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第三章 死せる家

 

 

一

 

 中学二年生の秋、耳の奥に、なじみのない違和感が生じた。

 最初は耳鳴りのようなノイズだった。内耳で小波さざなみを立てるその音が、次第に外耳に移動して、ぽんと解消されたと思ったら、段々と形容しがたい不快感に変わった。

 異常に音を拾うようになったのはこの頃からだ。聴覚の鋭敏化。それだけ聞くとなんだか漫画めいているけれど、無数に細部を備えた鮮やかな音の塊は、すべての色を混ぜ合わせると汚らしい黒になってしまうように、不快なものでしかなかった。

 わたしが不調を訴えると両親は耳鼻科につれていった。車で病院に向かう途中、医師がこの不調をすっかり治してくれるものだと期待していた。まさかこの来院が地獄の圏谷たににくだる入口になるとは思いもしなかったのだ。

 聴覚過敏、そう予診をうけたあと、いくつかの検査をうけた。

 問診や音響反射テストは異常がなかった。

 だが聴覚検査に問題があった。

 わたしの耳は遮音性の高いヘッドホンを介しても外から雑多な音を拾ってしまう故に、ヘッドホンから出る音と環境音の違いが判らなかった。そのうえ、不快閾値検査では、騒音や大きな音が鳴る前にすぐに手を挙げたことで悪戯だと疑われた。再度やり直しになり、今度はちょうどよいタイミングをねらって手を挙げてみると、ヘッドホンの音は既に鳴り終わっていた。

 最初、医師はストレス性のものだと告げた。だが、わたしを待合室にもどして、あらためて両親に告げたのは、これは親の気を引きたいだけの詐病だろうという診断だった。そして精神科の通院を勧めた。その一言一句を、わたしは扉をふたつ隔てた待合室のソファーから聞いていた。

 それから両親はわたしを赤子のようにあやし、珠のように扱った。だが症状が改善するはずもなく、むしろ悪化の一途をたどると、段々と両親に不和が生まれ、高所から低地に水が流れるがごとく、矛先はわたしに向いた。

 やがて家に安らぎが消えた。

 学校も疎ましくなった。家という最小単位からはじき出された人間が、さらに大きい社会である学校で孤立しないわけがない。それでもなんとか高校に進学したが、まともな学校生活を送れるはずもなく、自身の体質を恨んだ。その忌々しい耳を自ら貫いたことさえある。

 音は一時的に止んだ。

 しかし周囲からの白眼視はさらに深まった。

 やがてわたしはひとつの声に導かれるようになる。

 自死の誘惑だ。

 だからこそ、その夜のことはまだ憶えている。あてどなく歩き、たどりついた御笠川みかさがわ。曇天の夜をさらに重苦しくさせる福岡高速環状線の鉄骨。下道したみちを走るうるさい自動車。川に沿う遊歩道には墓碑があって、碑名には濡衣塚とある。後で調べたところによると「濡れ衣」という語源が生まれた事件にまつわる碑だった。なんと因果なものだろうか。そこに花さえ手向けてある。まるで今から死ぬわたしへの献花だった。

 その碑の近くに橋があった。

 石堂橋いしどうばしと呼ばれていた。

 かなり古い橋で、昔、近くに関所があり、高杉晋作が関所の門番に怪しまれないように、稚児を背負って通過したという逸話があった。

 途中、いくつか橋があったのに、その橋だけが浮かぶようにみえたのは、あるいはその大河の一幕が演じられた場所である為かもしれないが、それ以上に注意を引いたのは、その橋だけがひどく呪まじないめいた見た目だったからだろう。

 橋の袂には猿田彦の石碑があり、橋の欄干は六芒星が編み込まれた文様で形作られている。そのうえ石柱に閻魔大王の石板がはめ込まれ、橋向こうには夢野久作の墓所がある一行寺いちぎようじ。

 魔所である。

 身を捨てるには格好の場所だった。

 擬宝珠ぎぼしに手をそえる。よどんだ水面は黒く滲み、河口にちかいその川から夜海の臭いがする。海はひとをいざなう。死を身近に感じている者として、逃れがたい魔力だった。無数の手がそこかしこを掴んで、気取られないように、ゆっくりと引きずり込んでくるかのようだ。

 気づけば、欄干を軸に、体はくるりと傾いた。

 すぐに平衡感覚をなくし、重い頭部がいち早く沈み込む。そのとき、むんずと誰かに襟首をつかまれた。その腕は体の位置をスタートラインまでもどすと、さらに肩をつかんで、くるりと反転させた。

