シュペンハーゲンの町は冬になると、空を分厚い雲が覆います。
陰気で、意地悪で、まるで小鬼のはらわたを思わせるようなその灰色の雲から、ちらほらと雪が降ってくるのです。雪はやがて町の家々の屋根や道を覆いつくし、すべてを凍えさせてしまいそうになるのでした。
そんな町の一角に、とあるマッチ工場がありました。工場主のガルヘンという男はとても太っていて禿げ頭で、いつも酔っぱらったような赤い顔をしていました。ガルヘンの作るマッチは粗雑で、火薬がちょびっとしかついていないので、三本のうち二本しかちゃんと火がつかないのでした。
シュペンハーゲンには他に〈セントエルモの火〉という、質のいいマッチを製造販売する会社がありましたが、この会社のマッチは高価なため、市民は火がつかないものが混じっていても安価なガルヘンのマッチを買い求めるのです。そのため、ガルヘンは、贅沢な暮らしをすることができていました。
そんなガルヘンのマッチ工場の隅に、エレンという九歳の少女が寝泊まりをしていました。エレンは、幼いころにお父さんとお母さんを亡くし、遠い親戚のガルヘンのところへ引き取られたのでした。独身のガルヘンは子どもが大嫌いで、エレンにはつらく当たっていました。
その年のクリスマスイブのことでした。
「おい、この役立たずのクソガキ」
ガルヘンはそのブタのような顔を真っ赤にして、エレンを怒鳴りました。
「そんなところで一日中うずくまっていて、ただで飯がもらえると思うな。これを売ってこい」
どさりとエレンの前に投げ出されたのは、大きな籠いっぱいのマッチ箱でした。
「昨日、雑貨屋のヨクナーばあさんが死んだそうだ。ばあさんの店はうちのお得意だったからな、卸すはずだったマッチがこんなに余っちまった。売れなきゃ、大損だ」
「売るって言ったって、どこへ……どこへ行けばいいんですか?」
「そんなこた、自分で考えるんだよ!」
エレンはガルヘンの毛だらけの手で襟首をつかまれ、マッチの入った籠とともに工場の外へ投げ出されました。エレンは積もった雪の上に、顔が半分埋まってしまいました。
「いいか、全部売れるまで帰ってくるんじゃねえぞ」
ガルヘンはそう言い残し、工場の扉をばたんと閉めました。時刻はもう夕方で、雪が降っていました。シュペンハーゲンは港町ですので、海からびゅうびゅうと吹き付ける風もとても厳しいのです。体じゅうの雪を、手袋もしていない手で払い、凍えそうになりながら、エレンはマッチの入った籠を抱え、とぼとぼと歩いていきます。
「誰か、マッチを買ってくれませんか?」
人通りの多い通りまでやってくると、エレンは道行く人たちに声をかけました。
「誰か、マッチを買ってください」
暖かそうなコートを着た男の人、プレゼントを抱えた女の人、幸せそうな家族連れ……。エレンの声に耳を傾けてくれる人は誰もいません。
「すみません」
エレンは思い切って、通りがかった男性の灰色のコートにすがりつきました。男の人は足を止めました。
「なんだ?」
「マッチを、買ってください」
男の人は馬糞でも見るような目つきでエレンを睨むと、
「コートが汚れるだろうが、失せろ、ガキ!」
エレンを突き飛ばしました。籠の中のマッチが、雪の上に散らばります。
「いいか、世の中を甘く見るんじゃねえぞ。マッチを買えだ? 金がそんなに簡単に手に入ると思うな。金がねえやつは、一生みじめな夢を見ているしかねえんだ」
夢には金がかからねえからな、と笑い、ぺっとエレンの顔につばを吐くと、男の人は遠ざかっていきました。
かけられたつばを拭いながら、エレンは涙を零しました。涙もそのまま凍ってしまいそうな冬のシュペンハーゲン。エレンのために立ち止まってくれる人は一人もいません。
いつしか、日は完全に落ちていました。エレンは声をかける元気もなく、家々のあいだを歩いていきます。
ふと、明るい窓が目に留まりました。近づいていって、家の中を覗きました。暖炉には火が燃えていて、きらびやかなクリスマスツリーがある部屋で、家族が食卓を囲んでいます。きれいなお母さんと、優しそうなお父さん、セーターを着た子どもが二人。幸せそうな家族でした。食卓の上には鳥の丸焼きと、おいしそうなケーキがあります。
私にもお父さんとお母さんがいたら、今ごろ……。いや、こんな嘆きは今までさんざんしてきたのです。もうやめようと、何度も心に誓ったのでした。
と、そのときでした。
「君にプレゼントをあげるよ」
不意に、頭の上から声が聞こえました。視線をあげて、エレンは目を疑いました。
二歳くらいの男の子がゆっくりと下りてきたのです。エレンの目線まで下りてきたその男の子はまっ裸で、背中には羽根が生えていて、頭の上には、金色の光輝く輪がありました
「あなたは、天使……?」
「そうさ。今夜はクリスマスイブだっていうのに、あまりに君がかわいそうだからって、神様がぼくを使わしたんだ。さあ、右手をこっちに」
言われるがままにエレンが右手を差し出すと――、ぱちん、ぱちん、ぱちん。天使は三回指を鳴らしました。エレンの手が、じんわりと熱くなります。
「その手で、マッチに触ってごらん。君が触ったマッチを擦りながら願い事をすると、君の好きな夢を見られるようになるよ」
「好きな、夢?」
「そうさ。今後、君が触ったマッチはみんな、同じ効果を持つようになるよ」
天使はそれだけ言うと、花のように微笑み、再び上がっていきます。
「待ってよ!」
エレンは呼び止めますが、すでにそこに天使の姿はなく、じっとりと湿った雪が落ちてくるだけでした。
エレンは身震いをしました。今の不思議な出来事に忘れていましたが、今夜は凍えそうに寒いのです。それに、お腹がすいてしかたがありません。あの幸せそうな家族の食卓に載っている鳥の丸焼きの、せめてかけらでももらえたら、どんなに幸せでしょう。
エレンはそんな妄想を抱きながら、売り物のマッチの箱を開けて一本取り出し、火をつけました。
――シュッ!
