「譲二、ミクちゃんのためだけに特製ガナッシュを作ってあげるから接客を頼むぜ。お姫様とババアは、そこに座って待っててくれ」
 直美が譲二に命じ、視線を春江とミクに移すとショーケースと向かい合わせになっているベンチを指差した。 
「ババア!? 失礼な男だね! あたしはまだ四十五だよ!」
 すかさず春江が言い返した。
「だからババアだろうが」
 涼しい顔で言い残し、直美が厨房に入った。
「まったく、口の悪いケダモノだよ。じゃあ、ほかの買い物をしてくるから、できたら携帯に連絡を入れるように直ちゃんに伝えてちょうだい」
 春江が譲二にことづてを頼み、ミクを促し店を出た。春江は、言葉ほど気を悪くしているふうには見えなかった。それは、直美が思ったままを口にしているだけで、春江を馬鹿にしたり攻撃したりしようという気持ちがないことをわかっているからだ。娘のために頼まれてもいない特製のガナッシュを作ってくれるような優しい一面があることも……。
「パンチパーマなんかしてる奴、まだ存在してたのかよ」
 ホスト風の男の声が、譲二を現実に引き戻した。
「レアなヘアスタイルだろう?」
 屈辱をウイットに富んだジョークで切り返し、譲二はタメ語を使った。本来なら客には絶対に敬語だが、自分なりの細やかな抵抗だった。
「レア? 古臭いだけじゃん」
 ホスト風の男が、嘲るように言った。
 膝の震えが激しくなった――握り締めた拳に力が入った。
「お客さん、どこの店?」
 声が上ずらないように気をつけつつ、譲二は訊ねた。 
「『Ai』だけど。なんで?」
 ホスト風の男が、怪訝そうに訊ね返してきた。
「『Ai』……ああ、昔の『プリンスナイト』ね。たしか、税務署対策で店名を変えたんだよな」
 譲二はさりげなくホスト業界の裏事情を口にすることで、自分がただのチョコレート専門店のスタッフでないことを匂わせた。

 ──いいか? お前を受け入れるには条件がある。俺はもう、『東神会』の特攻隊長じゃねえ。ボンボンショコラ専門店の経営者だ。俺がこれから目指すのは任侠道じゃなくショコラ道だ! お前も俺を追ってスイーツ界に飛び込む以上、二度とヤクザだった過去を持ち出すんじゃねえぞ! 一流のショコラティエになるために、ショコラ道に邁進するんだ! その約束を守れねえときは、お前はクビだ!

 直美との約束が、譲二の脳裏に蘇った。目の前のナメたホストを黙らせるには、自分が「東神会」の組員だったことを明かせば話は早かったが、それをやってしまえば直美から縁を切られてしまう。八年の歳月をかけて、歌舞伎町の百獣の王として畏怖されていた直美の一の舎弟になった。当初の夢だった猛獣にはなれなかったが、猛獣使いにはなれた。なにより、譲二は星咲直美という男に惚れ込んでいた。究極の戦闘力、究極の勇気、究極の肉体、究極の自己中心的性格──自分にはないすべてを兼ね備えている直美といることで、譲二は夢を叶えている気になれた。
「女顔したパンチ頭のくせに、やけにホスト事情に詳しいじゃん」
「やだ〜! 本当のこと言っちゃだめじゃーん!」
 ホストが言うと、ギャルが譲二を指差し笑った。
「まあ、俺も昔、歌舞伎町でヤンチャしてた時代があったから」
 譲二は、遠い眼差しで言った。ヤクザだったと言ってないので、問題はないはずだ。
「おい、女パンチ! あんた、なに悪ぶってんの? かわいい顔して、無理しない、無理しない」
 ホストが、譲二の頬を平手ではたきながら小馬鹿にした。二十五歳の譲二より、三、四歳は年下のはずだ。イジメられ、馬鹿にされ続けてきた過去が脳裏に走馬灯のように蘇った――激憤、屈辱、恥辱が譲二の五臓六腑を焼き尽くした。できることなら、眼の前で薄笑いしているホストをぶちのめしてやりたかった。
 客に手を出すなんて言語道断──譲二は、己に言い聞かせた。
 本当は、わかっていた。ホストをぶちのめさないのは、客だからという理由ばかりではないことを。
 本当は、わかっていた。ヤクザという看板がなければ、自分は負け犬だった昔と同じ、無力で臆病な男でしかないことを。
 自分に、あの人の千分の一の勇気と腕力があれば……。

