『背中の蜘蛛』は、第一部「裏切りの日」、第二部「顔のない目」、第三部「蜘蛛の背中」の3つのパートからなる物語です。今回はその中から、選りすぐりの場面をご紹介。ここで読む断片のひとつひとつが繋がった時、不穏な●●の正体を知ることになる――。
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白い壁は、見つめていると動き始める。細かな凹凸、そのひと粒ひと粒に生命が宿り、右に左に、上に下に、仲間を踏み越え、追い落とし、しかし何かの秩序に従おうと、蠢き続ける。
あの壁を手で押したら、どうなるのだろう。生米の詰まった米櫃に手を入れるように、細かな粒が指の股から這い上ってきて、五本の指を覆い尽くし、やがては手の甲まで呑み込むのだろうか。
手首まで埋まって、肘まで引き込まれて、肩、腋の下まで取り込まれて、おそらく俺は初めて見る。
蠢く白い粒の、一つひとつを。
脚がある。何本も。無数に蠢く白い虫。それが、壁の正体。
あの虫の集合体が壁であることをやめたら、どうなるのだろう。巨大な水槽のガラスが割れ、水が溢れ出すように、こっちに襲い掛かってくるのだろうか。雪崩に弄ばれるように、俺は白い粒々の波に、身を委ねるしかなくなるのだろうか。
手の届くところにあったウイスキーのボトルを掴む。奇跡的に倒すこともなく、口元まで運んでくることができた。フタは閉めていない。そのまま口をつける。安物のスコッチ。味は分からない。濃い熱が、口から胃までの内壁を融かしながら流れ落ちていく。
ベッドを背もたれにして、今一度、正面の壁を見る。
壁は、壁だった。
枕元に置いておいたタバコの包みに手を伸ばす。重ねてあったライターも一緒に掴む。太陽のぬくもりがある。珍しくカーテンを開けていたからだ。
抜き出した一本目は折れていた。二本目を銜え、火を点ける。
吸い込んだ煙を、全て吐き出す。天井に雲が溜まる。
稲光、雷鳴。
雲の中にいる、お前。なぜこっちを見ている。俺の何を見たい。何を知りたい。いい歳をして、真昼間から自慰に耽るさもしい姿か。半分乾いた昨夜の反吐を、今頃になってTシャツで拭き取る間抜けな姿か。
おい、今なんて言った。
こちらは、廃品回収車です。ご家庭内でご不要になりました、テレビ、エアコン、オーディオ、人間などを、無料にて回収いたします。壊れていても、かまいません。お気軽に、お声かけください。
ちょうどいい。俺だ。俺を回収してくれ。
世界が揺れている。歩いていると、壁がぶつかってくる。自販機がぶつかってくる。人がぶつかってくる。車がぶつかってくる。
電信柱の根元に腰を下ろす。手をついた地面は犬の小便で濡れていた。白線の向こう、車道のアスファルトに両足を投げ出す。郵便屋のバイクも、ダンプトラックも、タクシーも、俺の足を避けていく。
邪魔なんだよ、お前――。
分かってるよ。邪魔したいんだから、邪魔でいいんだ。
また一人、大きく俺を避けた歩行者、大学生の男が、向こう側の歩道を通り過ぎていく。携帯で女に連絡をとっている。今日は会えない、バイトがある。えー、今日は会えるって言ったじゃん。先輩から急に、シフト代わってって頼まれた。予約したお店どうすんの。キャンセルしといて。当日だとキャンセル料取られるよ。マジわりい。
その携帯には、別の女とのセックス動画が入っている。男は今夜、その女と会う。女から金を受け取るためだ。
タバコを吸いたくなったが、持ってきただろうか。砂粒と犬の小便のついた手で、あちこちのポケットを探る。タバコはなかったが、何百円か小銭が見つかった。これで買えばいい。一番近いタバコ屋はどこだ。
電信柱に掴まりながら立ち上がる。風圧を感じるほど近くを、路線バスが通り過ぎていく。窓際に座っていた老女は、これから孫のために金を届けにいく。会社の金を三百万盗まれた、すぐに補填しなきゃマズい、ばあちゃん、助けてくれ。分かったよ、どこに持っていけばいい。区役所前まで持ってきてくれれば、会社の後輩がいるから、そいつに渡してくれ。ああ、分かったよ、そうするよ。
ブロック塀に手をつきながら歩く。正面から若い母親。ベビーカーの子供は目を瞑っている。この子さえいなければ、この子さえいなければ、この子さえいなければ。
右手には建築現場がある。造るのは七階建てのビルだが、今はまだ基礎工事中だ。ここの鉄筋、本当に半分でいいんですか。大丈夫だよ、分かりゃしねえよ。
現場の向こうは古い団地。もう嫌、こんな生活。奥さん、気分がスッキリするお薬、あるんですよ。じいちゃん、早く年金引き出してこいよ。ほらもう、早く塾に行きなさい。あんた、いつんなったら仕事決めてくんのよ。ママには内緒だよ、おじさんとどんなことしたのか、ママには黙ってようね。もう、無理です、ほんとに、二千円しかないんです。だったら親の財布から抜いてこいよ。
まだ、タバコ屋は見つからない。
公園で目を覚ましたら、もう辺りは真っ暗だった。
ポケットを探ると、タバコはあった。ライターもあった。近くに灰皿はないが、かまうことはない。
ゆっくりと煙を吐き出しながら、黒い空を見上げる。明日の関東地方は晴れ、降水確率は十パーセントです。
空っぽのジャングルジム。誰も乗っていないのに、揺れ続けるブランコ。子供の笑い声、大人の怒鳴り声。植え込み、闇の塊、その隙間、向こうの歩道、ガードレール。
ペダルの音、揺れるぼやけた明かり、白いフレーム。
自転車に跨った、制服警察官。
ベンチに誰かいるぞ。酔っ払いか、ホームレスか。職務質問してみるか。こんなところで、強制わいせつでもされたら面倒だからな。
冗談じゃない。お前なんかに、根掘り葉掘り訊かれて堪るか。
「時刻」という概念の放棄。
早朝と夕方、深夜と未明、午前と午後。自宅ならともかく、街に出ると瞬間的にはそれが分からなくなる。分からなくても、かまわなくなる。唯一残るのは「空腹」だ。
「日付」という定義の消失。
時刻を放棄すれば、一日という枠組みも意味を失う。一日がなくなれば、当然「週」も「月」も「年」も瓦解する。それでもなお、俺を縛り付けるのは「季節」だ。寒さは現実だ。暑さは現実だ。相互の緩やかな移行は現実だ。抗えば「死」を得ることもできる。それもまた現実だ。
「社会」という観念からの離脱。
「人は一人では生きられない」という。それは真理であると同時に、幻想でもある。妄想かもしれない。協力とは相互に求めるものであり、一方がそれを停止してしまえば成立はしなくなる。相互協力の集合体。それが社会であり、国家であり、国際秩序である。この観念からの離脱は二者択一を強いる。徹底抗戦か、自然消滅か。あるいは逃亡、潜行。擬態も、あり得るかもしれない。俺は壁、俺は地面、俺は煙。ただ「金銭」から逃れるのは困難だ。少なくとも、この東京にいる限りは。預金残高がゼロになるまでは。
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