1.
指輪の魔人の背中に乗って海をひとっ飛び、バーソラーの港も越え、川も山も砂漠も越えてジュビダッドに戻ってきたときには、すっかり日が上っていました。
「上空から見るとなかなか気持ちのいいもんだね。ロック鳥に運ばれるよりだいぶ乗り心地がいいや」
シンドバッドはご機嫌です。指輪の魔人はジュビダッドの上空を一回りすると、赤いレンガの宮殿めがけて降りていき、絹のカーテンがひらひらと揺れている窓にびゅんと入っていきました。
「わあ!」「うおぅ!」
二人の若者が驚いてひっくり返ります。
「ただいま帰りましただず、ご主人様」
「ああ、びっくりした。君か、指輪の魔人」
胸をなでおろしているのはナップ。その向こうでイーゼルを抱えているのは、絵描きのフーチョンでした。
「願いは叶えましたで、戻らせてもらうだず」
檻を抱えたシンドバッドを床に下ろすと、魔人はナップの手の中の指輪にしゅるしゅると戻っていきました。
「僕が連れてきてほしいといったのは、赤ずきんなんだけどな。君は誰だい?」
「世界一のご都合主義男、船乗りシンドバッドだぜ!」
胸を張って自己紹介するシンドバッド。その脇に抱えられた檻の中で、「私はここにいるわよっ!」と赤ずきんは叫びました。
「ん? 赤ずきんの声がするけど、姿が見えないな」
「ナップさん、檻の中に、ほら」
フーチョンに言われて、ナップはようやく赤ずきんに気づいたようです。
「なんでそんなに小さいんだよ?」
「説明はあと! もう一度、指輪の魔人を呼び出して、私をここから出してくれるように命令してよ!」
ナップはきゅっきゅと指輪をこすり、出てきた魔人に命令しました。
「この檻を消して、赤ずきんをもとの大きさに戻すんだ」
「お安いごようだず」
ぱっ、と檻が消えます。
「きゃっ!」
床に落ちる、と思った瞬間、ずん、ずずん―赤ずきんはようやく元の大きさに戻れたのでした。
「ああ、長くてひどい冒険だったわ」
赤ずきんはナップのベッドに仰向けになって一息つきました。そして、身を起こしてナップに言いました。
「とにかく何か食べさせて。私もシンドバッドも、おなかがぺこぺこよ」
「この部屋には食べ物がないよ」
「指輪の魔人に命令してよ」
また呼び出された指輪の魔人によって、二人の前には羊の丸焼きに魚のスープにパンに野菜にフルーツに焼き菓子と、豪華な食事が並べられたのでした。赤ずきんはシンドバッドと一緒にそれらを食べながら、空飛ぶ絨毯に無理やり乗せられたことからすべてを、ナップとフーチョンに話していきました。
「そりゃ災難だったね、赤ずきん」
「災難なんてもんじゃないわ」
赤ずきんはパンくずを口から散らしながら叫びました。いろいろ腹が立ってしょうがありません。特にあの女泥棒ダリーラの顔を思い出すにつけ、頭から湯気が出そうです。
「しかしその、三つ子の死の謎は解いたんだろう?」ナップは相変わらず気取った感じで言いました。「それならこのあとパールーン王に会いに行こうじゃないか」
「俺も行っていいかな? 赤ずきん帰還の立役者ってことにしてさ」
シンドバッドが言いました。
「シンドバッド、あんた王様に取り入って、ひと儲けしようと企んでるんでしょ?」
「あっはは、いいじゃないか。すべての出会いは都合よくできているんだぜ」
まったく抜け目のない男です。
「まあいいわ。ねえナップ、食事が終わるまでちょっと待っててね」
「ごゆっくり」
ナップはそう言って、ベッドに横になります。
「赤ずきんさん、帰ってきてくださって本当にうれしいですよ」
フーチョンが控えめに言いました。彼はさっきからイーゼルに立てたキャンバスに向かい、ぺたぺたと絵の具を塗っているのでした。のぞき込むとそれは、ナップの肖像画でした。
「こんなやつの絵なんて描いてどうするのよ?」
「僕は友達になった人を絵として記録するんです。その……いちばん描きたい赤ずきんさんの絵はまだ完成していません」
「完成する前に絨毯で飛ばされちゃったものね」
「引き続きモデルになってくださいますか?」
まあいいわ、と赤ずきんは思いました。やるべきことを終えたら、フーチョンの頼みを聞いてあげてもいいでしょう。
「わかったわ。それにしても、どうして目が描かれていないの?」
ナップの絵はほとんど完成していますが、目だけがない状態なのでした。
「私の祖父が生まれたチャイナには『画竜点睛』という言葉があります。目は生命の象徴と考えられていて、仕上げとして描くことにしているのです」
「ふーん……」
「この美しい瞳は最後のお楽しみってわけだね」
