第四章 生首は知っている
一
美鈴から手話を習い始めて数ヶ月。
正直なところ、まったく覚えられる気がしなかった。
というのも手話は視覚に基づいた独自の文法体系をもった言語なのだ。音もない、文字もない。かわりに手の形やうごき、その位置や表情で意思をつたえる。ともすればそれは細かなダンスのフリを覚えるようなもので、新たな外国語をおぼえるつもりで習い始めたわたしは、少々荷が重たかった。
「わたしは口語だけでいい」
そういうが、美鈴は首を縦に振らなかった。わたしはろうあ者ではない。発話は健聴者のようにできる。だからしぐさや口の形でつたえる口語で十分だと思った。そもそも手話を日常的につかう環境にいないのだ。
そう主張したが「私が分かりづらい」という理由であえなく却下された。それでも手話を習うこと自体は面白かった。わたしにとって手話は日常の不便を補うというより、仲間だけに通じる暗号を覚えていくようだった。
美鈴も同じ気持ちだったのか、ときおり、手話にないものも教えてくれた。
『推しが愛おし過ぎてやばい』『つまりきみは、そういうやつなんだな』『すべてはローマに通ずる』。手話で表現すると手間のかかるものを、ひとつふたつの特徴的なジェスチャーで意味が通じるものにした。それはわたし達だけで通じる、それこそ暗号めいた新しい手話だ。
そのなかで、今もなおひとつだけ、強く印象に残っている手話がある。
『わたしのうしろにお化けがいます』
これを創ったとき、美鈴の眼差しは冗談めいていた。「これ、いつ使えるの」とわたしもわらったものだ。
だがこの手話を覚えた一ヶ月後、彼女は生死の境を彷徨うことになる。
そしていまも、彼女は目覚めていない。
二
「養生訓に曰く」
網の上で銀色のトングを翻しながら、近衛はその太い声でいった。
「『肉を二つかさぬべからず。又、肉多くくらふべからず。生肉をつづけてくらふべからず。滞りやすし』とある。意味わかるか?」
「わかりません」
「それでいい。所詮は食が細くなった老人の戯言だ。ほらカルビが焼けたぞ」
「いただきます」
素直に答えた。
亡くなった祖母の遺言だ。よく分からないことが起きたなら、流れに任せよ、と。実際、全く分からない。なぜわたしは県警の警部を伴って、櫛田神社の近くにある高級焼き肉店、大唐園にいるのだろうか。なぜ三階の個室に案内され、古き判事の如く、紙エプロンをつけた近衛氏と対面しながら、肉をふるまわれているのだろうか。あと養生訓とは何だろうか、と。
「養生訓というのは」
数ある疑問の内、もっとも優先順位が低いものを彼は説明してくれた。
「福岡藩お抱え医師である貝原益軒が晩年にしたためた健康への訓戒だ。流石、儒学者でもあった人物だ。このように平生どのように人が過ごすべきか、その薫陶を残している。儒学者というのはとどのつまり、生活における訓戒を書き残すことに血道をあげる集団だ。現代でたとえるなら、ビジネスや健康系インフルエンサーだ」
「ほへえ」
と、言いながら肉を食う。絶対に違うという確信だけがある。しかし中年を迎えた人間は何かと見栄を張って、大層なことを語りたがるものなのだ。子曰く、中年よく世間を語り悦に入る。よって若者それをよく聞き流し、焼き肉を貪るべし、である。
わたしは大いに食べた。
胃の入り口が厳かに、これより先一切の望みを棄てよ、というまで頬張り、胸やけの確約を得るまで肉の皿をかさねると、ようやく一息ついた。
天の御使いにことわりを入れておくと、いつもは淑女然として寡食にとどめている。カロリーは親の仇で、糖質など聞くだけで気を失う。阿網華といえば白皙の才媛、さながら食わず女房ならぬ食わず美少女なのだと、近衛が持ち出す本題を聞いた後に、なお健啖をふるえるか、と問われると、返事は怪しかろうという推測からこのように貪ったのである。
