『背中の蜘蛛』は、第一部「裏切りの日」、第二部「顔のない目」、第三部「蜘蛛の背中」の3つのパートからなる物語です。今回はその中から、選りすぐりの場面をご紹介。ここで読む断片のひとつひとつが繋がった時、不穏な●●の正体を知ることになる――。

 

 

 十一月になり、早くも一週間が過ぎていた。
 特捜本部は最小規模まで縮小され、残ったのは起訴に必要な裏付け捜査担当のみとなった。捜査一課と池袋署刑事課から六名ずつの、わずか十二名。応援の捜査員はそれぞれの署、それぞれの部署に戻り、池袋署の本署当番は六班体制に復帰した。
 本宮が特捜に顔を出すことも少なくなった。兼松管理官や殺人班の係長でさえ、もう特捜に常駐はしていない。小菅一課長に至っては清水杜夫の逮捕後、ほとんど姿を見せていない。
 小菅とは一度、きちんと話をすべきだとは思っているが、そんな機会もないまま、時間ばかりがいたずらに過ぎていった。会えないならせめて電話で、とも思ったが、捜査一課長が多忙なのはよく知っているし、電話で済ませるのも礼を欠くような気がし、なかなか思いきれずにいた。
 そうこうしているうちに、特捜が一つ下の階の小さな会議室に移動することになった。それも引越しは明日の朝一番、講堂を使うのは今日一杯だという。
 ならば最後にもう一度、あの講堂の風景を見ておきたい――。
 そう思った本宮は、少し手の空いた十五時過ぎに、七階まで上がってみた。
 講堂の出入り口にはまだ「西池袋五丁目路上男性殺人事件特別捜査本部」と書かれた紙が看板の如く貼ってあるが、これも明日にはがされることになる。中を覗くと、強く西日が差し込む講堂に残っているのは、わずか三名。明日の引越しに備えてか、講堂後方に寄せられていた情報デスクも一台を残してすでに撤去され、電話や複合機がその周りに寂しく取り残されていた。
 いや、捜査員と思われたうちの一人は、捜査一課長の小菅だった。
「……一課長」
 声をかけながら入ると、小菅も振り返りながら「やあ」と手を挙げた。
「本宮さん。あなたには、いろいろお世話になりましたね」
 むろん、例の件について言っているのだろうが、ここでその話をするのは憚られる。
「一課長、少しお時間をいただけますか。お話ししたいことが……」
 全くの独断で、例の件を兼松管理官に振ってしまったことについて詫びる、今が最後のチャンスだと思った。
 だが、小菅は静かにかぶりを振った。
「いえ、もういいでしょう。済んだことです。本宮さんは、やはり優秀な方だ。私は、そう思っていますよ……失礼。下に、車を待たせているので」
 それだけ言って、小菅は本宮に背を向けた。チャコールグレーのスーツが白むほど、西日が強く、背中を照らしている。
 そんな小菅の後ろ姿が、真っ暗に見えるほど陽の当たらない廊下に消えていく。
 急に、怖くなった。
 あの日、自分は深く疑うこともせず、小菅が秘密裏に発した特命を受け入れ、遂行した。それは漠然とではあるが、事が済めば小菅から説明があると、種明かしをしてもらえると、そう思い込んでいたからだ。
 だが、それはなかった。
 犯人が逮捕されてもなお、小菅は明かせない何かを肚に抱えている。自分はそれの、片棒を担がされたということなのか。
 自分を含め、三人しかいないこの講堂よりも、もっと空虚な何かを想像した。
 分からない。この罪の意識に似たものは、なんだ。
 自分は、何をしてしまったのだ。
 自分は一体、何を裏切ってしまったのだ。