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 少年の幼い頃の夢は、百獣の王ライオンのような猛獣になることだった。
 だが、鬼渡譲二といういかつい名前と正反対の、少女漫画の主人公のような整った顔立ちと雪のような白い肌、華奢な身体が、少年に猛獣になることを断念させた。
 女みたいな男、お嬢ちゃま、チビガリ……キリンやシマウマにイジメられるライオンはいない。

 ストロベリー、ラズベリー、クランベリー、パッションフルーツ、オレンジ、レモン、ミント、シナモン、コーヒー……譲二は、ガナッシュをフレーバーごとにわけて冷蔵ショーケースに陳列した。 
 ガナッシュとは溶かしたチョコレートに生クリームを混ぜた生チョコのことで、ボンボンショコラの王様だ。因みに、ボンボンショコラとはガナッシュにチョコレートをコーティングしたものだ。ガナッシュのほかにも、ローストしたアーモンドやヘーゼルナッツに砂糖を焦がしたキャラメルをくわえてペースト状にしたプラリネや、粉末にしたアーモンドやヘーゼルナッツに砂糖と卵白を混ぜ合わせたマジパンがある。ガナッシュ、プラリネ、マジパンはボンボンショコラの御三家と言われている。
 冷蔵ショーケースの中の温度は、ボンボンショコラが一番美味しく食べられる十六度から十八度の間で設定されている。帰宅してすぐに食べないときには冷蔵庫の野菜室に保存することを客に勧めていた。普通の冷蔵室では冷えすぎるからだ。野菜室から出したばかりだと十度以下に冷えているので、食べ頃の温度まで戻してから口に入れることも併せて説明していた。ボンボンショコラを最高の状態で食べることについての説明を一つでも怠れば、猛獣が暴れ出してしまうからだ。
 このとびきり凶暴で獰猛な獣は、譲二の勤務する歌舞伎町のボンボンショコラ専門店「ちょこれーと屋さん」のオーナーである星咲直美のことだ。
 北海道の山道を歩いていたときに遭遇したヒグマが道を譲った、動物園で見物していたライオンが失禁した、アメリカ旅行中にタイトルマッチを控えたヘビー級ボクサーと喧嘩になりノックアウトした、忘年会で泥酔していたプロレスラーの集団に絡まれ一人で十人を戦意喪失させた、飲酒運転していたエルグランドに衝突されたが掠り傷を負っただけで車を破壊した……直美には、数々の伝説があった。
 あくまでも伝説なので、実話かどうかはわからなかった。だが、八年間、傍で直美の生き様を見てきた譲二は、それらの伝説が実話でも驚きはしない。

 小学校から中学校まで猛獣どころか小動物のように馬鹿にされ続けた少年は、高校入学を機に誰からも馬鹿にされないヤンキー道を極める決意をした。
 少年は理髪店でいまや天然記念物扱いのパンチパーマをかけ、額をM字に剃り込んだ。昭和世代のツッパリが愛読書にした漫画を研究し、短ランとボンタンでキメ入学式に乗り込んだ。怯える同級生達への優越感に浸ったのは一時間だけ……入学式が終わるとすぐに先輩ヤンキーに屋上に呼び出されて洗礼を受けた。

「いらっしゃ?い。ミクたん、今日はどれを食べたいのかな? イチゴ味? それともメロン味のガナッシュちゃんかな??」
 恰幅のいい母親に手を引かれた少女……ミクの前に屈んだ直美は、子供番組のお兄さんのような口調で訊ねた。
 百九十センチ、九十キロのゴリラさながらの筋肉の鎧を纏った肉体、オオカミさながらの鋭く吊り上がった眼、爆発したように逆立ったプラチナシルバーの長髪、顔から足まで刻まれた数え切れない傷跡……母親が直美と顔見知りでなければ、間違いなく一一〇番通報されているだろう。直美は譲二とは正反対で、女みたいな名前を持つ猛獣だった。
「ミクはねぇ、イチゴのガナッチュにするぅ!」
 ミクが舌足らずに言いながら、ショーケースを指差した。
「ガナッチュにしゅるんでちゅか?! ミクたんはかわいいでちゅね?」
 直美は目尻を下げ、赤ちゃん言葉で言いながらミクの頭を撫でた。

 高校デビューに失敗した少年は、社会人デビューに目標を切り替えた。
 それまでの人生で少年を馬鹿にしてイジメていた者達、これから出会う者達に絶対にナメられない職業は一つしかなかった。
「父ちゃん、母ちゃん、俺、高校を辞めてヤクザになる」
 ある日の午後、なんの前振りもなく少年は両親に宣言した。
 父は大学教授、母は小学校教諭という教育者の両親にたいするこのカミングアウトは、清水の舞台から飛び降りるどころではなく、スカイツリーから飛び降りるほどの勇気が必要だった。
 つまり、死ぬ覚悟だ。
 想像通り、父に怒鳴られ母に泣かれた――想像通り、父に勘当だと脅され母はショックで寝込んだ。
 だが、少年の決意は揺るがなかった。ここで退いてしまえば、生涯、自分は獲物としての人生を歩まなければならないと本気で信じていた。被食者の人生ではなく捕食者の人生を歩むために、自分は十七歳でヤクザを目指した。

「うん、ミクはティーカッププードルみたいにかわいいの!」
 ミクが無邪気に言った。
「ママに似なくてよかったね?。ママに似たら、ティーカップブルドッグになっちゃうからね?」
 直美が言いながら、ミクの?を指先で摘まんだ。
 譲二はため息を吐いた。
 心に思ったことをフィルターにかけずにそのまま口にする――また、直美の悪い癖が出た。他人にも自分にも決して?を吐かない。それは彼の長所であり、最大の短所でもある。
「直ちゃん、あんた、本人を目の前にしてよくもそんなひどいことが言えるわね!?」
 ミクの母親――春江は同じ歌舞伎町のさくら通りで「歌謡曲」というカラオケスナックを経営している。譲二と直美は、「歌謡曲」の常連だった。
「ひどいことじゃねえよ、事実だろうが? だって、春江ちゃんみたいなコワモテからこんな天使が生まれるなんて、カバからウサギが生まれるようなもんだっつーの!」
 悪びれたふうもなく、直美が言った。誤解されがちだが、直美には春江にたいしての悪意は微塵もない。悪意どころか、春江の人柄に好感さえ抱いている。直美は、犯罪レベルに正直な性格をしているだけだ。
「まったく、あんたにはデリカシーってものはないの!?」
 春江が直美を睨みつけた。
「じゃあ、なにか? 春江ちゃんは、俺が?吐きになったほうがいいっつーのか?」
 直美が開き直って言った。
「もういい。獣みたいに単細胞なあんたにデリカシーを求めた私が馬鹿だった。ほら、ミク、どれにするの?」
 春江がミクに促した。