そもそもだ。博多祇園山笠もさかりの七月上旬、博多冷泉にある事務所の入口で、どうみても堅気ではない四十がらみの男性が待ち構えている時点で恐ろしいのに、所長の不在を伝えると、彼は「好都合だ」といって、私をこの焼き肉屋に連れ去ったのである。すぐにでも一一〇番したかった。しかし彼こそ警察なのだ。しかも福岡県警刑事部捜査一課の警部なのだ! こんな可憐であることだけが取り柄のわたしに、捜査一課が何の用だというのだろうか。
近衛はわたしの箸がとまると、「ところで」と口火をきった。
「奴はどうしている」
近衛という人物を語るうえで、我らがオカルト・ファクトチェッカーの所長の存在は欠かせない。というより彼が語る話題の大半は所長であり、会話の枕はいつも所長で、近衛の枕詞は所長──諸星大輔である。
会ったときからそうだった。
だから少しばかり踏み込むつもりで尋ねた。
「なぜ近衛さんはそこまで所長について調べているんですか」
「お嬢ちゃんが知る必要はない」
「じゃあ、訊き方を変えます」
温かいとうきび茶を飲んだあと、わたしはいう。
「なぜ刑事をやめた部下を、執拗に監視しているんですか」
近衛の眼がぎょろりと見開かれた。
しかしそれは彼の驚愕を表すものではなかった。
「千代の猟犬。それが奴の異名だった」
彼はデザートの杏仁豆腐にスプーンをくぐらせた。
「実際、奴は俺の班の部下で、事件に対して異常な嗅覚をもっていた。お嬢ちゃんの聴覚が異常に優れているように、奴は嗅覚が優れていた。無論、それは文字通りの意味じゃない。奴は現場に残った些細な手掛かりからその臭跡をたどるように犯人の居場所を突き止めた。奴は根っからの刑事で、本人もそれを誇りに思っていた」
だが、諸星は突如として首輪を捨てた。
そればかりか千代の猟犬の異名で呼ばれた男は、いまや嘆かわしくも、雑居ビルの最上階でYouTubeチャンネルを運営している探偵崩れだ。その転落の切っ掛けは、その実、調べがついていた。
「退職した理由はやっぱり『ハングマン事件』ですか?」
出し抜けにいうと、近衛は鋭い目でにらんだ。
「アイツから聞いたのか?」
「いえ、個人的に調べたんです。二年前の事件でひとり、刑事が職務上の行為を理由に懲戒処分を受けたと」
「よく調べたもんだ。流石、探偵事務所に勤めているだけはあるな」
近衛は吐き捨てるようにいう。彼の口吻には、わたしの節操のない調査に対する軽蔑がこめられていた。
二年前、福岡県内は一時騒然となって夜に出歩けない日々がつづいた。それは女学生を狙って立て続けに起こった連続殺人事件で、犯人は被害者を絞殺したあと、死体のそばに風ぐるまを置くという不気味な異常犯だった。犯人は男性と思われ、おそらくそれほど若くなく、ささやかな目撃情報から導き出された人相は、男性で三十代から四十代程度であろうという漠とした情報だった。
通称『ハングマン事件』。
事件は四人もの犠牲者を出していながら、犯行がぴたりと止んだことで、手掛かりがつかめず、今も尚、福岡県民の悪夢として居座っていた。そしてその事件捜査の中で、諸星は警察から去ることになったという。
「奴はあの事件で二つの失態をさらした」
そういって近衛は指を二本立てる。
「ひとつは当時、奴は別の事件を担当していたことだ。飲み屋の傷害事件で、客同士のいさかいが発展して、相手に数針を縫う怪我をさせた。犯人は逃亡中。その聞き込み捜査が奴の役割だった。だが奴はそれを個人判断でほっぽり出した」
わたしは近衛の話を聞きながら、どこか遠い別の国の人物を思い浮かべるようだった。自分が知っている諸星は、たとえ重要度の低い捜査だとしても、それを必ず完遂し、そのうえでほかの事件にも参画する、どこか律儀な印象があった。しかしながら近衛はその当時の諸星が、自ら課された任を放り出して、功を焦るように『ハングマン事件』に取り掛かったのだと語る。
「当時、俺は奴とは別の班で『ハングマン事件』を捜査していた。それが奴にとって頭痛の種でもあった。何故だか、分かるか?」
わたしは首を振る。
「それは俺たちが無能だからだ」と近衛は自嘲するように笑う。「俺たちは有象無象の捜査員。対して奴は福岡県警が誇る千代の猟犬だ。刑事としての資質は天と地ほどの差があった。だからこそ奴にとっては歯がゆい思いをしていたんだろう。自らが出ていけばすぐに片が付くはずの事件を、無能な俺たちが捜査するばかりに遅々として犯人特定に至らない、とな。実に自信過剰と思わないか?」