自分の目を指さしてナップが気取りますが、赤ずきんもフーチョンもそれを無視しました。
シンドバッドは羊の丸焼きに夢中で、はなから聞いていません。
朝食を終え、少し休んでから、四人は連れ立って王の広間へ行きます。
「おお、どこに行っておったのだ!」
大きなターバンの上で咲いているチューリップを揺らしながら、パールーン王は幽霊でも見るような目つきで赤ずきんを見つめました。両脇にはずらりと、大臣たちや護衛の者が控えています。
「イルジーがお前に頼みごとをしようと、部屋を供したのが十日前。ところが翌朝になってみたら、お前はそのバスケットと共に忽然と姿を消してしまった。勝手に自分の国に帰ってしまったものと思っていたぞ」
「さんざんな目に遭ったのよ」
赤ずきんは、先ほどナップにしたように、空飛ぶ絨毯に無理やり乗せられたことを話しました。
「なんと! お前をそんな目に遭わせたのは何者だ?」
「きっと、彼女の推理力を恐れた保険会社の連中ですよ」
口を挟んだのはシンドバッドです。
「おお、やっぱりそうでしたか」
顔の下半分がひげで覆われた、蟹のような顔――イルジー内務大臣が両手を挙げながら一歩前へ出てきます。
「私があなたに甥たちの死の真相の解明を依頼しようとしていることを、見抜かれていたのだというのですね」
「そなたの賢い甥たちの件か」
パールーン王も合点がいったようでした。
「ナイルパーチの養殖を余に勧めたのも、あの三つ子であった。彼らの進言で余は、朽ちた絵描きの作業場を壊し、池を造ってナイルパーチの養殖をはじめたのじゃ。アルダシル、マグダシル、テンダシル。ああ、イルジーの甥っ子たちよ!」
パールーン王は天を仰いでひとしきり嘆いた後で、シンドバッドの顔を見ます。
「ところで、お前は何者であるか?」
「船乗りシンドバッドです。何を隠そう、溺れかけた赤ずきんを助けたのはこの俺なのです!」
胸をどん、と叩くシンドバッド。
「ジュビダッドまで帰ってこられたのは、指輪の魔人のおかげだわ」
「その指輪の魔人がやってきたのは、俺の幸運のおかげだぜ」
呆れるほど、シンドバッドは自分の幸運に自信があるのでした。赤ずきんは、もうそれについては何も言いません。
「なんだかわからんが、保険会社の連中が赤ずきんを空飛ぶ絨毯に乗せて砂漠へ放り出したとは聞き捨てならん。おい、今すぐ《ラーバク保険会社》の三人をここへ連れてこい!」
2.
パールーン王の家来によって《ラーバク保険会社》の共同経営者三名が連れてこられたのは、それから三十分ほど後のことでした。そのあいだに赤ずきんは、アコノンでの不思議な洞窟の殺人事件を解決したことや、女泥棒ダリーラに“銀のクジャクの布”で小さくされて売られたこと、海で溺れかけてシンドバッドに助けられたことなどを、パールーン王にすっかり話しました。
「来たか、保険会社の商人どもよ」
「はい」「はい」「はい」
三人は悪びれることなく、お辞儀をしました。二人は四十代ぐらいですが、もう一人はずいぶん若く、十八歳くらいに見えました。
中年の一人は長身で、右頬にイチゴのような形のあざのある男。もう一人は背が低く、泥水のように汚れたターバンを巻いたひげもじゃの男です。若い男は女の人のようにきめ細かい肌のきれいな顔立ちで、胸が大きく開いた服を着ており、その胸にサメの刺青が入っているのでした。
「赤ずきんよ、お前を縛り上げて空飛ぶ絨毯に乗せたのはこの男たちか?」
「わからないわ」
赤ずきんはそう答えるしかありません。
「襲われたのは急だったし、三人は覆面をしていたもの」
「声を聞けばわかるのではないか。おい保険商人ども、『神に誓います』というのじゃ」
「神に誓います」「神に誓います」「神に誓います」
声を聞いても赤ずきんは、彼らだと確証を持つことはできません。
「わからないわ。今思えば、あの夜私を襲った三人組のリーダーは、わざとかすれたような声でしゃべっていたような気がする」
「そうか。まあよい。赤ずきんはこうしてこの場に戻ってきた。そして、イルジーの甥の死の謎を解いたという」
ふん、とパールーン王はふんぞり返ります。
「赤ずきんよ、今すぐここで話すがよい。三つ子が殺されたことの顛末を」
「ええ、わかったわ」
赤ずきんは海の上で明らかにした、イルジー内務大臣の三人の甥の死についての推理を話しました。話の途中から、三人の保険屋のうち、中年二人の顔色が変わっていくのが、赤ずきんにはわかりました。ですが、若いサメの刺青男だけは、まったく表情を変えません。
「……というわけよ。どうかしら?」
