『背中の蜘蛛』は、第一部「裏切りの日」、第二部「顔のない目」、第三部「蜘蛛の背中」の3つのパートからなる物語です。今回はその中から、選りすぐりの場面をご紹介。ここで読む断片のひとつひとつが繋がった時、不穏な●●の正体を知ることになる――。
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渋谷区千駄ヶ谷二丁目、最寄駅は副都心線の北参道駅、徒歩七分か八分。他にも中央線の千駄ケ谷駅まで十分、山手線や大江戸線の代々木駅まで歩いても十五分という、非常に恵まれた立地。
そんな場所にある、見るからに高級そうなマンション。夜になると、その高級感はさらに際立つ。エントランスから漏れてくる明かりが、大理石を敷き詰めたアプローチを煌々と照らしている。リッチでお洒落で、なおかつ頑丈そうなマンションだ。
植木範和は捜査用PC(覆面パトカー)の後部座席に身を沈めながら、目の前、助手席にいる佐古充之に訊いた。
「……あの部屋、家賃、何万って言ってたっけ」
「三十二万とか三万とか、そんくらいじゃなかったですかね」
植木は警部補、佐古は巡査部長。植木は三十五歳で、佐古は二十九歳。植木は警視庁本部の組対(組織犯罪対策部)、佐古は高井戸署の刑組課(刑事組織犯罪対策課)所属。階級も年齢も所属も、ちょっとずつ植木の方が「上」だ。
「確か、2LDKだったよな」
「ええ。フロはジャグジー付きだって、報告書に書いてありました」
なんにせよ、自分たちのような地方公務員が住める部屋ではないということだ。
佐古が溜め息をつく。
「……キャバ嬢って、けっこう稼げるんですね」
だいぶ前に聞いた、歌舞伎町のキャバクラ店長の言葉を思い出す。
「そうとも、限んないんじゃないか。実際にやってみると意外とキツくて、一日で辞める娘も多いらしいよ。この仕事は向いてるって自分で思えて、なおかつタフで、頭の回転もよくて口が達者で、美人でスタイルもよけりゃ、そりゃ稼げるんだろうけどさ」
佐古が、鼻から半笑いを漏らす。
「植木さん、やけにキャバ嬢の肩持つんすね」
「別に、肩は持たねえけど、羨ましいっちゃ、羨ましいかな」
「それは、千倉葵がですか。それとも、森田がですか」
千倉葵は西麻布のキャバ嬢、森田一樹はそのキャバ嬢とあの部屋で、今まさに現在進行形で乳繰り合っているのであろう、二十五歳、無職の男だ。
どちらが羨ましいか、と言えば。
「そりゃ……姦らしてくれるっていうんなら、姦りてえからな。どっちかって言ったら、千倉葵と姦りまくってる、森田の方が羨ましいかな」
「植木さん、葵みたいな女、好みっすか」
「ああ、全然抱けるね……っていうかお前、最後にセックスしたの、いつ?」
佐古が少しだけ、肩越しにこっちを振り返る。
「そういうこと、訊きます?」
「訊くよ。っていうか、全然普通の話題だろ。夜の張込みってのは、要するに、他人の夜の営みを見張るわけだから、むしろムラムラして当然なんだよ……だから、言え。教えろ。最後に姦ったのいつだ」
後部座席から、助手席にいる佐古の表情は見えない。よって呆れ顔をしているのか、指折り数えて正確に答えようとしているのか、植木には分からない。
「……二週間前、ですかね」
予想以上に、佐古は真面目な男だった。
「ってことは、この前の休みか。お前、カノジョいるんだったよな」
「はい」
「ちゃっかり、やるこたぁやってんだ」
「植木さんは、どうなんすか」
「俺も二週間前だよ……俺の場合は、風俗だけどな」
素人女とは、もう五年以上もセックスをしていない。二十代の頃に結婚を考えていた相手とは、様々な生活習慣の不一致が原因で別れた。勤務時間、食習慣、性欲の強弱、他人を見る目、危機意識、将来設計。
