『背中の蜘蛛』は、第一部「裏切りの日」、第二部「顔のない目」、第三部「蜘蛛の背中」の3つのパートからなる物語です。今回はその中から、選りすぐりの場面をご紹介。ここで読む断片のひとつひとつが繋がった時、不穏な●●の正体を知ることになる――。
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一昨日、渋谷署で一緒だった後輩から突然連絡があった。
『上山です、お久し振りです』
「おお、久し振りだな。元気か」
『ぼちぼち、ですかね……本宮さんって、今どこですか』
池袋署だと答えると、会って一杯やらないかという。お前はどこだと訊くと、『富坂の近くです』という微妙な返答だった。詳しくは会ってから聞けばいいと思い、場所だけを決めた。双方、帰りの都合を考えると新宿がよさそうだった。
上山が予約したのは、駅から五分ほどのところにある全席個室の居酒屋だった。九月も末とはいえまだまだ暑いので、駅から近いのは助かる。池袋の本屋で少し時間を潰してきたので、着いたのは待ち合わせの二十時ちょうどだった。
入ったところで上山の名を告げ、店員に案内されていくと、上山はもう掘座卓の席に着き、生ビールで始めていた。これも、そういう男だ。
「どうも、お疲れさまです。お先にやってます」
「おう、お疲れ。ほんと、久し振りだな……生、もう一つ」
上山は本宮の八つか九つ下だから、今年、四十五か六か、それくらいの歳のはずだ。渋谷署時代から数えると、約二十年。多少は老けたし、顔も丸くなったように思うが、全体の印象は変わらない。警察官にしては細身の、なかなかの美男子だ。
本宮のビールと料理がいくつか揃ったところで乾杯する。
「じゃ、改めまして。お久し振りです」
「ああ、乾杯」
ジョッキ半分くらいまでを一気に空けた。冷えたビールが、腹の底まで真っ直ぐに落ちていく。一瞬にして全身から汗が引く。
「……そういやお前、富坂の近くって、なんだよ」
富坂署、なら分かる。仮に富坂署地域課に配属されて交番勤務になったのだとしても、「富坂の近く」という言い方はない。普通に「富坂です」「富坂署です」と言えばいい。
上山は片頬を持ち上げながら塗り箸を握った。
「本宮さん、サイバー攻撃対策センターって、分かりますか」
公安部の附置機関だということくらいしか分からない。
「まあ、なんとなくは……それが、富坂署の近くにあるのか」
「ええ。生安(生活安全部)の特別捜査隊と一緒の建物ですけどね」
附置機関とはいえ、上山が公安部に籍を置いているとは驚きだ。
「お前、渋谷のあとは機動隊だったよな」
「ええ。二機(第二機動隊)に行って、麻布に行って、そのあとに三課です」
刑事部捜査第三課。その辺りまでは連絡をとっていたので、ぼんやりと覚えている。
ひと口、お通しの煮物を口にした上山が箸を置く。
「そのあとも……まあ、刑事が多かったですね。途中、組対もやりましたけど」
「それが、なんで公安なんだよ」
大雑把に言ったら、公安部は「国家体制を脅かす事案」に対応するための部署だ。刑事部のように、事案を一つひとつ捜査し、立件していく部署とはまるで性格が違う。
上山は小さくかぶりを振った。
「分かりません。なんか去年、急に、FBIに研修に行けって」
キャリアならともかく、ノンキャリアの警察官が海外研修にいく機会は滅多にない。普通に考えたら名誉なことだ。
「FBI、か……あっちで、何を」
「そりゃまあ、いろいろありましたけど。でも、FBIと州警察の関係は、サッチョウ(警察庁)と本部(都道府県警察本部)の関係と、そもそも全然違いますからね。参考になるようでもあり、ならないようでもあり……その前に、こっちは滅多に発砲なんざできねえんだよ、って話ですよ」
「確かにな」