「やや貴殿は不逞浪士ふていろうしの高杉晋作ではないか?」

 ひどく鼻にかかった声だった。

 抑揚は乱れて、かなり聞き取りづらい。

 目の前にいたのは、二十歳ぐらいの女性だった。眼鏡をかけ、癖のある長い髪を垂らしている。一瞬、濡れ衣をかけられて死んだ女性の霊かと思った。それにしては溌溂として、両手から様々なジェスチャーを繰り出している。

 ああ、手話か。

 分かった時、彼女の言葉の特徴にも気づいた。彼女は耳が聞こえないのだ。

「聞くことはできないけど、読み取ることはできるよ」

 素直に驚いてしまった。

 彼女は得意げにほほ笑む。

「なんだ。あなた、健聴者なのね」

 どうやらわたしも難聴者だと思ったようだ。それも道理だ。わたしの両耳は鼓膜を貫いたせいで、どちらも包帯がまかれて、痛々しいほっかむりをかぶっているのだから。

「何があったか知らないけれど、お姉さんに話してみなさい」

 そう言って彼女は胸を叩いてみせる。

「暴言、妄言、罵詈雑言。なんでも言って、なんでも話して。話してみるだけで晴れる気持ちもあるのだから。なんたって私は」

 聞こえないふりをするのが上手なの──と、美鈴は笑った。

 

二

 

 懐かしい夢を見た気がする。

 夢の詳細は思い出せない。思い出そうとしてみるが、大きな欠伸が漏れて、おぼろげな記憶は涙とともに流れてしまった。

「暇だなあ」

 カバの如き欠伸をもうひとつ。乙女としてはしたない限りだけど、今は人目をはばかる必要はない。そのうえソファーで寝返りをうって二度寝と洒落込んでも一切文句がないどころか、時給まで出た。

 七月初旬。長く停滞していた梅雨前線が去り、からりとした夏の爽やかな時分に、博多区冷泉の雑居ビル四階にある『オカルト・ファクトチェッカー』の事務所で、のんべんだらりと電話番をしていた。

 正社員はひとり。無論、わたしじゃない。わたしは臨時アルバイト。唯一の社員で、事務所の所長であるところの諸星大輔は、現在、所用で出かけていた。

「最近、依頼の電話が鳴るんだよね。うひょひょ」

 彼はそう言うのだが、実態は閑古鳥が鳴いている。

 電話番を任されて二時間あまり。最初こそ、何時いつ鳴るともしれない着信に怯えていたが、所長机に鎮座する黒電話はうんともすんとも言わない。

 おそらく所長のいう「電話が鳴る」というのは、万年鳴らずの黒電話が、月に一回鳴るようになっただけなのだ。〇から一に変じたのは確かに凄いが、増加は微々たるもの。窓口はメールだけにすれば良いのにと思わなくもないが、彼曰く、それでは怪奇探偵業としてロマンがないという。

(いつから探偵社になったのやら)

 呆れはするが、ホッともする。

 わたしにとって電話番は緊張を伴う。異常なる聴覚のせいで、まともな集団生活を経験し損ねた結果、些細な応対にすら難がある。彼の仕事に付き合うようになってから、少しずつ社交性を取り戻しつつあるが、それも〇から一に転じただけでまともな応対など出来る筈もない。

 それでも電話番を買って出たのは、最低限のコミュニケーション能力を取り戻そうとする足掻きのほかに、単純に貯金が心許なくなったからでもある。

 なにはともあれ、鳴らない電話に安心して、優雅に珈琲を淹れて、持ち込んだオーディオ雑誌を読む。適当にめくると、ビデオカメラの進化の歴史についての特集ページだった。

「お、ちょうどいいじゃん」

 遮音性の高いヘッドホンの情報を仕入れるために、普段からオーディオ雑誌を購読しているが、最近はビデオカメラにも興味がある。それは主としてわたしの異能を活用する上で、その媒介となる機材に対して知識を得ておきたいという理由だけど、それに加えてすこしばかり、いま生きている世界を映像にとどめておきたいと思えるようになったのだ。

 別段なにか人生に華やぐことがあったわけじゃない。ただ少しずつ停滞した人生に動きを感じられるようになっただけ。だから手にしている雑誌も昔買ったバックナンバーで新しく買い求めたものじゃない。何気なく書架から取り出した号に博物誌のごとくビデオカメラの歴史が載っていたのだ。

