと笑っていた気がした。「お父さん、悲しいこと言うねえ」。そんな言葉が母の口から出るのを聞いた憶えはなかったが、父がとうとうまくしたてる理屈っぽいげんのあとなどに、いかにも母がぼそりと言いそうなことに思え、幾度も想像するうちに聞いたのに忘れているだけのような気さえしてきた。母は高志が十五のときに死んだが、もし母と詩織を並べて指ではじいたら、きっと同じように淋しく澄んだ音色を響かせたに違いない。自分が母に似た女を探していたなどと考えたことはなかったが、探していなくてもその前を通ったときにふと立ちどまってしまうということはあるだろう。そしてなんとなく腰をおろし、そのままなんとなく日々を過ごしてしまうということもあるだろう。
 高志は、美緒の頼んだキッズプレートのハンバーグに息を吹きかけて冷ます詩織の姿に目をやった。美緒は待ちきれずに口が半びらきになり、フォークの先の肉を見つめすぎて寄り目になっているのが可笑しい。詩織は美緒をもっているときに胸まであった髪をばっさりと切った。髪が薄くなってきたから、と詩織は言った。長いと重みで髪が寝て、分け目の地肌が目立つと気にしていた。気にならないよ、と高志はなだめたが、気づいてはいた。ああ、こうやって女は髪を切るのか、と思った。きっと詩織も同じような感慨にふけりながら髪を切ったのだろう。切ってしまうと、見た目まで高志の母に似てきた。詩織にそんなことは言わなかったが……。