「まぁ、そうですね」
「人間がよく陥る誤謬だ。自分ならやれる、自分なら上手く対処できる。まるで野球場にいる監督気どりの観客だ。自分ならあの投手には投げさせない。自分なら盗塁を指示する、ってな。ありがちな勘違いだ。全く厄介きわまる。そしてそれ以上に厄介だったのは──」
近衛の眉間にふかく皺がよる。
「奴の言う通りだったということだ。俺たちは無能で、そして奴は有能だった。たったひとりでハングマンの居場所を特定してみせた」
バン、と。
大きな音が立った。近衛はぎょっとする。机を叩いて前のめりになっていたのは、わたしであった。筋肉の反射のような動きだった。
「見つけたんですか、ハングマンを!」
「落ち着け。のちにアパートの防犯カメラや、諸星からも証言をとったが、中肉中背、身長は一六〇から一八〇センチのあいだ、三十から四十代の男であること以上は、分からなかった。それほどハングマンは抜け目がなかった」
しかし、そんな犯人の住居を諸星は特定できたという。
「奴は犯人の痕跡から、犯人が偽名で借りているアパートを特定する寸前まで至った。だが特定する段になって、帰宅途中の犯人と鉢合わせになった。そこからは大立ち回りだ。豪雨が降りしきるなか、奴はハングマンを追った。ハリウッド映画さながらの追走劇。その果てに奴はハングマンから襲われ、額を十数針縫う怪我を負った。ハンマーで殴りつけられたのだから、当時は瀕死とも言える状況だ。諸星自身も死を予感したんだろう。だからこそ奴は、一矢報いるべく、逃げ去っていく犯人にむかって銃口を向け──」
ふいにガシャンと皿が落ちる音がした。
店員が食器を落としてしまったのだろう。謝罪の声がする。遠くで響いたその音は、二年前、福岡市街でひびいた銃声を想起させた。
「結果、銃弾は犯人には当たらず、市街地で発砲したという咎だけが残った。諸星は退院後、こちらの制止を振り切り、沙汰を待たずに依願退職を申し出た。そして時を同じくして犯人も地下に潜った」
そして事件は悪夢のように忘れ去られようとしていた。
だが、しばらくして近衛の耳に奇妙な噂がとどく。
あの千代の猟犬がYouTuberになっているという理解しがたい噂だった。
事実、諸星は退職後、すぐにオカルト・ファクトチェッカーというコンテンツを作りはじめた。傍から見れば、退職警官の小金稼ぎに思えるだろう。だが諸星大輔という人間を知っている彼から見れば、凄まじく怪しく、またきな臭いものであった。
「警察内部じゃ、あれが心霊や怪奇を解明するエンタメコンテンツだとは思っていない。このコンテンツを介して、潜伏しているハングマンの糸口を探し出す彼なりの捜査網じゃないかとみている。実際、ハングマンが借りていたアパートには、心霊関係の娯楽本がうずたかく積み上がっていた。いわば心霊オタクみたいなもんだ。だが、俺に言わせれば、動機は別にあると思う」
「別?」
途端、近衛はじろりとわたしを睨んだ。その眼光には見覚えがあった。真実の匂いを嗅ぎつけたとき、諸星が瞳の奥にみせる鋭さだった。だがその怪しい匂いを嗅ぎつけた近衛警部は、浮かび上がった仮説があまりにも莫迦莫迦しかったのか、すぐに頭をふった。
「まあ、どちらにしろだ」
近衛は、紙ナプキンで口をぬぐい、そして几帳面にたたんでみせた。
「奴は今もハングマンを追っている。そしていずれ追いつく」
県警の警部がそう断言する。諸星大輔はハングマンに追いつく。それは間違いないと。だからこそ質が悪いと。
「また奴がハングマン相手に大立ち回りしてみろ。今度はどちらかが死ぬ。いやこの際、奴らが死ぬ分には文句はない。片や元刑事、片や殺人鬼だ。だがな嬢ちゃん。必ずしもこの復讐劇が奴らの内でとどまるとは限らない」
「というと?」
「嬢ちゃんが殺される」
と、近衛はいう。わたしはどのような表情をすればよいか分からなかった。