彼女の言葉の尾が沈む。「それって、なにか、根拠あるの?」
「根拠というか、音が、違うんだよね」
「音?」
「巫山戯てブランコを動かした音は、ぎいって錆が噛み合う音だったけど、その後に聞こえた音は、きいって、綺麗な金属が擦れ合ったような、すごく伸びやかな音だったの」
由佳はおやっと眉をあげた。目の前にいる、もそもそと喋る女が思いの外、実のある話をしたことに驚いたのだろう。わたしは彼女の反応に調子づいて、さらに言葉をかさねる。
「それに犬塚っていう人が聞いた音も、やっぱり、伸びやかで高かった」
「最初の? 犬塚の嘘じゃなくて」
「うん。あれは嘘じゃない。ちゃんと音がしたんだよ。だから音の正体も彼等におどろいて、フロアに逃げたんだとおもう」
「え、なにそれ。もしかして、ほかにも何か隠れていたの?」
わたしは首肯する。しかし、それは人ではなく──。
「鳥だよ」
「と、とり?」
「虎鶫って知ってる? 小さな鳥で全身が黄褐色で黒い鱗のような模様がついて、まるで鬼のパンツみたいな模様の鳥なんだけど」
わたしはスマホで画像をみせた。由佳は画面に映った鳥を珍しそうに眺める。
「これが、あの音の正体?」
「うん。虎鶫の鳴き声は特徴的で、きいって、金属を引っ掻くような音で鳴くの。鳴き声が独特だから、鵺という妖怪の異名をもっているほど」
「へえ妖怪」
「多分、そう呼ばれた理由のひとつに、虎鶫の鳴きどきが関係してるとおもう。この虎鶫は、曇天や日中にも鳴くけど、基本的に夜鳴くんだ。森のなかで金属的な奇妙な音をきいたら、そりゃ妖怪だと驚くよね」
「虎鶫の声が、ブランコの軋みに聞こえた?」
「三人が廃墟をめぐっていたとき、通路の脇から、樹木が戸板を破っていた。多分、そこから虎鶫が侵入したんだと思う。あのホテルがあった場所は広葉樹の生い茂る丘陵地で、虎鶫が棲息するには格好の場所だから。
そもそも幽霊騒ぎの発端も虎鶫が原因だったんじゃないかな。以前、ホテルで働いていた人たちも、夜に鳴く虎鶫の声を聞いて、以前亡くなった少年がブランコで遊んでいると錯覚したんだとおもう」
わたしは滔々と語った後、はっと我に返った。
由佳の顔色を窺うと、異様に喋り始めたわたしに驚きつつも、現代人らしく、スマホで虎鶫の鳴き声を再生し、また該当箇所の音と聞き比べ、わたしの言及が決して荒唐無稽でないことを確認すると、がしりと、わたしの手を掴んだ。
「すごい! 探偵みたいじゃん!」
手をブンブン振る。軟弱きわまる腕が脱臼しそうなほど振り回しながら、彼女は言う。
「え、ヤバくない。すごいじゃん、名推理じゃん。うわー、騙された。めっちゃ騙された。危うく『オカファク』に投稿するところだった」
「『オカファク』?」
「『オカルト・ファクトチェッカー』っていう、オカルト動画解析チャンネル。知らない?」
知らない。
というか、この世にはあまりにもオカルト関連のチャンネルが多過ぎないか?
