高志は隣で“ふんわりとろとろオムライス”を頬張る泰介の顔をのぞきこみ、言った。
「そういえば、泰介、歯はどうなった?」
それまではくちゃくちゃと汚らしい音を立てて食べていたのだが、泰介は急に口を閉じてつんと澄まし顔になり、静かに咀嚼しはじめた。歯を見せないつもりなのだ。ついこのあいだまで上の前歯が二本とも抜けて門扉が吹き飛んだみたいだったのが、最近になって左の歯が生えてきた。それがまたパワーショベルみたいな馬鹿でかいぎざぎざの歯で、これから相当に歯並びを荒らしそうな具合なのだ。泰介は明らかに父親似で、こうして自分で子供を持つようになると、息子の歯並びの悪さに責任を感じて、ときおり、ごめんね、と謝っていた母のことをよく思い出す。そのころはなぜ謝られるのかぴんとこなかったが、いまはわかりすぎるほどよくわかる。
「見せないつもりか?」と高志はからかうように聞いた。「まあ、それならそれでいいよ。口閉じて食べてるからな」
「恥ずかしいんだよねえ」と詩織が泰介に言う。「お父さんがパワーショベルとか言うから……」
「そんなこと言った、俺?」
「言いました。三回ぐらい言いました」と泰介は澄まし顔のまま答える。
「何? 三回言ったら、もう見せないの? スリー・パワーショベルでアウト?」
「なんの競技?」と詩織が笑う。
泰介もちょっと可笑しかったようで、たまらず口もとがほころび、件の前歯が顔を出した。
「どうやら違ったようです!」と高志はのぞきこみながら声を張りあげる。「まだアウトではないようです! またパワーショベルが見えました!」
「うるさい! 声を落として!」と詩織が笑みを含んだ怒り顔をつくり、はしゃぐ夫をたしなめた。
そんないつもの調子で食事をしながら、高志はふと隙間風に気づくように、俺はひょっとしていま、幸福なんだろうか、幸福になってしまったんだろうか、と自問した。
いまの大学で専任教員となってから、眉に唾をつけたくなるぐらいに人生の風向きがよくなった。二年前の春に四十一で教授に昇格したこともそうだが、現在までに六冊の著書を発表する機会を得て、現代日本の右傾化を扱った新書『顔のない愛国者たち』は十万部を超えるベストセラーとなった。帯には高志のいつになく凜とした姿のカラー写真までが載り、最近のCGはいよいよ凄いなどと詩織や知人らにからかわれたものだ。三カ月前にも同世代の気鋭の哲学者との対談本『救いようがない日本の救い方』が出て、着々と版を重ねている。が、もっとも大きな変化は、今年の春から週に二度、関東ローカルの夕方のニュース番組でコメンテーターを務めるようになったことだろう。帯の写真ぐらいではどうという世間の反応もなかったが、テレビとなるとさすがに違い、いきなり顔を知られるようになった。このレストランのマネージャーの小野という四十年輩の男も、いつだったか、あ、という顔をした。サインを求められることこそなかったが、それからというものフロアスタッフの多くが三割増しぐらいに愛想がよくなった気がする。
しかし高志は元来、浮ついたところのない慎重な男だ。悪運と無才を混同しなかったからこそ不遇の時代を生きのびられたのであれば、当然、幸運と実力を混同することもおのれにゆるすべきではない。が、それよりも何よりも、高志は幸福になることそのものを恐れるようなところがあった。傍から見れば人生の成功者に映ることは承知していたが、幸福という言葉にはどこか信用ならないところがある。不幸はいつだって幸福が力尽きるのを待っている。ただ口を開けて落ちてくるのを待っていればいいのだ。そして高志の胸の奥底にも、口を開けて静かに彼を待ちつづける一つの光景があった。
