『背中の蜘蛛』は、第一部「裏切りの日」、第二部「顔のない目」、第三部「蜘蛛の背中」の3つのパートからなる物語です。今回はその中から、選りすぐりの場面をご紹介。ここで読む断片のひとつひとつが繋がった時、不穏な●●の正体を知ることになる――。
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「おい、岡村代理」
顔を上げ、そう呼びかけたときだった。
刑事課のドア口に、捜査一課長の、小菅警視正が立っているのが目に入った。特捜のある七階の講堂ではなく、四階の刑事課に捜査一課長が顔を出すというのは、事件発生当初ならいざしらず、この段階に至ってというのは少々妙だ。
「なんでしょ、課長」
「いや、いい」
こっちに来た岡村に掌を向けて断わり、本宮は刑事部屋の出入り口に向かった。
「一課長、どうかされましたか」
小菅は口を結び、「うん」と小さく頷いた。
「本宮さん……ちょっと、いいですか」
「はい、かまいませんが」
「出られますか」
「ええ、出られます」
廊下を歩き出した小菅に、とりあえずついていく。エレベーターは使わず階段で一階まで下り、小菅が向かったのは署の裏手、PC(パトカー)や輸送用バスが停まっている駐車場だった。
人に聞かれたくない話だというのは分かった。
なんでしょう。そう本宮が訊くより早く、小菅が口を開く。
「実は一つ、頼まれ事を引き受けてもらいたい」
頼み事ではなく「頼まれ事」と表現したことに、何か意味はあるのか。
「……はい。どんなことでしょう」
「内密で、浜木名都の過去を調べてもらいたい」
「マル害の、妻の過去ですか」
「できれば大学、高校時代までさかのぼって。男関係とか、そういうことをです」
奇妙な指示だが、だからこそ内密で、ということなのだろう。
「それを、なぜ私に」
小菅の横顔に表情はない。目は裏門の方に向いているが、何かを見ているふうはない。
「理由は訊かないでもらいたい。この前まで、特命担当はおたくの中堅でしたね」
「藪木担当(警部補)と、金内主任(巡査部長)です。今は、鑑識と一緒にナシ割り(遺留品捜査)をやらせてます。主に足痕です」
「どんな捜査員ですか」
「藪木は粘り強い、肚の据わった男です。藪木と比べると、金内は若いのもあって、少し粗いところもありますが、勘所を掴むのは上手いです。二人とも、優秀な捜査員です」
「口は堅いですか」
「もちろん」
「鑑識の二人は」
「……口、ですか」
「そうです」
「それは、黙っていろと言えば、喋りはしないですが」
小菅が小さく頷く。
「けっこうです。では、藪木と金内をナシ割りから抜いて、浜木名都の捜査に充ててください。くれぐれも、誰にも知られないように。何か出たら、会議ではあなたの独断専行ということで、報告してください」
問題は、責任の所在なのか。
「私がこの件を思いつき、特捜に無断で藪木と金内を動かした、ということにしろと」
「その通りです。一時的にあなたが悪者になる可能性はありますが、結果が出れば問題はありません。兼松管理官が反発するようであれば、それは私が捩じ伏せます。その報告をする会議には、私も出席しますので」
分からない。
「一課長……でしたら普通に、兼松管理官に、浜木名都を調べるよう指示を出した方がよろしいのでは」
「それをしたくないから、あなたに頼んでいるんです。それに私は、理由は訊かないでほしいと前置きしたはずです。今あなたがしたのは、私に対する誘導尋問ですよ」
なんだ。一課長が、部下の管理官を陥れようとでもいうのか。
やはり分からない。実に不可解極まりないが、断わることもできそうにない。
「……分かりました。藪木と金内に、そのように指示を出します。ちなみに、平間巡査部長に、名都の印象について聞くことは可能ですか」
特捜設置後、浜木名都の聴取を担当してきたのは、捜査一課の平間千加子巡査部長だ。
「それも控えてください。既出の捜査資料を再読するとか、その程度に留めていただきたい」
「……分かりました」
全く、訳が分からない。