「でもほんと凄いよ、阿網さん。マジ尊敬」
「いや、その、ちょっと耳が良いだけだよ」
嘘ではない。
たしかにあの動画を観たとき、音の違いに気づいたのは確かだ。だが確証はなかった。そもそも推理も後付けでしかない。
本当のところは、現物を視たのだ。
あの瞬間、あの場所に立って、ブランコの支柱に虎鶫が止まっているのを。
「しかし、マジかー。音でそんなことが判るんだね」
わたしは曖昧に返答する。嘘はない。ただあまりにも説明していないところが多すぎる。だが徒に特技を明かして、以前のような境遇に置かれるのだけは避けたかった。
「ねえ、それならさ、もうひとつ、調べてほしいものがあるんだけど」
過去に思いを馳せていると、目の前に由佳の顔があった。
ずいっと突き出した丸顔の中心で、ながく飾られた睫毛が、何度もしばたく。
「この動画なんだけど」
彼女が見せてくれたのは、スマホで直撮りされたものだった。
講義が終わり、アパートに帰る道すがら撮ったもので、西日差す風景が三分にわたって映っていた。
一通りみたが、そこには幽霊はおろか、なにも怪しいものはない。
「これが、どうしたの?」
「これを撮ったとき、誰かに見張られている気がしたんだよね」
「ストーカーとか?」
「そういう感じじゃなくて」
感覚的な違和感を言語化するもどかしさに、由佳は眉をひそめる。
「やっぱなし。それに、なんか悪い感じはしなかったしさ」
そういってスマホを引っ込めようとした手を、わたしは強引に掴んだ。
「その、もしも本当にストーカーだったら、危ないし。それにほら、前にも若い女性だけを付け狙う猟奇殺人鬼が居たでしょう。まだ捕まってないしさ! だからさ、もしものことを考えて──」
「なんか、めっちゃ拘わるじゃん」
「え、いや、ほら、その、危ないし」
「それはさっき聞いた」
「うん。でも、その、やっぱりわたしも気になるから」
「…………ふうん。まあ、良いよ。そこまでいうなら」
彼女とラインを交換し、動画をアップロードしてくれた。──大学に入学して一ヶ月、初めて手に入れた学生の連絡先だった。
「それじゃ何かわかったら教えて」
由佳はそういうと、椅子から立ち上がった。
しかしすぐに立ち去らず、彼女はぼうっとパイプオルガンのほうを観ていた。そして心の居場所をなくしたような、ぼんやりとした声で、
「その動画、手掛かりが見つからなくても、気にしないでね」
「え」
「だって、もしも正体が幽霊だったら、うれしいし」
そういって、由佳はチャペルから去って行った。
二
「さて、と」
わたしはいまだチャペルにいた。今度は三階の隅に陣取り、ヘッドホンの端子をスマホに装着する。午後の講義は、自主休講とさせてもらった。刑事訴訟法は面白いが、わたしには取り急ぎ、調査したいものがある。
桂木由佳の依頼。
不審な視線を感じ、周囲を撮影した動画の調査。
はたして、視線の正体は何者だろうか。
それを判断する術は彼女にはない。
しかし、わたしにはある。
その前準備として、両手を痺れるまで何度もにぎっては解く。同じように目も眩むほど瞬きを繰り返して、ふうっと息を吐く。
そしてゆっくりと深呼吸、ふかく、ふかく、沈み込むように──。
「──ダイブ、開始」
動画を再生し、ゆっくり目蓋をとじて、耳をすませた。
耳になだれこむ音の奔流が、段々と痺れに変わっていく。
電荷の勢いが目蓋に移り、目蓋の裏をあつく灼いていくと、だんだんと視界がひらけていく。
そして最初に見えたのは、西日のような褪せた色の陽光だった。
あたりは住宅街で、真っ直ぐのびた道路の先に見慣れた人物が携帯を向けながら歩いている。桂木由佳だ。視線を覚えた彼女が、周囲をカメラのレンズに収めている。
そこは動画の世界だった。
この特技に気づいたのは、高校にあがって間もない頃だ。
部屋で寝ながら、じっと耳をすませていると、不意に、視点が浮かび上がり、寝ている自分を見下ろし始めたのだ。
幽体離脱。まさにそう称すべき光景で、身体の自由が利き、閉じた扉はするりと透過して、壁も通り抜けることができた。
その現象は、連続して数夜続いた。
しかし、あるとき途絶えた。耳栓をつけて寝たときだけ、現れなかったのだ。この特技が聴覚由来だと疑ったのはその時だ。もしかしたら、異常な聴力が何らかの作用を果たしているのではないか、そう思い立つと、ひとつ実験を試みることにした。
用意したのは、イヤホンと一本の街ブラ動画。秋葉原の町並みを撮影者が歩きながら撮影するというもので、実験にはぴったりだった。一度、見通した後、耳を澄ませて、目を瞑ると、わたしは秋葉原の雑踏にいた。つぎつぎと行き交う人の波にたじろいだが、通行人はわたしをすり抜けていった。