それでも、羨ましい話ではある。
「どれくらい行ってたんだ」
「十ヶ月ですね。だからまだ、帰ってきて二週間ですよ」
「それで、帰国後に放り込まれたのが」
「ええ、サイバーです。一応、前の部署からの異動って形にはなってますけどね。だから、まだ着任三日目です」
おそらく、上山がFBIで勉強してきたのは主にそれに関することなのだろうが、後輩とはいえ現役の公安部員に根掘り葉掘り訊くのは憚られる。
話題を変えよう。そう思ったのは上山も同じだったようだ。
「本宮さん……そりゃそうと、去年から、警視庁は副総監を二人に増やしてますよね」
「ああ。ちょうど、お前の留守を狙ったみたいにな」
「全くです……って、それはいいんですけど。あれって、どういう狙いなんですかね」
レンゲで揚げ出し豆腐を一つ、自分の皿に取る。
「お前、妙なことを気にするんだな」
「だって、変じゃないですか。今までずっと、総監一人、副総監一人でやってきたのに、副総監ポストをもう一つ設けるなんて」
警視庁だけで四万六千人もの警察官及び警察職員が働いている。一見不可解な人事など、掃いて捨てるほどある。
「そりゃ……一人じゃ、手が回らんからだろ」
「たとえば、どういうことですか」
そんなことを本宮が知るはずがない。知るはずがないが、推測でよければこういうことになる。
「それこそ、お前の研修と一緒なんじゃないか? 特殊詐欺だのサイバー攻撃だの、従来の盗みや殺しと違う、現場に足を運ばない犯罪は増加する一方だ。防カメ(防犯カメラ)映像から逮捕できるのは、せいぜい出し子か受け子まで。その上の連中は、ちょっとヤバくなったらプイッとフケちまう。で、すぐまた別のアジトを構えて、バイト感覚で入ってきた出し子、受け子を使って荒稼ぎする。そりゃ、捕っても捕ってもキリがないはずだよ……単純に考えれば、そういう実務対応専門の副総監と、言わば庶務担当の副総監と、両方が必要なご時世になってきた……と、いうことじゃないのかね。よくは知らんけど」
上山は口を尖らせ、何度か浅く頷いた。あまり納得はいっていないらしい。
一つ、近況で聞き忘れていたことがあった。
「ちなみにお前、今はなんだ。まだブケホ(警部補)か」
上山がビールを吹き出す真似をする。
「やだな……警部になりましたって、ちゃんと連絡したじゃないですか。そんとき、本宮さんだって『おめでとう』って、言ってくれたじゃないですか」
まるで覚えがない。
「そうだったか」
「そうですよ」
「じゃあ、そのサイバーじゃ」
「係長です。一応」
「そうか……」
偉くなったもんだな、まで言ってやろうと思ったのだが、ちょうどスラックスのポケットに震えがきた。
「すまん」
片手で詫びて携帯電話を取り出す。池袋署の代表番号からだ。
この時間の電話が、いい連絡のはずがない。
「……はい、本宮です」
『もしもし、草間です。今ちょっといいですか』
刑事と鑑識を半々で見ている課長代理、草間順平警部だ。
「ああ、大丈夫だ」
『西池袋五丁目で、殺人容疑事案です』
西池袋五丁目といったら、池袋署と目白署の管轄の、ちょうど境界線の辺りだ。
「マル害(被害者)は一人か」
『はい、一人です』
「道具は」
『刃物と見られていますが、詳しいことはまだ』
「分かった。ちょっと酒、入れちまったけど、一応戻る。いま新宿だから……三十分かそこらで着く」
通話を終え、携帯電話をポケットにしまう。
上山は、焼き鳥の串を横に咥えながらニヤついていた。
「……大変ですねぇ、池袋の刑事課長さんともなると」
「なに言ってんだ。お前も、そのうちこうなるさ」
財布を覗くと、五千円札があったのでテーブルに一枚出した。
上山は「すんません、今度またゆっくり」と空いている右手を挙げた。
今度とお化けは出たためしがない。