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 この俺が“うちの主人”じゃないなら、俺はいったい誰なんだ? 高志は泰介の向こうの窓ガラスに目をやり、夜に浮かぶおのれの姿を映し見た。眼鏡をかけた四十三歳の大学教授、夕方のニュースのコメンテーター、大槻高志がそこにいた。しようひげで口の上やあごが黒ずみ、頬がげ落ち、ふと思い浮かべる自分の顔よりも老けてみすぼらしかったが、その失望はいつものことであり、やはり自分は自分だった。しかしガラスに映るにぎにぎしい店内の明るみのなかで、自分の姿だけが夜の側から紛れこんできた者のようにしようすいし、暗く沈んで見えた。
 ごうを煮やした様子の詩織が「すいませーん!」と手をあげ、店の者を呼びはじめた。高志は思わず腰を浮かしかけたが、なんで俺が立たなきゃならないんだと一瞬踏みとどまり、しかしやはり立ちあがってしまった。そして、
「詩織! 詩織だろ!」と手をあげつづける妻につめよる。
 つい“お前”と言いかけたが、いままで一度たりとも詩織をそう呼んだことはないのだ。“あんた”や“きみ”というさらに言い慣れない言葉も喉もとに出かかったが、そう呼んだとたん、いよいよ詩織との隔たりがたしかなものとなりそうでためらわれた。高志は詩織のことを二十年以上ものあいだ、ひと言でその存在を抱きよせられるとでもいうように、ただ“詩織”とだけ呼んできたのだ。しかしいまの高志は詩織に呼びかける言葉を持たず、ただ必死の思いでその女の胸を指さし、「大槻詩織だろ?」と尋ねるばかりだった。
 詩織がはっとふりむいた。ひょっとして知りあいなのか、と記憶の底を漁るような面持ちで。そのまましばらくこちらを探る目つきだったが、やがて訝しげに、
「どっかで会いました?」などと言う。
 高志は胸の奥で静かに重いため息をついた。このに及んで、どこで会ったと言えばいいのか。二十年以上前に軽音楽サークルのボックスで、目覚めるたびにベッドの上で、毎晩のように我が家の玄関で、あるいはいまだ月の表側を見あげているのかもしれないもう一つの世界で……。
 詩織の呼びかけに気づいたのか、それともトラブルのにおいを嗅ぎつけたのか、マネージャーの小野がほかのフロアスタッフを目顔で制しながら近づいてくる。小野はよほど疲れているのか、いつも青白くくすんだ面相に死んだような暗い目を並べているが、少なくとも店にいるあいだはきびきびと小回りのきく男を演じていた。一瞬、この男ならきっと俺のことをテレビで見て知っているはずだといちの希望が胸をよぎったが、自信はなかった。自分の家族にすら忘れ去られた男を、知人でもないレストランの一従業員がどうして憶えているだろう。
 小野が詩織の前に立ち、何か問題でも、というふうに大げさに両の眉をあげ、ただ「はい……」とだけ声をかけてきた。詩織はまだ、どこかで見た顔だろうか、と確信の持てない表情だが、
「あの……この人が突然、あたしたちの席に座ってきたので……」と言う。
 小野は不安をとりあえず受けとめるていでうんうんと大きくうなずくと、高志のほうを一瞥いちべつしてから「失礼ですが、お知りあいでは?」と詩織と高志の両方に尋ねるように二人の顔色をうかがった。詩織が何か答えかけたが、高志はそれをさえぎって、
「小野さん……」とはじめて男の名を呼んだ。その名にしがみつくように。「あなた、僕らのこと、知ってますよね。家族四人でよく来てるじゃないですか。この店に……」
 小野は高志の顔を見、詩織の顔を見、子供たちの顔を見、最後にまた勿体もつたいぶった目つきで高志の顔を見た。そしていかにも弱ったという顔をつくり、「申し訳ありませんが……」とみずからを恥じるふうに頭をさげる。「うーん、どうもお客様のお顔は、すぐには……。大槻様のほうはご家族でよくご来店いただいておりますが……」