母が死んだのは高志が中学三年の秋のことだ。すでに一家はF市から都内のアパートに移り住んでいた。鮨屋に質の悪いヤクザ者が出入りするようになり、店を畳まざるを得なかったのだ。そのヤクザ者は母の前夫の知人だとかで、ある日突然あらわれ、あの手この手を使って二年がかりでじわじわと店をつぶした。父は持ち前の頑固さが仇となって人に使われることに我慢がならなかったようで、いくつか職場を転々としたあと、結局、向いてもいないタクシー運転手になっていた。もともと皮肉屋だった父は、そのあいだに酒に溺れる皮肉屋になり、家族に手をあげる皮肉屋になり、やがて皮肉すら言わない不気味な皮肉屋になっていた。普段ろくに言葉を交わさないにもかかわらず、酔った父が無言で母の体を求めることがあった。その気配が薄っぺらい壁越しに伝わってくると、地獄の底でまぐわうような父母の光景がどうしようもなく脳裏に立ちあがってきて、世界の黒ぐろとしたもつれに自分までもが引きずりこまれてゆくような気がしたものだ。
あの日、高志がバドミントン部の夕練を終えてアパートに帰り、玄関ドアを開けると、家のなかが暗く、ひっそりとしていた。ドアを開けた格好のまま、高志はしばし立ちつくした。母のスーパーでのパートは四時までであり、家にいないのは妙だった。しかしそれ以上に違和感を誘ったのは、父母の寝室のドアの前に掃除機が無造作に投げ出されていたことだ。母が掃除中に急に用事を思い出し、ちょっと外に出たとは考えもしなかった。几帳面な母は年がら年じゅう何かを片づけており、一度だけだが、「男が散らかし、女が片づける」と何やら人生訓めいた言葉を漏らしたこともあった。そんな母が掃除機をそこらに放り出すとしたら、さらに厄介な何かを先に片づけねばならなかったということなのだ。
悶え苦しんだような格好で廊下に投げ出された掃除機は、どことなく不穏だった。高志は玄関ドアを閉め、頭上の黄ばんだ弱々しい照明を点けた。掃除機の後ろから黒いコードがまっすぐに伸び、寝室ドアの上に向かってピンと張りつめていた。コードの先はドアの上端に引っかかり、乗りこえ、寝室のなかに消えていた。寝室にある何かがコードを引っぱっているのだ。その力はかなり強いらしく、しっぽをちょいとつままれた鼠のように掃除機の尻がやや持ちあげられ、半ば宙吊りになっていた。
高志はそっと鞄をおろし、靴を脱ぎ、忍びよるように寝室のドアに近づいていった。掃除機のコードが上に挟まっているせいでドアはちゃんと閉まっておらず、三センチほどの隙間からなかをのぞくことができた。母の右手が見えた。暗がりにだらりと垂れさがり、ぴくりともしない。母の背中が内側からもたれかかってドアを押さえ、コードをきつく挟みこんでいた。
いつかこういう日が来ることはわかっていた気がした。掃除機のコードはもう何年も前から母の首にかかっていたのだ。泥酔した父親が仰向けになった母親の胸にまたがり、深い穴でものぞきこむようなどす黒い形相で、しかしあくまで静かに、死んで詫びろ、死んで詫びろ、死んで詫びろ……と呪文のようにくりかえすのを高志は何度も聞いてきた。その呪文が母の心に一滴ずつ溜まり、縁を越えて盛りあがり、とうとうこぼれた。高志はしばしその場に立ちすくみ、寝室のドアを開けることができなかった。
「おーい。もどっておいで……」と言いながら、詩織が目の前でおどけたように手を振っていた。見なれた光景だ。昔からの悪い癖なのだが、高志はいつどこにいても突然、穴にでも落ちたみたいに自分の考えにすっぽりとはまりこんでしまう。
「はーい、帰ってきたよ。何? なんか言った?」と高志は笑いながら聞く。
詩織は高志の空になったグラスを指さし、「もういいの?」と言った。
「ああ、じゃあもう一杯だけ飲むかな」と言って高志は立ちあがる。「頼んどいて。俺、ちょっとトイレ行ってくる。泰介も行くか?」
泰介はストローをくわえてコーラをぶくぶくと泡立てながら、面倒くさそうにかぶりを振った。
「ああ、残念、俺一人か。息子と一緒に便所行くのが長年の夢だったのに……」と高志がトイレのほうへ向かいながら言うと、背後で、
「お父さん、もう何回も夢叶えたでしょ」と詩織が茶化すように言うのが聞こえた。