痩せた女がこちらを振り返ったが、ギロリと睨むだけで何も言わない。なんて感じが悪いんだろう。それに、表情にどこか粗野なところがある。
 そのとき、ふくよかな女性が痩せた女の横から顔を出し、ドアを大きく開いて出てきた。三十代後半くらいだろうか。濃いピンクのブークレ素材のロングカーディガンを羽織っている。愛くるしい顔立ちだからか、デブといった感じはなく、ふわふわした少女のような愛らしさの片鱗が残っていた。足もとを見ると素足で、ネグリジェだかワンピースだか知らないが、これもまたピンクで、裾にヒラヒラがついている。ミニ丈だから大根のような白い太腿が丸見えで、思わず目を逸らした。男が来ることもあるというのがすんなり納得できてしまうような、あられもない姿だった。
 ドアが大きく開いているので部屋の中が丸見えだった。真正面に食器棚が見える。大きくて立派な物だ。食器がびっしりと詰まっている。自分が思い描いていた、生活保護を受けている人のイメージと違った。
「こんにちは。何か?」と、そのピンクの女性が尋ねた。
「私は、堀内多喜の息子の嫁で望登子といいます」
「やっぱりそうでしたか。初めまして。私、中田沙奈江です」
 沙奈江は、人懐っこい笑顔を見せた。
「早く部屋の中に入れてってば」
 痩せた女は、こちらの会話を無視するように、なおも言い募っている。
「うん、いいけど、でもフミさん……」
 沙奈江は気弱そうな顔をして、必死に愛想笑いを浮かべようとしている。
 他人につけ入る隙を与えやすいタイプかもしれない。フミという女は舐め切った態度で沙奈江を睨んでいる。そのうえ沙奈江には薄幸そうな雰囲気があり、他人事ながら心配になった。
「変なことを聞くようですけど、この辺りで空き巣に入られたという噂はありますか?」と望登子は尋ねてみた。
「いいえ、特に聞かないですけど」
「そうですか。炬燵の中が温まっているような気がしたものですから」
 そう言うと、沙奈江はふんわりとした笑顔を見せた。「泥棒が炬燵でのんびり身体を温めるってことはないと思いますよ」
「それは……そうでしょうけど」
「南側の部屋はとっても暖かいんです。うちも暖房要らずで助かってます。それに四階だと、さすがの泥棒もベランダ側から登ってくるのは難しいと思いますよ」と言いながら、泥棒が登る姿を想像でもしているのか、噴き出しそうになるのをこらえているような笑いを漏らす。
「そうですよね。ここ四階ですもんね」
 ベランダに面したサッシ窓の鍵が一箇所壊れているのは姑から聞いていた。もう何年も前からで、これではベランダから泥棒が入ってきますよと言ったのだが、姑はこのままでも防犯上問題はないと言った。配管が建物の外付けではなく内蔵されているから、空き巣が配管を伝って登ってくることはできない。そのうえ、前の棟から丸見えだし、夜は外灯がベランダを煌々と照らし出しているというのが理由だった。
 やはり考え過ぎだったか。周りが静か過ぎて物音に敏感になっていただけかもしれない。そのうえ、勝手に姑の家に上がり込むことに罪悪感があるから、神経質になっていたのだろう。
 もっとしっかりしなければ。
 そのとき、フミが突然「あ」と言って手を一回打ち鳴らした。「沙奈江、ついでにアレ、返しちゃいなよ」
「そうか、そうだったね」と沙奈江がこちらをチラリと上目遣いで見る。「多喜さんからお預かりしてた物があるんです。ちょっとここで待っててくださいね」
 沙奈江はいったん自分の部屋へ引っ込むと、茶色い毛皮のような物を胸に抱えて戻ってきた。 
 長い耳と、毛で埋もれた中につぶらな瞳があった。
「これなんですけど」
 ぬいぐるみかと思ったら、鼻をヒクヒク動かしている。
 生きているウサギだった。
「すごく重いんですよ。抱っこしてみます?」と言いながら近づいてくる。
