直木賞候補作『背中の蜘蛛』から5年。著者が新たに描くのは、みなさんの生活に深く関わる「お金」の話。長編『首木の民』の冒頭から、前代未聞の取調べの様子をお届けします!
隣に、妻がいない朝を迎えるのにも、もう慣れた。
朝六時。起こしに来てくれるのは、娘の詩月だ。
「おい、いい加減にしろよ。もう起こさねえぞ」
サッカーでいったら「インサイドキック」だろうか。ドアに蹴りが入るのも毎度のことだ。
「……はい、すみません……もう、起きます」
「もうじゃねえよ。返事はいいから今すぐ体起こせ。起きて立ってここまで来いや」
詩月は、いつからこんな乱暴な口を利くようになったのだろう。高校に入って、それまではずっと長かった髪をバッサリ切ってからだろうか。以来、顔つきまで妙に精悍になったように思う。髪を短くして初めて、ああ、この娘って男顔だったんだな、と気づいたようなところがある。
「うんっ……と」
佐久間龍平は横向きになり、変に熱のこもった体を、とりあえずベッドに腰掛ける恰好にまで起こした。
体の隅々まで燻されたというか、毛細血管まで煤けたというか、明らかに全身の酸化が進み過ぎたこの状態。不用意に立ち上がれば、転倒の恐れすらある。ゆっくりと、とにかく慎重にいこう。
可能な限り静かに、正面の壁に手を突いたつもりだったが、意外なほど大きく「どんっ」と鳴ってしまった。ドアレバーを握り、ゆっくり引き開けただけなのに、よろけて後ろに倒れそうになった。
なんとか踏ん張り、ドア口に覗いた娘の顔を確かめる。
「おは……」
「くっさッ」
詩月は眉間と鼻筋を皺々にし、片手で鼻と口を覆い、焦げた死体でも見るような目で、実の父親を睨みつけた。
「おい、なに飲んだらこんなに臭くなるんだよ。くっさ……なにこれ……マジでくっさ」
美味しいお酒は、ついつい飲み過ぎてしまうものだが、それを高校生に理解してもらおうとは思わない。
「……すまん」
「今日、仕事あるんだよな」
「……ああ」
「そんなんで職場行って、仕事になるわけ」
「それは、大丈夫」
「いやいや、駄目でしょう。完全にアウトでしょう。それともなに、そんなんで務まるような、その程度の仕事なわけ、警察官ってのは」
なんだかんだ、警察官はお酒が好きなのです。
「大丈夫だよ、歯ぁ磨けば……」
「歯磨きで誤魔化せるレベルの酒臭さじゃないんだよ」
「じゃあ、いつもお前が食ってる、あのミントのタブレット。あれ、ありったけくれ……あれ一気食いして、それから出かけるから」
「掌一杯の錠剤を、口一杯に頬張るってか。睡眠薬で自殺するみたいで勇ましいな」
いかん。吐く。
睨まれようが悪態をつかれようが、一階のダイニングに下りれば、そこには詩月が用意してくれた朝食が待っている。
「気持ち悪いんだったら食わなくていいぞ」
「大丈夫。もうスッキリしたから」
「食ってまた吐かれても困るんだけど」
「大丈夫。詩月のご飯は美味しいから」
「酔っ払いのお世辞で喜ぶほどガキじゃねえわ」
さわらの塩焼きと、なめこの味噌汁と、白飯。あと白菜の漬物が少々。
立ち昇る湯気が、キッチンの窓から射し込む朝日にふわふわと躍っている。
「いただきます」
「……ご馳走さま」
先に食べ終わった詩月は、自分の食器だけ軽く洗い、洗面所に向かう。詩月の出かける時間が早いのは、部活の朝練があるからとか、早く行って誰もいない静かな教室で勉強したいとか、そういうことではない。単に入った高校が遠方にある、というのがその理由だ。
なんにせよ、我が子ながら立派だと思う。父親の分まで朝飯を作り、学校から帰ったら掃除や洗濯をし、ときには疲れて帰ってくる母親の食事の用意までするのだ。
そう。佐久間龍平の妻、優香は、現役の看護師だ。
詩月の出産後、小学校卒業までは「夜勤なし」の条件で勤務していたが、詩月の中学入学と同時に夜勤もするようになった。だからといって、そこからいきなり詩月が料理をしたり、掃除、洗濯までこなすようになったわけではない。少しずつ、少しずつだ。
