『背中の蜘蛛』は、第一部「裏切りの日」、第二部「顔のない目」、第三部「蜘蛛の背中」の3つのパートからなる物語です。今回はその中から、選りすぐりの場面をご紹介。ここで読む断片のひとつひとつが繋がった時、不穏な●●の正体を知ることになる――。
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植木も森田を視認した。今、クラッチバッグの中身を係員に確認されている。どんな薬物をどれだけ持ってきているのかは分からないが、係員の目的は録画・録音機材や危険物の有無の確認なのだろうから、あの程度のチェックで引っ掛かるはずもない。そもそも森田だって、薬物入りのパケを裸でバッグに入れてはこないだろう。
さっとロビー全体を見回す。
入場した客はそのままホールに入っていくのと、ロビーに留まってブラブラしているのとが半々くらいか。バーのようなカウンターがあり、そこでビールやスナックを買って一杯始めている客もいる。
ホール入り口の脇には、祝花が並べて飾られている。どうやら今夜出演するのは「アップルマッスル」というアーティストらしい。名前からしてソロではなさそうだから、何かしらのグループなのだろう。ロックバンドか、あるいは「マッスル」だから、マッチョな男性アイドルグループか。客層は男女が半々、二十代から四十代が多いように見える。パンクやヘビーメタルのような、いわゆる「ワル」っぽい恰好の客は見当たらないので、傾向としてはお洒落系とか、爽やか系なのではないか。
すぐに桃井組も入ってきた。
「遅くなりました」
「いや、大丈夫」
森田はバーの前に一人で突っ立っている。すぐ人混みに紛れる感じではない。
もう少し周りを見る。
入り口からすると右手奥、突き当たりの壁には【コインロッカー】の文字と矢印が書かれたパネルが貼ってある。なるほど、思う存分楽しむためには、手荷物だってない方がいいに決まっている。
と、いうことは。
「佐古、ここって椅子はあるのか、それとも立ち見か」
「見てきます」
佐古が小走りで行くのと、森田がふらりと動き出したのが、ほぼ同時だった。
相変わらず怠そうな、ちんたらとした歩き方だ。合わせて植木たちも動き出したが、佐古はすぐ戻ってきたのでよかった。
「……オールスタンディングですね。関係者席みたいな、ロープで囲われた一画にパイプ椅子はありますが、その他はないです。一般客は立ち見になります」
「その、立ち見エリアは区切られてないのか」
「ないですね。フェスとかと同じで、いい場所は早い者勝ちです。まあ、あとからでも強引に割り込んでいけば、前の方にもいけますけど」
植木自身は音楽フェスになど行ったことはないが、なんとなくテレビで、その手の風景は見て知っている。想像はつく。
あんな、大勢の人間が海原の如くウネる状況で、森田はどうやって取引相手と接触するつもりだろう。取引相手はそれが森田だと、どうやって認識するのだろう。また自分たちがその取引現場を現認し、捕捉することなど可能なのだろうか。
いや、違う。
ダラダラとではあるが、森田が進む方を見ていたら、急に疑問が晴れた。
「……分かった、ロッカーだ」
佐古、桃井、三池も前方を見てハッとする。
突き当たりの壁に貼られたパネル。そこにある【コインロッカー】の文字と、右斜め上を示す赤い矢印。おそらくあの右手には階段があり、そこを上っていくとコインロッカーがあるのだ。
開場間もないこのタイミングからすると、まず森田がブツをロッカーに預け、その鍵を人混みに紛れて取引相手に手渡し――いや、それよりも、双方がブツと代金を別々のロッカーに入れ、公演中にどこかで互いの鍵を交換し、あとは各々、都合のいいタイミングで目的のものを取り出す、そういう段取りの方が効率的だ。あるいは逆、今日は森田にとって仕入れの日で、森田がブツを受け取り、交換で相手に代金を渡すという可能性もある。もし今日その現場を押さえることができるなら、その方が収穫は遥かに大きい。
佐古は「なるほど」と呟いたが、桃井はその先を考えたようだ。
「でも、防犯カメラがあればバッチリ、何もかも分かりますよね」
一理あるが。
「どうかな。全てのロッカーにレンズが向いてるとは限らねえさ。あんな連中だ。上手いこと死角を狙ってやり取りするくらい、考えてんじゃねえの」
予想通りと言っていいだろう。森田は奥に向かって歩いていく。突き当たりまで行くと右に進路をとり、すぐのところにある階段を上り始める。
「佐古、撮影しとけ」
「はい」
植木たちも階段に向かう。
「三池は上ったところで待機、逃げようとしたらブッ倒せ。佐古は他に連絡口がないかチェック。あったらそこを塞げ」
「はい」
森田が階段を上りきった。植木たちも階段を上り始める。
半分まで上ったところで、植木は気づいた。
見え始めたコインロッカーの扉が、やけに平らでスッキリしている。番号札が付いた鍵なんて、どこにも見当たらない。
そうか。ここのコインロッカーは昔ながらの、コインを入れて鍵を引き抜くタイプではなく、荷物と代金を入れたら、暗証番号とか、QRコードのようなものが印字されたレシートが出てくる、比較的新しいタイプなのか。ということは、相手と直接鍵を交換しなくても取引はできてしまう。携帯電話で番号なり画像なりを交換すれば、それだけでロッカーから目的のブツを取り出すことはできる。
それでも森田が何番のロッカーを使うかは重要だ。そこに森田が何を入れ、あとで誰がそれを取り出すのか。代わりに森田は、何番のロッカーを開けるのか。
植木たちも階段を上りきった。
広さにして三十畳くらいだろうか。ほぼ正方形のフロアの壁三面が、コインロッカーで埋まっている。何個くらいあるだろう。百か、もっとか。今現在、このフロアにいる客は十人ほど。未使用のロッカーを探したり、扉を開けて荷物を押し込んだりしている。
植木は三メートルほど距離を保ちながら、森田の後ろに回った。佐古は森田の左側、桃井は右側から様子を窺っている。他に連絡口はなさそうだ。
森田は手に持った何かを見ている。小さな紙片、レシートかメモのようなもの。だとすると、すでに取引は始まっているということか。先に代金がロッカーに入れられていて、それを取り出す代わりに森田がブツを中に預ける、そういう段階なのか。
どうやら、目的の番号のロッカーが見つかったようだ。
森田は階段から見ると正面奥、やや右寄りの位置で立ち止まった。自分の顔の高さにある扉、その右側にある黒い小窓に、持っていた紙片をかざす。ピッ、と音がしたかどうかは分からない。
植木は一メートルまで、慎重に距離を詰めた。ここまで近づけばロッカーの中身も確認できる。
森田が扉の取っ手に指を掛ける。そのまま手前に引く。
角度にして九十度、扉が真っ直ぐになるまで開く、そのコンマ何秒か前に、植木は妙なものを見た。
扉と中にあるものを繋ぐ、何か細いもの。
備え付けのチェーンとは別にある、白い、紐?
それが、ピンと張る。
あっ、と声に出す間もなかった。
ボゴンッ、という轟音と共に、赤白い閃光が両目に突き刺さる。同時に抗しきれないほどの衝撃と、鈍くて重たい圧力が前方から襲い掛かってくる。
何も、見えない。
熱、激突、後頭部、熱、左肩、左腕、顔面、刺さる、熱、左脚、頬、額、煙、火薬、煙、痛み、熱、声、悲鳴、遠い、熱、叫び声、焼ける、声、植木さん、桃井さん、熱、重い、熱い――。