八年前――少年は十七歳でヤクザの門を叩いた。
「お前、誰だよ?」
 区役所通りの雑居ビルの三階――「東神会」の事務所のドアが開き、オールバックにサングラスのザ・ヤクザ的な男が譲二の頭から足元まで舐め回すように視線を這わせた。
 尤もそのときの少年は、インターホンを押した部屋が広域指定暴力団の武闘派として名を馳せる「東神会」の事務所と知っていたわけではない。あてもなく歌舞伎町をふらついているときに、ストライプのスーツを身に纏い肩で風を切って歩いていたスキンヘッドのヤクザっぽい男を発見し、あとをつけて辿り着いた事務所だった。ヤクザの事務所なら、どこでもよかった。
「こ、ここは、ヤクザの事務所ですよね?」
 勇気を出して、少年は訊ねた。
「だったら、なんだよ?」
 オールバックサングラスが、訝しげな顔で少年を睨みつけた。
「俺を……組に入れてください!」
「はぁ!? お前、なに言ってんだよ!?」
「俺、ヤクザになりたいんです! こちらの組員にしてください!」
「馬鹿か! ここは大学のサークルじゃねえんだぞ!? それに、お前、まだ学生だろ?」
「高校は中退しました! だから、お願いします! 俺を組員にしてください!」
 少年は、オールバックサングラスの足元に跪いた。是が非でも、ヤクザになりたかった……ネズミのようにこそこそと逃げ回る生活はうんざりだった。ヤクザになればみなが少年を恐れ、ライオンに道を譲るハイエナみたいになるだろう。
「そういう問題じゃねえ! お前みたいなガキを……」
「組に入れてやろうじゃねえか」
 雪男のような大きな裸足が、土下座する少年の視界に入った。
「隊長っ、こんなガキを組に入れるなんて……」
 鈍く重々しい打撃音と呻き声が頭上から降ってきた――少年の前に倒れたオールバックサングラスは、腹を押さえて口から泡を吹いていた。
 土下座したまま、少年は震えた。
「顔を上げろ」
 下腹に響く野太い声が、少年に命じた。
 恐る恐る、少年は顔を上げた。
 凍てつく視線の先――少年は息を呑んだ。ライオンの鬣のような逆立った銀髪に、筋肉隆々の傷だらけの肉体に羽織った毛皮のベスト――少年が、猛獣と出会った瞬間だった。
「パンチ坊や、行くぞ」
 唐突に、猛獣が言った。
「え……? どこにですか?」
「パトロールだ」
「パトロール?」
 少年は、怪訝な顔で鸚鵡返しに訊ねた。
「俺らの稼業は街の安全を守ることだ」
「それって、警察の仕事じゃないんですか?」
 びくびくしながら、少年は訊ねた。
「馬鹿野郎っ。警察が本当の悪党を捕まえると思ってんのか?」
 猛獣の言わんとしていることがわからなかった。少年のイメージでは、悪党とはヤクザのことだった。
「毒を以て毒を制すっつうやつだ。とにかくついてこい!」
 猛獣は土下座している少年の首根っこを?み片手で持ち上げると、生ゴミの入った袋を出しに行くかのようにエレベーターに乗った。

「ミクねぇ、かっこいいお兄ちゃんに選んで貰う!」
 ミクが譲二を指差した。
「え!? かっこいいお兄ちゃんって、譲二のこと!?」
 直美が驚いた顔で訊ね返した。
「うん、ジョージのこと、ミク、大好きなの……」
 ミクが?を赤らめ、はにかんだ。
「ミクちゃん、悪いこと言わないから譲二はやめときやめとき」
 直美が顰めた顔の前で、大きく手を振った。
 譲二の胸に、とてつもない不吉な予感が広がった。
「え? どうして? ミク、大きくなったらジョージのお嫁さんになるの」
 ミクが不思議そうな顔を直美に向けた。