すると、どうしたことでしょう。
エレンは、暖かい部屋にいて、目の前には大きな食卓があり、お皿に鳥の丸焼きがあるのでした。それは、あの家族が食べようとしていたものの二倍もあり、とてもエレン一人では食べられそうにありませんでした。
信じられない、という気持ちよりも空腹が勝ちました。エレンはその丸焼きに飛びつきました。
しかしそこは、雪の上でした。
はっとして周囲を見ると、冷たいレンガの壁に挟まれた路地でした。あの明るい窓の向こうには、ケーキを切り分ける幸せそうな家族の姿があります。
手の中のマッチの燃えカスを見て、エレンは天使の言葉を思い出していました。この小さな手には、本当に不思議な力が宿ったのでしょうか。新たにマッチを一本取って、今度はこう願いました。
一度でいいから、暖かいベッドで眠ってみたい。
――シュッ!
エレンの目の前に、それはそれは豪華なベッドが現れました。頑丈そうな木の脚、肌触りのよさそうな絹のシーツ、ふかふかの毛布。いつも工場の硬くて冷たい床に身を横たえて眠っているエレンにとって、それは憧れのものでした。さっそく毛布をめくろうと手を触れた瞬間。
エレンは再び、雪の降る町の路地にいました。手には、マッチの燃えカス……。
やはり、籠の中のマッチはすべて、望んだものを見ることのできるマッチに変わったようです。しかし、その夢は、マッチの火が灯っているわずかなあいだだけしか見られないのでした。ガルヘンのマッチはとても質が悪く、火がついているのはわずかのあいだ、しかも三本に一本は火さえつかないときています。
それでもこれだけ大量にあれば、夜どおし、好きな夢を見てすごせることでしょう。暖かい暖炉も、豪華なクリスマスツリーも、それどころか、小さいころに死んでしまったお父さんとお母さんの姿さえも。エレンはさっそく、箱の中のマッチをあるだけ出そうとしました。
そのときでした。
エレンの頭の中に、ある声が響きました。
(いいか、世の中を甘く見るんじゃねえぞ)
それは、さっきエレンを突き飛ばした男の人の声でした。
(マッチを買えだ? 金がそんなに簡単に手に入ると思うな。金がねえやつは、一生みじめな夢を見ているしかねえんだ)
一生、みじめな夢を見ているしかない。
一生……、みじめな……、夢を……。
一生……、ですって?
「冗談じゃないわ」
エレンは低い声でつぶやきました。
心に願ったものを見ることのできるこのマッチは、たしかに素晴らしく思えます。ですが、夢から覚めたらそこには常に、暗くて残酷で希望のない現実が待っているのです。好きな夢を見られるマッチ? いいじゃないか。結局お前は、そうしてマッチのある限り、永遠にみじめな夢を見ているしかないんだよ――。耳元であの男の人に笑われている気がしてなりませんでした。
(夢には金がかからねえからな)
頬に、あの男の人にかけられたつばの感触がよみがえります。
エレンの胸に、熱い炎が灯りました。
「それなら私は、お金の夢を見るわ」
つま先に落ちる雪を見つめながら、固く誓いました。
「いいえ、夢じゃダメよ。覚めて終わる夢なんて、意味がないもの。私は、現実のお金を手に入れる! 私を助けてくれなかった人たちすべてが、一生かかっても稼ぐことのできないほど、たくさんのお金を!」
お金。それは、何でも買うことのできる、豊かさの象徴。
お金。それは、人々の支配を可能にする、魅惑の力。
お金。それこそ、人生を幸せにする究極の希望。
お金。
お金お金お金。
お金お金お金お金お金お金お金お金。
お金さえあれば、もう二度と、みじめな夢など見なくてすみます。それどころか、なんだって願いはかなうのです。
そうよ、あなたは弱くない。エレンは自分にそう言い聞かせました。
マッチに影響を与えるこの力は、私に富と力をもたらすために、神様がくださったのだわ!
その夜遅く、マッチ工場に隣接するガルヘンの家から火が上がりました。ごうごうと音を立てて燃えるその家の前に、一人の九歳の少女の影があったことは、ただ舞い落ち続ける雪を除いては、誰も知らなかったのでした。
この後赤ずきんは、マッチ会社の社長になったエレンと最後の対決をするのです。
この続きは、書籍にてお楽しみください