「兄貴、そのへんで勘弁してやって貰えませんか?」
 不意に、スカイブルーのスーツを着た若い男が直美に声をかけてきた。兄貴、と呼んでいることから察して「東神会」の構成員なのだろうか?
 切れ長の鋭い眼、きれいに整えられたツーブロックの七三……男は、直美とは対照的にクールで知的な印象だった。
「海東じゃねえか? どうしてお前が出張ってくるんだ?」
 直美がロン毛ポニーテールから男――海東に視線を移した。
「こいつらは、盃は交わしていませんが私の舎弟も同然です」
 海東の物言いは丁寧で紳士的だが、少年には好きになれないタイプだった。物腰は柔らかくても、肚の中ではなにを考えているかわからない不気味さがあった。
「だったら、きちんと躾をしねえとな。堅気衆を武器まで持って袋叩きじゃ、行儀悪過ぎだろうが?」
「すみません。今後、二度とこんなことがないようにします。ただ、彼は貰っていきますよ」
 海東が血塗れで倒れている瀬里奈の弟に視線をやった。
「こいつはただのボーイだろう? これ以上、痛めつけてどうする?」
「兄貴も知っての通り『エスペランサ』は『東神会』のみかじめ料を拒否しています。こいつらに暴れさせたのは、戒めのためです。黒服として注意したまでは許容範囲ですが、出入り禁止にした上に警察にまで通報しました。一介のボーイにここまでやられちゃ、みかじめきちんと払っている店や同業に示しがつきません。心配しないでも、兄貴みたいに顎を砕いたり耳をちぎったりしませんから。せいぜい、ナメた口をきけないように舌を半分ほど切除するだけです。医者じゃないので、運が悪ければ死んでしまうかもしれませんが」
 慇懃な言葉遣いだが、海東が口にしていることは身の毛がよだつような残酷なものだった。
「お前、チーターがライオンから獲物を奪うつもりか?」
 直美が、ドスの利いた声で言って海東を睨みつけた。
「それは、どういう意味でしょう?」
「俺が歌舞伎町の王という意味に決まってるだろうが」
 直美が胸を張って高笑いした。
「お巡りさん、こっちでヤクザ同士が喧嘩してます!」
 少年は声がするほうを振り返った。サラリーマン風の若い男が、二人の制服警官を引き連れていた。
「ほら、あそこです!」
 サラリーマン風の男が、直美を指差した。
「え……あれは……」
「直さんじゃないですか……」
 制服警官達の顔が、直美を認めて強張った。
「ほらっ、あちこちに怪我人が倒れてますっ」
「こいつらは『東京倶楽部』の半グレですよね?」
 若いほうの制服警官が、顎が外れているドレッドヘアを見下ろしながら訊ねた。
「そうみたいだな。行くぞ」
「ちょっと、待ってくださいよ! 止めないんですか!?」
 サラリーマン風の男が、驚いた顔で二人を引き止めた。
 驚いたのは、少年も同じだった。
「こいつらは振り込め詐欺やら合法ドラッグやら未成年売春やら悪さばかりしてる半グレ集団です。あのビッグフットみたいなヤクザは、歌舞伎町のチンピラの教育係なんですよ。だから、私らの出番はないということです」
 年配の警察官が言った。
「お巡りさん、いまは昭和じゃなくて平成ですよ!? 街の治安をヤクザに任せるなんて……」
「とにかく、彼がパトロールするようになってからヤクザや半グレの犯罪が著しく減少したという事実があります。もちろん、犯罪が増えているなら話は別ですがね。そういうことで失礼します」
 二人の制服警官は、逃げるようにその場をあとにした。
 少年は、耳を疑った。尤もらしい理由を並べてはいたが、ようするに直美が怖いに違いない。
「歌舞伎町の王……それは、若頭や組長の前でも言えますか?」
「おう、もちろんだ。歌舞伎町で悪さするヨソ者のヤクザや、こいつらみてえな半グレを見かけたら俺流のやりかたで制裁していいって言われてるからよ」
 涼しい顔で、直美が言った。
 ふたたび、少年は耳を疑った。直美は、組のトップとナンバー2にも恐れられているのか? それとも、全幅の信頼を置かれているのか?
 どちらにしても、「東神会」において直美がVIP待遇なのは間違いない。
「だからといって、私の子飼いにこれはやり過ぎだと思いますがね」
 海東が直美の眼を見据えながら言った。
 一瞬で半グレの背骨を破壊し、顎を外し、耳をちぎり、警官でさえ見て見ぬふりをする猛獣を前にしても海東は恐れている様子はなかった。
「それなら、飼い主を躾てやってもいいんだぜ? どうする? 海東」
 直美のナイフのように鋭い眼が吊り上がり、海東を睨めつけた。
 五秒、十秒……海東は視線を逸らさず直美を見据えていた。
 直美も般若のように恐ろしい三白眼で海東を睨み続けていた。
「出過ぎたことを言いました。すみませんでした」
 沈黙を破り、海東が頭を下げた。
 だが、少年の眼には海東が心から詫びているようには見えなかった。
「わかりゃいい。いつもの病院に連れて行ってやれ。こいつは貰ってくぜ」
 直美は海東に言い残し、瀬里奈の弟を肩に担ぎあげると少年のほうに歩み寄ってきた。
「パンチ坊や、こいつを入れパイ巨乳姉ちゃんのとこに連れて行け」
 言い終わらないうちに、直美が少年の足元に瀬里奈の弟を下ろした。
「えっ……直さんはどうするんですか?」
「俺はパトロールを続けるから、入れパイ巨乳姉ちゃんにこいつを戻したら合流しろ」
 直美は少年に一方的に命じ、恐怖の表情で道を空ける野次馬の間を悠々たる足どりで歩き去った。