「まあ、ミクはママのライバルね?。ママも譲二君のジャニーズ系の顔が好みよ。パンチ  パーマでこんなイケメン、日本中探してもどこにもいないんだから! 譲二君は、私の三度目の旦那さん候補よ」
 春江が、譲二にウインクした。
「ママはだめ! ジョージはミクの王子様なんだから!」
 顔を真っ赤に染め、ミクが春江に抗議した。
「ミクちゃん、譲二は本当にやめといたほうがいいって」
 直美がミクの前に屈んで小さな肩にグローブみたいな手を置くと、真剣な顔で言った。
 譲二の不吉な予感は、現実のものになりつつあった。大惨事にならないうちに話題を変えなければという焦燥感が背筋を這い上がった。
「直さん、ミクちゃん仕様のガナッシュのフレーバーを選んで頂けますか?」
「は? なんで指名されない俺が選ぶんだよ? お前が指名されたんだから、お前が選べ!」
 けんもほろろに、直美に突き放された。
 まずいモードになってきた。完全に直美は拗ねていた。
 直美には、子供みたいなところが……いや、みたいなではなく、腕白坊主がそのまま大きくなったような男だった。
「ミクちゃん、イチゴ味とメロン味のガナッシュで……」
「譲二はね?、三重苦なんだよ?」
 ミクに話しかけようとした譲二を、直美が遮った。
「さんじゅうくってなぁに?」
 ミクが愛らしい顔で小首を傾げた。
「三重苦っていうのはね?、三つの苦しみって意味だよ?」
「直さんっ、やめてくだ……」
「一つ目の苦しみ、譲二は早漏なんだよ?」
 直美が、人差し指を立てながら言った。
「そうろうってなぁに?」
 ミクがふたたび愛らしい顔で小首を傾げた。
「早漏っていうのはね?、セックスのときに女の人より先に一人だけ気持ちよくなってさっさと終わるってことなんだよ?」
 直美がミクの瞳をみつめ、懇切丁寧に説明した。
「譲二君……五分は持つでしょ!? まさか……一、二分ってことないわよね!?」
 春江が、祈るような顔を譲二に向けた。
「こ、子供に、なにを教えているんですか! 春江さんも、俺にそんなこと訊いてないで直さんを止めてくださいよ!」
 譲二は羞恥に顔を火照らせつつ、直美と春江に抗議した。
「二つ目の苦しみ、譲二は包茎なんだよ?」
 直美は譲二の声など聞こえないかのように、人差し指と中指をミクの顔の前で立てた。
「ほうけいってなぁに?」
 ミクがみたび愛らしい顔で小首を傾げた。
「包茎っていうのはね?、おちんちんに皮が被っていることを言うんだよ?。皮を被ってるからお風呂でちゃんと洗えなくて、恥垢っていう汚れが溜まって臭いんだよねぇ?」
 直美がミクの瞳をみつめ、懇切丁寧に説明した。
「譲二君っ、仮性よね!? まさか、真性包茎じゃないわよね!?」
 春江が、祈るような眼を譲二に向けた。
「直さんっ、いい加減にしてください! そんなこと幼い少女に事細かく教えてどうする気ですか! 春江さんも、こんな話を娘さんの耳に入れても……いらっしゃいませ?」
 譲二は言葉を切り、出入り口に視線を移し、安堵の吐息を漏らした。
 タイミングよくカップルの来客があった。金髪のロン毛、黒のスリムスーツ、耳にピアス、開いた開襟シャツの胸もとにはシャネルのペンダント……軽薄丸出しの男は、ホストに違いない。女は茶に染めたロングヘアに褐色の肌、ピンクのパーカーにデニム地のショートパンツというギャル雑誌から飛び出してきたようなビジュアルだった。肉体の発育はいいが、あどけなさの残る顔から察するにまだ十代なのかもしれない。
「ミクちゃんのガナッシュは俺がチョイスするから、お前はホスト君と巨乳ギャルの相手をしてくれ」
 直美が譲二の耳元で囁くと、ショーケースの裏側に回った。