 熱い珈琲を片手に、改めて目を通していると、思いがけず電話が震えた。

 所長机を見るが、依然として沈黙している。

 震えたのは、尻にひいていた自分のスマホだった。

「……はい」

「あー、久しぶり?」

「うん」

 ぎこちない会話のラリーだ。お互いが距離感を掴めていない。

 電話の相手は桂木由佳だった。同じ大学の同学年の学生であり、五月に出会って、彼女が持ち込んだ『幽霊が自殺する動画』の解明を手伝った。

 死んだはずの姉。

 その幽霊がおこした投身自殺の謎。

 真相の果てに、わたしたちは疎遠になった。そもそも深い親交があった間柄ではないけれど、動画に隠された真相に辿り着いたことで、大学で視線が合っても見ず知らずの他人としてふるまうことが暗黙の了解になっていた。だからこそ急に、メッセージでもなく電話が来るとは思わなかったのだ。

「それで、な、何か用事?」

「あー、うん。そうなるかも」

「そうなる?」

「本当は諸星さんに依頼したいらしんだけど、ちょっとわたしから連絡取りづらくて。ほら以前のこともあるし」

「誰かの頼み?」

「うん。雉丘さん」

「あの『めちゃこわビビり』のカメラマン?」

 電話口で肯いた音がした。

『めちゃこわビビり』とは、わたしたちの在籍する大学の学生が主体となって行っている廃墟探索オカルト・チャンネルで、心霊スポット巡りを度々公開しているYouTubeチャンネルだ。

「そういえば動画、更新されてないよね」

「あの件で犬塚は大学を辞めたから」

 彼女はそれ以上言わなかった。あの『幽霊が自殺する動画』が彼にどのような影響を与えたのかは定かではない。けれど、口さがない大学生の間で、彼が過去に犯した事件について、最寄りの警察署で自白した、という噂が広がっていた。

 ただそれを敢えて由佳に尋ねることはしなかった。

「今、『めちゃこわビビり』は休止中らしいよ。それで雉丘さん、暇になって、親戚の家の家財整理をしていたら、そこで変な動画を見つけたらしいの」

「変な動画?」

「油性ペンで手書きのタイトルが書かれたDVD。タイトルは『死せる家』」

 死せる家。

 タイトルを聞いた途端、背筋にぞわりと寒気がはしった。

「雉丘さん曰く、日本家屋を古いビデオカメラで撮っているものだって。撮影者は子供で、そして登場するのも子供」

「登場?」

「そこは見たほうが早いかも。雉丘さん曰く、なんか不気味な雰囲気らしくて、もしかしたら霊的な儀式じゃないかって疑っているみたい」

「それじゃ依頼内容は……」

「なんの目的で『死せる家』の動画が撮影されたのか。その理由を解明してほしいって」

 わたしはしばらく考えたうえで了承した。

 そもそもわたしが事務所にいるのは依頼の電話を取るためだ。所長机の黒電話ではなくわたしのスマホに来ただけで目的は一致する。所長からも「阿網チャンが面白そうと思ったら、依頼を受諾してくれてオッケー」と言われている。

 わたしは由佳を介して雉丘に、問題の『死せる家』の動画を事務所宛に送ってくれるように頼んだ。

 

三

 

「そしてこれが『死せる家』?」

 丁寧に梱包されて送られてきたDVDは、半透明のプラスチックケースに入っていた。裏面は青い。一度きりの書き込みが行える市販のDVD-Rだろう。白いレーベル面には油性ペンで『死せる家』とある。お世辞にもうまいといえない筆致は書き殴られたように見えた。

「雉丘さんのメモ曰く、独り身の叔父が介護施設に入居することになり、それまでの家を売り払うことになって、その家財整理で見つけたそうです」

 雉丘から聞けた周辺情報は簡単なものだった。

「依頼人は叔父さんにDVDについて訊いてみなかったのだろうか?」

「それが叔父の日下くさか光良てるよしさんはアルツハイマー型認知症だそうです。中期段階の。記憶や認知の能力は、問診で自分の経歴や住所、電話番号なども答えることができないレベルだとか。一応、『死せる家』について訊いたそうなんですが、全く憶えていないようでした」

「なるほどねえ」

 動画の背景情報は全くないに等しい。

 すべては一枚のディスクのなかというわけである。

 諸星はデスクトップパソコンのドライバーにDVDを差し込んだ。内部でディスクが好調に回転し、二十四インチの画面に動画が流れ始めた。動画は黒い帯のあるアスペクト比が古い映像で、最初に映し出されたのは、取り立てて言及するものもない平凡な洋間だった。