 譲二は記憶の扉を閉め、ホストを睨みつけた。
「東京倶楽部」の半グレを相手にしたときの直美になり切った。
「俺がチョコレート屋だからって、あんまりナメないほうがいいと思うけどな。人には、語りたくない過去の一つや二つあるもんだぜ」
 譲二は必死に余裕の表情を作り、自分が元ヤクザだったということを匂わせた。
「は!? あんたさあ、さっきからなにイキがってんだよ? 女みたいな顔したパンチ頭のしょぼいチョコレート屋だろ?」
 ホストが、譲二の両頬を抓み引っ張った。
「イジメるのやめなよ〜。本当のことを言ったらかわいそうじゃ〜ん」
 涙を流しながら、ギャルが嘲笑した。
「おい、そこのギャル、カメラの用意しろ」
 業務用のアルミキング片手鍋を持ち厨房から出てきた直美が、ギャルに言った。
「え……なんでよ?」
「インスタ映えするボンボンショコラを撮影してえんだろう?」
 直美は言いながら、ホストの髪の毛を鷲掴みにした。
「痛っ……な、なにするんだよ……」
「お前も男なら、彼女の望みを叶えてやれや」
 直美はニヤつきながら、ホストの頭上で片手鍋を傾けた。
「あちちちちちちちちぃーっ!」
 脳天から四十度前後の液状のチョコレートをかけられたホストが腰から崩れ落ち、悲鳴を上げながらフロアをのたうち回った。
「直さん! なにやってるんですか!?」
「動くな! お前は黙って見物してろや」
 直美は嬉々として譲二に命じると、陸地に釣り上げられた魚のように跳ね回るホストの全身に満遍なく熱々の液状チョコレートをかけ続けた。
 業務用のキングサイズなので、十二リットルのチョコレートが入っている。それだけの重量の片手鍋を右腕一本で軽々と持つ直美の腕力も桁外れだ。みるみる、ホストの身体が艶のあるチョコレート色にコーティングされた。
「おらっ、なにしてる! シャッターチャンスだぞ! 次は、お前もボンボンギャルにしてやるからよ」
 直美はホストの顔面を右足で踏みつけ、ギャルに言った。
「嫌っ……嫌ぁーっ!」
 ギャルが悲鳴を上げ、店から逃げ出した。
「あ〜あ、逃げちまったよ。仕方がねえ。お前が撮れ」 
 相変わらずニヤつきながら、直美が譲二を促した。
「直さん……」
 譲二は震える手でスマートフォンを取り出しカメラ機能にした。直美のやり過ぎだがさりげない優しさに、ディスプレイに映るボンボンホストが涙で霞んだ。

 

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