今日の夕飯、カレーでよかったら私が作っとくよ。ありがとう、詩月。じゃあ申し訳ないけど、お願いしちゃおうかな。お父さんのスーツ、今日学校の帰りにクリーニングから引き取ってくるから。おお、ありがとう詩月、助かる。昨日のスーパーのレシートなんだけど。ありがとう、でも五千円で足りた? 千、何百円か足りなかったから出しといた。あー、ほんとごめん。もう、詩月に生活費、全部預けちゃった方がいいのかな。勘弁してよ、私まだ中二だよ。
それが高三になると、こうだ。
「行ってきます。親父、今日は飲まないで帰ってこいよ」
「はい……行ってらっしゃい」
思春期の娘と父親というのは、どこの家もこんな感じなのだろうか。
佐久間龍平が家族と住んでいるのは、東京都杉並区天沼にある、警視庁の家族用官舎だ。
構造的には、メゾネットタイプのアパートみたいなものだ。一階はダイニングキッチン、浴室、トイレ、と六畳の洋室。二階は六畳の和室と、八畳の洋室。妻と娘と三人で住むには、必要十分な間取りといっていい。一棟には三世帯が入居できるようになっている。
ここから、佐久間が勤務する警視庁志村警察署までは一時間ジャスト。最寄りの荻窪駅から中央線で新宿駅、埼京線に乗り換えて浮間舟渡駅で下車。そこから署までは歩いて十分ちょっと。住宅と工場、倉庫が同じくらいの割合で入り交じるエリアを抜けていく。
製本工場の角を曲がったところで、後ろから声をかけられた。
「……佐久間係長」
声で、同じ刑組課(刑事組織犯罪対策課)強行犯捜査係の部下、水沢晃巡査部長であることは分かった。
振り返ると、水沢は佐久間の隣まで小走りしてきた。
「おはようございます」
「おう、おはよう」
「係長、昨夜はけっこう飲まされてましたね」
昨日は交通課交通捜査係の八島統括係長、生活安全課保安係の鈴木担当係長、と佐久間、水沢の四人で飲んだ。
八島は佐久間の二つ上で四十九歳、階級は一つ上の統括警部補。鈴木は四十か、四十一くらいの警部補。比べてこの水沢は三十一歳と断トツに若い。
昨日は、八島から「例の会をやろう」と佐久間を誘ってきた。同じように誘われたのか、鈴木も「参戦します」と加わってきた。
夕方、三人で署を出て歩き始めるとすぐ、コンビニ袋を提げた水沢と出くわした。「なんか楽しそうですね」と探るような目で見るので、「俺たちは『利き酒同好会』のメンバーなんだ」と明かすと、水沢は「自分も入会します」とくっ付いてきた。八島は「若いのに物好きな奴だな」と、えらく水沢のことを気に入っていた。そのこと自体は、佐久間も誇らしく思っていた。
ただ佐久間の、利き酒の成績はてんで振るわなかった。
佐久間たちがよく行く居酒屋には「飲み比べセット」というのがあり、銘柄を三つ選んでオーダーすると、店員がガラスのお猪口に注いで持ってきてくれる。三つの銘柄が書かれたメモ紙を見ていいのはオーダーを担当したメンバーだけ。他の三人が飲んでそれを当てるのだが、昨夜に限って、佐久間は一回も当てることができなかった。
当てた者は抜けられる、外した者は当たるまで飲み続ける。そういう勝負だ。これを「キツくない」と言ったら嘘になるが、それでも酒好きには堪らなく楽しい。
いつも八島にからかわれる。
「佐久間、お前全然、悔しそうじゃないな」
「なに言ってんすか。悔しいっす。めたくた、悔しいれす……ほい、次。次、くらさい……次こほは、当ててみせまふから」
負けたのは、事実だから認める。
しかし自らの名誉のため、ひと言だけ水沢には言っておく。
「馬鹿言うなよ。俺は飲まされたんじゃない。あれはあくまでも、自ら進んで飲んだんだ」
「え、負け続けて、飲まされ続けてたんじゃないんですか」
「違う。俺は勝って抜けても、自分で頼んで、飲み続ける……結局、飲むんだよ、男ってのは」
「男とか女とか、そういう問題では、ない気がしますが」
そんな、どうでもいい話をしているうちに署に着いた。
「……ちなみに、息とか、どうかな。臭うかな」
「それは、問題ないと思いますけど」
ほらな、詩月。やっぱり大丈夫なんだよ。
『首木の民』は全4回で連日公開します。