 近くで見ると、びっくりするほど大きかった。
「預かってから太ったんじゃないですよ。もともと太ってたんです。本当ですよ」
 沙奈江が言い訳がましく言う。「温泉旅行するから、しばらく預かってほしいと頼まれたんです。旅行から帰ってらした日に、お土産を持ってうちに来られたんですけど、今からスーパーに買い物に行くから、ウサギは夕方に引き取りにもう一回来るって。でも、そのスーパーの帰り道で倒れてしまわれたんです。このウサちゃん、今ここでお返しするのは無理ですか?」と沙奈江が遠慮がちに言うと、「なに言ってんの、さっさと渡しちゃいなよ」とフミが言う。
 姑がウサギを飼っていたなんて聞いたこともなかった。自分も夫も時々は顔を出すようにしていたが、ウサギなどかつて一度も見たことがない。
「返しちゃいなってば。沙奈江は病気なんだから、自分のことで精一杯じゃん」
 心が弱っているときに、生き物が近くにいるというのは慰めになるのではないか。それとも逆に負担になるのだろうか。
 気づけば、望登子は呆然とウサギを見つめていた。
 どうしてもウサギに手を伸ばせないまま戸惑っていると、「お家の片づけが済むまで私が面倒みましょうか?」と沙奈江が尋ねてきた。その隣で、フミがこれ見よがしに大きな舌打ちをする。
「それは……ありがとうございます。よろしくお願いします」
 頭を下げてはみたものの、内心では釈然としなかった。
 そのウサギは本当に姑が飼っていたものなのか。沙奈江のものではないのか。ペットショップで見かけた途端に「うわあ、可愛いっ」とかなんとか騒ぎ立て、軽い気持ちで後先考えずに買って帰ったのではないか。最初は小さくて可愛らしかったが、運動不足と餌の与え過ぎで太り過ぎ、あっという間に手に負えなくなった。そして今、チャンスとばかりに事情を知らない隣家の嫁を騙し、ボロ切れみたいなウサギを押しつけようとしている……。
 自分の想像は、あながち間違ってはいない気がするのだが。
 部屋に戻ると、心がズンと重くなった。
 どう考えても、ウサギは絶対に引き取りたくない。
 でも、そんなことより……。 
 深呼吸して無理やり気持ちを入れ替えた。
 のんびりしていられないのだった。ここは賃貸なのだから、まさにタイムイズマネーなのだ。
 とにもかくにも、どの部屋もざっと見て回って、片づけの方針を決めなければ。
 この団地には、今まで何度も来たことはあるが、通されるのはいつも居間だった。考えてみれば、居間とキッチン以外の部屋を見たことがない。
 意を決して部屋に戻った。
 奥の部屋から順に見ていこう。
 短い廊下のどん詰まりに、合板のドアがついている。きっと老朽化していてガタが来ているはず。そう思って力いっぱいノブを引っ張ると、あまりの軽さに後ろ向きにひっくり返りそうになった。堅くて開けにくいと思っていたら逆で、ドアはきちんと閉まらず、ぷらんぷらんと揺れている。
 中に一歩足を踏み入れると、そこはタンス部屋と呼んでもいいような部屋だった。両側の壁際に大きなタンスがずらりと並んでいる。窓が大きいから部屋の中は暗くはないものの、圧迫感があるし、部屋が狭く感じられた。こんなにたくさんタンスがあるのに、それでも衣類が入りきらないのか、部屋の真ん中には大きなポールハンガーがデンと陣取っていて、ジャケットやらセーターやらスラックスやらがぎゅうぎゅうに掛かっている。床には古新聞やら通信販売のパンフレットやら空き箱やら畳みかけの段ボールなどが所狭しと置かれていて、畳がほとんど見えない。
 それらの中に隙間を見つけては片足ずつ置いて前に進み、どうにか窓辺まで辿り着いて窓を大きく開け放した。それから「えいやっ」と心の中で号令をかけてから、押入れの襖を力いっぱい開けた。素早く中を見回してみるが、物がいっぱいで人間が隠れる余地はなさそうだ。