「あなたといると……すごく、息が詰まる」
自分を曲げてまで、引き留めたい女でもなかった。だが五年以上経った今、植木はひどく後悔している。こんなに女日照りが長く続くと分かっていたなら、自分だってもう少しは努力できた。勤務時間はどうにもならないが、食い物くらいは合わせようと思えば合わせられた。セックスも「姦り溜め」みたいにせず、相手の体調や気分を考慮して控えめにすることはできた。二人で歩いているときくらい、今のあいつはコカインをやってるとか、すれ違った男が大麻臭かったとか、気づいてしまうのは仕方ないが、口を噤むことはできた。
いや、どうだろう。分かっていても、結局自分は努力などしなかったかもしれない。自分を曲げることなど、できなかったかもしれない。自分を曲げて合わせるのは、組織に対してだけで充分だ。それに関する不満はないし、疑問も感じない。ガツガツと、丼飯を掻き込むようにネタを喰い、ホシを挙げる。そこに集中できてさえいれば、自分はいい。自分で、自分を赦すことができる。
それはそれとして、千倉葵はなかなか、植木好みの女ではある。
「葵みたいなさ、なんつーの……豚っ鼻じゃねえけど、ちょっと鼻の穴のデカい女って、エロいだろ。自分でも、コンプレックスに思ったりしてんじゃねえかな。そういうのを、ちょっと恥ずかしがったりする感じが……なんかこう、エロいんだよ」
「植木さん、相当好きっすね」
「お前のカノジョはどうなんだよ。美人系か? 可愛い系か?」
「いや、別に……普通っすよ」
「仕事は」
「ウェブデザインの会社で、なんか、やってます」
「普通のOLさんか……ま、それが一番いいかもな」
植木は五十メートル前方の左手、千倉葵の住むマンションの明かりに目を向けつつ、鼻を穿った。
三月。寒さが和らいできたのはありがたいが、依然空気は乾燥している。小鼻を触るだけで、中に大きな異物があるのが分かる。パリパリに乾いた鼻クソだ。これを、なんとかして取り除きたい。
そこまで思って、ふと気づく。
俺は今、自分の鼻の穴に、自分の指を入れている。
この、監視対象者との格差は、どうしたものだろう。
森田一樹は今も、あの二階の角部屋で千倉葵とよろしくやっているに違いない。二十分も三十分もユッサユッサやって、全身汗塗れになって、終わったら二人で、シャワーも一緒に浴びるのかもしれない。羨ましい。泣けてくるほど羨ましい。
千倉葵がシロなのは分かっている。少なくとも現時点まで、その周辺から違法薬物使用を疑うような証拠は拾えていない。使用済みのティッシュや粘着クリーナー、掃除機の紙パック、吸い殻、割り箸、生理用品などなど、日常出るゴミから得られる情報は多岐にわたる。それらを定期的に、しかも隈なく調べた結果、葵はシロであると、現段階では考えられている。千倉葵からクスリを買った人物がいるという話も、今のところ警察は把握していない。
つまり森田一樹は、女をシャブ漬けにして奴隷化しようだとか、葵にも西麻布の店でブツを売らせてさらに儲けようだとか、そこまでする鬼畜ではない、と考えてよさそうだ。また森田自身の周辺からも薬物反応は出ていない。
森田一樹は、覚醒剤、大麻、コカイン、MDMAといった多種類の違法薬物を売り捌いているにも拘らず、自身ではそれらを一切使用しない、ある意味、徹底したプロの売人だ。二十五歳にして大した野郎だ。
それだけにタチが悪い、始末に負えないとも言える。
放っておいても、薬物の過剰摂取で死んだりはしてくれないのだから、それでいて生きている間は薬物を売り続けるのだろうから、ここは警察が腰を据えて、その入手ルートまで一網打尽にする必要があるのだ。