「すばらしい!」
イルジー内務大臣が両手を広げて叫びました。
「やはりわが甥たちは殺されたのだ」
「なんという推理力よ」
パールーン王もまた感心したように言いました。ターバンの上のチューリップが、ぱあっと花びらを開かせています。
「すばらしき頭脳ぞ、赤ずきん。どうじゃ《ラーバク保険会社》の者どもよ。アルダシル、マグダシル、テンダシルの三人は、神の思し召しで死んだのではない。人の手によって殺められたものであるぞ。今すぐ殺人保険の保険金をイルジーに払うがよい」
イチゴのあざの男と、泥水ターバンの男は顔を見合わせ、これはまずいぞ、という表情になっています。ところが、
「王様に、このサルモンドがお訊ね申し上げます」
若いサメの刺青男が、すらりとした指を胸に当てて言いました。
「今の赤ずきんという女の子の話はよもや、正式な保険金請求ではございませんね?」
「というと?」
「保険金を受け取る者と保険会社との意見に相違があった場合、保険会社が金を支払うべきかどうかは、王が決定する―アッバス国の法にはそう明記されております。間違いありませんね」
聞き取りやすい声ですらすらと述べるサルモンドという男に、パールーン王は気圧されたように「ああ」と答えました。
「間違いない」
「それはよかった。では我々《ラーバク保険会社》は、保険金の支払いを拒否いたします」
周囲の家来たちがざわめきました。ナップもフーチョンもシンドバッドも、驚いたように目を瞠ります。
「なぜじゃ。三人が殺人によって命を落としたことは、今、赤ずきんが証明した。王たる余が認めたのじゃ」
「証明、ですって?」
ニヤリとサルモンドが初めて笑顔を見せた瞬間、驚くべきことが起こりました。胸のサメの刺青が皮膚の中で泳ぎ始めたのです。
「その刺青、動いてるわ!」
赤ずきんが叫ぶと、サルモンドはぎろりと目を光らせました。
「悪魔との契約の証です」
「なんですって?」
「私はペルシャのクテシポンに生まれましたが、六歳の頃にエジプトはアレキサンドリアの学校に入れられました。エジプト呪術を専門とする歴史学者の父は、私を同じ道に進ませたかったのです。しかし私は、勉強についていけず試験という試験に落第しました。私は父を恨みました。もともと勉強など好きではなく、お話を語るのが得意な姉と二人で書店を開きたかったのです。すっかり人生が嫌になり、七歳の誕生日の夜、死んでしまおうと思いました。寮を抜け出し、身を投げようと港に行きましたが、私の前に悪魔が現れたのです」
私のサメをお前の中に住まわせてくれたら、お前に類まれなる学才を与えよう―悪魔はサルモンドにそう囁いたのだそうです。
「私は悪魔の契約を受け入れました。その日以来、この皮膚の上でサメが泳ぐようになったのです。成績はぐんぐん良くなりましたが、あるときひょんなことから先生にサメが見つかってしまいました。悪魔との契約は学則で固く禁じられていました。放校処分となった私は親からも見放され、商才を磨いて金儲けをする決意をしたのです」
告白しているうちにも、その顔の表面を右から左へ、ゆらりゆらりとサメが泳いでいくのでした。なんと気味の悪い光景でしょうか。
「ですからね、赤ずきんさん。私は儲けなければならない。不当な保険金を払うわけにはいかないのです。今からあなたの推理を、崩します!」
突然大きな声を上げた彼の口が、しゃっ!と左右に裂けました。口内に並ぶギザギザの歯は、まさにサメのようです。
「まず長男のアルダシルの件について。犯人がポスマンだとしたら、なぜ犯行後、船室に鍵をかけたのです?」
「えっ?」
「だってそうでしょう。発見時、船室に鍵がかかっていなかったら、『アルダシルは夜中に部屋を抜け出して海に落ちた』……つまり、事故に見せかけることができるのです。船室に鍵がかかっていたら、何者かがトリックを弄したように見られ、その後の展開によっては自分の犯行が明るみに出てしまうかもしれない」
赤ずきんの背中に冷や汗が流れます。
「たしかに」そうつぶやいたのは、シンドバッドでした。「俺がポスマンだったら鍵はかけないかなあ。指先を鍵にできるってことでも、怪しまれるもんな」
「ちょっとあんた、どっちの味方なのよ」
「俺は都合のいい方の味方だ。鍵をかけないほうがポスマンにとって都合がいいなら、その説を支持するぜ」
シンドバッドらしい答えでした。
「というわけでアルダシルの件について、ポスマン犯行説は怪しいどころか、事故説が有力になってまいりました」