「エスペランサ」の前には、黒山の人だかりができていた。
 暴走列車のように直美が、人だかりに突っ込んだ。
 直美によって開けた視界――五人の男が路上に倒れた一人の男を競うように蹴りつけていた。男達の手には、木刀や金属バットが握られていた。
 少年の足が止まった。両膝から全身に震えが広がった。
 少年とは対照的になんの躊躇いもなく突進した直美が、飛び膝蹴りで金髪坊主の背中を蹴りつけた。
「なんだてめえは!」
 ドレッドヘアが振り返り、目を剥いて木刀で殴りかかってきた。
 直美は木刀を左手で掴むと、まるで割り箸をそうするように呆気なく折った。
「嘘だろ!?」
 少年は思わず叫んだ。
 直美が右手でドレッドヘアの頬を鷲掴みにすると、五メートルは離れているだろう少年のところまでバキバキという音が聞こえた。
 直美はドレッドヘアを、円盤投げの選手のように回転しながら放り投げた。
 少年の足もとに、ドレッドヘアが飛んできた。野次馬達が悲鳴を上げながら左右に分かれた。
「え……」
 少年は息を呑んだ。
 黒目を反転させたドレッドヘアの上顎と下顎が、壊れたカスタネットのように左右にズレていた。
「てめえ! ふざけんじゃねえぞ!」
 不自然なほどに陽灼けした褐色の肌の男が、金属バットをフルスイングした。
 顔をブロックするためにL字に折り曲げた直美の左腕に、金属バットが叩きつけられグシャリという音を立てた。
 直美は眉一つ動かさず、左腕はビクともしなかった。
「痛っ……」
 陽灼け男の手から、金属バットが叩きつけられ弾かれたように吹き飛んだ。
 野次馬がどよめいた。
 無理もない。全力で振り回された金属バットで殴られれば、人間の腕なら粉砕骨折するはずだ。
 直美は陽灼け男の喉と足を掴み、高々とリフティングした。
「直さん、後ろ!」
 少年は叫んだ。
「死ねやーっ!」
 頬にスカルのタトゥーを彫った男が、直美の背後から木刀を振り下ろした。
 鈍い音とともに、木刀が直美の後頭部にめり込んだ。少年の場所からも、宙に飛散する血が見えた。
「直さん!」
 譲二は駆け寄ろうとしたが、足が動かなかった。兄貴分の危機に恐怖に足を竦ませている自分が情けなかった。
 だが、直美は何事もなかったように、陽灼け男をリフティングしたまま百八十度回った。
「な、なんで倒れない……」
 驚愕するスカルタトゥーに、直美は陽灼け男を投げつけた。続けて折り重なって倒れる二人の右と左の耳を掴み引き摺り起こすと、遠心力を利用して物凄い勢いで回転し始めた。 
 ぐんぐん回転速度が上がり、直美の姿が見えなくなるほどだった。
 残る一人の半グレ――ロン毛をポニーテールにした男も、立ち尽くすだけで近寄ることさえできなかった。
 三十秒ほど回転したときに、二人が野次馬のほうに飛んできた。
 野次馬から尋常ではない悲鳴が上がった。
 少年は二人のほうに駆け寄った。
「うっ……」
 少年は口を押さえた。
 涙に滲む視界――左耳がちぎれた陽灼け男と右耳がちぎれたスカルタトゥーの凄惨な姿に、少年の背中が波打ち逆流した胃液が唇を割った。
「そこの金髪坊主は背骨がイカれて、使い物にならねえ。残るはロン毛が似合ってないおばちゃんみてえな顔をした兄ちゃん、お前だけだ。もう二度と、この店に嫌がらせをしないと約束するなら許してやってもいい」
 直美が、凍てつき震えるロン毛ポニーテールに歩み寄りつつ言った。
「あ、あなたは……誰ですか? エ、『エスペランサ』と……ど、どういった関係なんですか?」
 極寒の大地に全裸で放り出されたように震えながら、ロン毛ポニーテールが訊ねた。
「なんの関係もねえよ」
 あっさりと、直美が言った。
「じゃ、じゃあ、ど、どうして……?」
「俺のいる歌舞伎町で、鼠一匹殺すことは許さねえ!」
 直美の切った啖呵があまりにも格好よく、少年の全身に鳥肌が立った。この瞬間、少年はこの人に一生ついていこうと心に誓った。