 カメラは最初、じっと部屋にある木の引き戸を映していた。

 左端に学習机がふたつ、横並びに置かれている。子供部屋なのだろう。撮影者は十秒ほどじっとしたあと、目の前の木戸をあけた。

 その先は直線の廊下がのびている。中程で右手に下る階段がみえ、廊下の突き当たりにもう一部屋ある。撮影者は廊下をまっすぐ進んで、突き当たりの部屋のドアノブに、にゅうっと小さな手をのばした。

「子供のようですね」

 撮影者というと、どこか成人を思い浮かべてしまうが、青い長袖から出た小さな手を鑑みるに、この動画を撮影しているのは想像していたより随分と幼い。

 子供が新たに入った部屋も又、洋間だった。六畳ほどの広さに書斎机があり、書棚と大きな箪笥がならぶ。それらを舐めるようにカメラに収めたあと、視点は天井にむく。撮影者が寝転がったのだ。目地をのこした目透かし天井は、奇妙にゆがむ人間の顔のように見えなくもない。

 しばらくして、天井に飽いたように立ち上がり、洋間からでると階段を下りていく。

 階段を下りると、正面に玄関が見え、左には扉がひとつ。扉へカメラは入っていくとそこは手洗い場だった。

 カメラは一度、洗面所の鏡に撮影者を映した。

 撮影者は小学校の高学年くらいに見える少年だった。紺のジーンズに青のパーカーを着て、首に茶色のマフラーを巻いている。少年の顔は、持っているビデオカメラで大半が隠れているが、毛先に癖があり、眼尻のさがった、どこか内向的な印象をおぼえる面立ちだった。

「この動画、かなり古いですね」

 と、わたしはぽつりともらした。

 諸星も肯く。

「アスペクト比が四対三の頃だね。地上デジタル放送が始まった二〇〇三年頃から徐々に十六対九に変更されているから、ざっくり二〇〇〇年より前だと思うけど、どうだろう?」

「モノによってはそれより前からワイドビジョン──十六対九のアスペクト比の動画を撮影できる機材があったようです。ただ、おそらくこの動画は平成以降と思います」

「ほーん。理由をプリィズ?」

 わたしは鏡に映った少年のカメラを指さした。子供の手に握りこまれたカメラは非常に小さく収まっている。

「これ、ソニーの八ミリビデオカメラです。CCD-TR55だったかな。平成元年頃から爆発的に普及した機種です。当時CMで『パスポートサイズ』というキャッチフレーズが一世を風靡して、記録的な売上を叩き出しています」

「阿網チャン、そのとき、まだベイビーですら無いでしょ。よく知っているね」

「それほどでもないですよ」

 心にもない謙遜ほど気持ち良いものはない。以前、電話番のときに読んでいたオーディオ雑誌のビデオカメラ特集に、まさにこの説明が載っていたのである。

「それにしても、彼は何を撮っているんでしょうか?」

 ふたたび彼の行動に目を向ける。洗面所に入った彼は、すぐに踵をかえすと、玄関とは逆向きに廊下を進んでリビングに入った。雑多な生活感にあふれたリビングは、どこか小汚い印象を受けた。その原因は併設されたキッチンだ。コンロの横に放置された手鍋、茶わんや箸、インスタントラーメンの容器が乱雑につまれている。シンクは見るに堪えない。

 少年は声を漏らさず、淡々と撮影している。年に似合わない落ち着きようだ。彼はそれから広い和室にカメラを入れた。和室は畳敷きの八畳ほどの空間で、その奥に縁側とひろい庭がみえる。庭には隣家から伸びる大きな楡にれの枝が夕日を遮っており、その下で少女がじっとこちらを睨んでいた。

 年の頃は十四、五だろうか。

 長い髪を後ろでひとまとめにして、くるぶし近くまである黒いロングコートの裾からちらりと赤いスカートがのぞいていた。彼女は何を言うわけでもなく、右腕を地面と平行にぴんと伸ばした。指は彼方を指さしている。すると急にカメラが反転し、少年の顎下が映った。眼差しをレンズにむけて、あおりの角度から何かを言おうとして、動画は暗転した。

 動画のシークバーは右端に行き着いている。

 動画は終了したのだ。

「何だったんでしょう。家の内覧?」

「それにしては生活感がある。彼がもっていたハンディカムが普及したばかりだと考えると、新しい電子機器で子供が試しに家を撮っているとも考えられるが……」

 それにしては、あまりにも無感動だ。

「死せる家、か」

 

(つづく)