得意げに眉を上げるサルモンドの背後で、「いいぞいいぞ」と二人の同僚がはやし立てます。ちょっと待ちなさいよと赤ずきんが文句を言う前に、
「続いて次男マグダシルの一件!」
しゃっ、と再びサルモンドはギザギザの歯をむきます。
「火薬でマグダシルを飛ばしたということでしたが、さて、それだけの威力のある爆発だとしたら、音はどんなものでしょうね?」
「音、ですって……?」
「それは大変に大きな音だったろうな」今度は、パールーン王が言いました。「前に、火薬を使った軍の演習を見たことがある。こんな小さな鉄の球を飛ばすにも、四十の鍋を同時に叩いたよりもっと大きな音が出た」
「人間ひとりを飛ばすとなれば、さらに大きい音でしょう。ところがどうでしょう。尖塔の周囲にも民家がありますが、そんな音がすればみな、飛び起きてしまうのでは?」
「そんな場所で火薬を使うのは都合が悪いぜ」
とシンドバッドが言いました。
「さらには木の板の問題もあります。箱の中に仕掛けた火薬を爆発させたのなら、木箱はほうぼうに飛び散ってしまうはず。ご丁寧に死体の下にとどまっているとは思えません。マグダシルは殺されたのではなく、やはり良心の呵責に苦しんだ末の自殺なのではないですか」
うーむ、とうなるパールーン王。保険会社の中年二人はニヤニヤとしています。
「最後に三男テンダシルの件です」
その顔から胸にかけて、サメが悠々と泳いでいきます。
「先にテンダシルを殺してどこかに死体を隠しておき、《ハンニバル猛獣団》がやってきてから天幕に忍び込み、ライオンの檻を“金のクジャクの布”で大きくしてから死体を放り込み、檻を再び元に戻す。……危険です。危険すぎる」
「なっ、何が危険なのよ?」
赤ずきんは敵意むき出しで訊きました。
「わかりませんか? 檻を大きくしたそのとたん、ライオンが外に飛び出てきたらどうするのです?」
「あっ!」パールーン王が叫びました。「それはそうじゃ。檻の柵と柵のあいだも広くなるからの。そんな危険を冒して、死体を檻に放り込む意味がない」
「早朝だったんだろ? ライオンは寝てたんじゃないのかなあ? 運がよかったら起きないぜ」
シンドバッドがのんびりした調子で言いました。
「運がよかったとしても、です」
サメ男は余裕の表情で続けます。
「そもそも“金のクジャクの布”は、包んだものを大きくする力しかないのでしょう? 一度大きくした檻を、元に戻す力を持っていると証明できるのですか?」
赤ずきんは返す言葉がありません。
ダリーラの“銀のクジャクの布”の場合は、腰をくねらせる特別な踊りによって小さくした物を元に戻すことはできました。しかし“金のクジャクの布”も同じだとは限りません。現物がないことには、何もわからないのです。
「でも、三つの鍵のかかった檻の中でライオンに食いちぎられたのだから、誰かの意図が働いていると考えるのが自然だわ。殺人よ」
「どうやってやったのかわからない以上、人間には不可能な殺害方法ということになりますね」
サルモンドの目が光ります。
「その場合、人間が関与したものではない、つまり殺人ではないということになります」
ひゅーひゅーと、何もしていない中年の二人が口笛を吹きました。
「屁理屈だわ」
「王様、お忘れなきよう」サルモンドはパールーン王の方を向きました。「殺人保険という商品は、『明らかなる殺人が行われた場合』にのみ保険金が支払われる仕組みです。今、私によって『殺人ではない可能性』が提示された以上、当社に支払い義務はありません。明らかに殺人だという証明は、受取人の義務になります」
ふぅーむ、とパールーン王が苦い顔をします。
「たしかに、我が国の法ではそうなっとるのう」
ターバンの上のチューリップも不本意そうに下を向いていました。
「赤ずきんさん」
イルジー内務大臣が、赤ずきんに懇願するような目を向けてきました。
たしかにサルモンドには、推理の脆いところを突かれました。ですがそれによって、赤ずきんの持ち前の負けん気が刺激されたのも事実でした。
「私に任せなさい、イルジー大臣」
保険商人たちに聞こえるように、赤ずきんは言います。
「明日、王様の前で証明してみせるわ。三つ子が殺されたってことをね!」
サルモンドが高らかに笑います。
「これは面白いですね。少しでも私どもに『殺人ではない可能性がある』と言い返されてはいけないのですよ?」
「当たり前よ!」
元の大きさに戻れた赤ずきん。三人の不審死を殺人だと証明することができるでしょうか。今回の赤ずきの旅の最後はぜひ本編で!
この続きは、書籍にてお楽しみください