「だから僕がその大槻ですよ! 大槻高志ですよ!」とつい声を荒らげながら、高志は狂った状況に意識が上すべりをはじめたような、ぼうっとした心地になってきた。
 なんだろう、これは? どこに出口があるのだろう。次の瞬間にも、はっと目を覚ますのではないか。そして、かたわらで眠たげに薄目を開ける詩織の胸もとに、「怖い夢見た……」と言いながら頬をすりよせ、甘えるのだ。しかし目の前にいる詩織は、高志が自分の正体を、よりによってあの大槻高志だと、自分の夫だと、臆面もなく宣言したせいだろうか、心底うんざりした面持ちでかぶりを振っていた。店じゅうの客が迷惑げにこちらの様子をうかがいはじめていた。泰介は眉間にあどけないしわをよせて大人たちのやりとりのそばで呆然としていたが、美緒がとうとう泣きはじめ、「ママぁ!」と言いながらソファの上を詩織のほうに這いよってくる。詩織はそんな美緒を抱きあげると、高志がそうされることを夢見たように胸もとにしっかりと引きよせ、背中をさすりはじめる。
 そこにさらなる追い討ちが来た。「なになに? どうしたの?」と言いながら、さっきトイレで一緒になった眼鏡の男が詩織のほうに近づいてきたのだ。
「知らない!」と詩織はそれに吐き捨てるように答える。「なんか変な人が、急にその席に座ってきて、なんかもう……ほんとに気持ち悪い……」
 その口調には、いるべきときにいなかった夫をなじるような親密な響きがあった。男が困惑の表情でこちらを見た。一瞬、目が合った。視線の上で磁石の同極のように互いに突き放しあう何かが行きかった気がした。そういうことか、と高志は思った。
 男の姿をあらためてつくづく眺めた。体格も自分とほとんど違わないが、服装も髪形も、そして眼鏡までもがまったく似たりよったりだ。それでいて、すべてが少しずつ違う。その少しずつが積み重なり、二人は明らかに別人なのだ。しかしもし交換可能な二人の人間がこの世に存在するとしたら、それはこの二人ということになるのだろう。さっきトイレで高志を襲った違和感は、録音した自分の声を聞いたときのような、よそよそしさと親近感が奏でる不協和音のごときものだったに違いない。
 男が、詫びるような気づかうような、それだけになおいっそういやらしく思える手つきで詩織の肩にそっとふれた。それを見た瞬間、高志は、嫉妬しつととはけっして呼びたくない未知の激情によって自分の存在の芯がほとんどねじ切れそうになり、思わず身を強張らせた。飛びかかって男の手首をひねりあげ、詩織は俺の女だ、と耳に噛みつかんばかりに怒鳴りつけてやりたかった。しかも詩織だけではない。泰介も美緒も、いまやこの男のものとなりつつあるのだ。高志の足はひとりでに半歩前に踏み出していた。と、そこで小野が押しとどめるように眼前に立ち、
「お客様……」となだめる声つきで言った。「ここじゃあなんなんで、向こうでお話しさせていただいてもよろしいですか?」
 高志は小野の目をのぞきこんだ。目尻にへつらうような細かいしわが集まっていたが、どんよりとした瞳の奥底には、頭のたがが外れた厄介な客をいかにして穏便につまみ出すか、そんな憂いが沈んでいた。決定はくだされたのだ。世界からはじき出されたのは俺のほうなのだ。世界は俺一人をはじき出し、ぴたりと輪を閉じてしまった。しかしどこにはじき出されたんだ? ここはいったいどこなんだ? 高志はいま一度、夜空を見あげた。秋のまっただなか、ふりかえった満月が、狙いつづけてきた獲物をまんまと罠におとしいれたということなのか、いよいよおごった輝きを放射していた。



 しかし高志は世界から完全にはじき出されたわけではなかった。
「あんた、そこで何してんの?」と背後から声がかかったのだ。

 

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