「まるで幽霊じゃん」
それから何度もの試行の末、わたしは音を手掛かりに動画の世界に潜り込めるのだと分かった。
「我ながら、チート能力だよな」
頬を掻きながら、わたしは動画の世界を歩き始めた。
撮影された場所は閑静な住宅地。他人の目はそこそこある。その上、彼女の歩く道路の右脇には公園があった。
公園は中規模のスーパーマーケットほどの広さがある。長方形の敷地で公園の長辺が、低いコンクリの柵を隔てて、彼女のあるく道路と接している。
不審者が隠れるとすれば、遮蔽物の多い公園は好ましい。
だが、残念ながら、その公園は起伏が少なく、植え込みはツツジやサツキなど背の低い植物だけだ。
一通り公園内を巡ってみるが、これといって気に掛かるところはない。
そもそもである。
女学生を付け狙う人物が居たとして、公園に隠れて、彼女を盗み見るというのは、かなり難しいのではないか。
公園には幼子を連れた母親や地元の子どもたちの目がある。
昔ならいざ知らず、こと現代において、見慣れない他人は、非常に加害性をもった対象として語られがちである。男と女、子どもや老人、外国人や特別な職掌をもつ人々──。皆が皆、何かしら不穏な魂をもっているとされて、馴染みのない人物がいたのなら、石を投げ込まれた水面のように、いぶかしみの波紋をたてるものだ。
それがない。
公園は平穏そのものだ。
公園には居ないのだろうか。或いは当然ながら、由佳の勘違いなのだろうか。そう思って、由佳の背中を眺めると、ふと視線の端で、公衆トイレをとらえた。トイレは道路側に面した男女共用の狭いもので、今も子どもが駈け込んで、すぐさまもどかしそうに出てきた。
個室が空いてなかったのだろう。
公衆トイレは公園の利用者だけでなく、通りかかった人もよく利用する。幼い頃、制服をきたタクシー運転手のおじさんが用を足したあと、傍で煙草を吹かせているのをみて、薄気味悪く感じたものだ。
そう思った途端、わたしの足はトイレにむかった。
確証はない。ただ、不審者がいたとして、由佳が急に周囲を撮影したとしたら、一旦、どこかに隠れる必要性が生まれるだろう。そして近くにあったトイレに駆け込んだとしたら──。
結論から述べるなら、ビンゴ、と言ったところだ。
個室から出てきた人物は、用心深そうにトイレから出ると、迷いなく道路側に顔を出して、由佳の背中を覗いた。体つきは大柄で、登山用のジャケットを羽織って、なにやら歩く度に、ペタ、ペタ、と裸足で土を踏むような音をたてる。
右の靴底が剥がれかけて、踏むたびに、鳴っているのだ。
(こいつが──)
すうっと血の気が引いていく。
この人物こそ犯人だ。由佳の感じていた視線は錯覚ではなかった。不審者を見つけ出した手応えを感じながらも、しかし、込みあげてくるものは達成感ではなかった。
(よりにもよって、こんなときに!)
わたしは吼えずにはいられなかった。
現れた人物の顔は、まるでのっぺらぼうだった。
のっぺらぼう。
これと遭遇するといつも、ラフカディオ・ハーンの『むじな』を思い出す。ある夜、侍が、のっぺりとした卵のような顔の妖怪に驚かされ、命からがら逃げた先でも、たびたび人から「こんな顔でしたか?」と言って振り返られ、のっぺりとした耳目のない顔を向けられるという怪談だ。
そののっぺらぼうが、わたしの世界にも、時たま現れることがあった。
ただ『むじな』と異なるのは顔の輪郭が揃っているところにある。目鼻立ち、唇のあつみ、睫毛の長さまできっちりそろっている。
しかし、色彩がない。
あるいは色がないというより、色が認識出来ないというほうが正しいかもしれない。この強烈な違和感を譬えるなら、さながら目蓋を閉じたとき、瞳に映っているはずの色を、どうにも答えられないのに似ている。黒でもない、かといって赤や肌色でもない。不可思議な色彩。その不可知の色というべきものを全身にまとって、一種の迷彩色のように実態をとらえにくいという点で、やはりのっぺらぼうだった。
こういう存在が、ときおり、潜り込んだ動画の世界に、ひとに限らず動物や、ときに物であっても、あらわれることがあった。
異常な特技の異様な欠点。
今、その不可知の怪人が、由佳のほうへ歩き出した。両手はジャケットのポケットにいれて、物騒なものを取り出しそうな雰囲気がある。ナイフか縄か。この世界が過去に撮影された動画であることも忘れて、わたしは声をあげようとして──。
「──はっ」
わたしは現実の世界に立ち返っていた。
見下ろせば、動画のシークバーは右端まで到達している。動画の世界に潜れるのは、動画の再生時間のみ。それを超えると、音が途切れ、仮想世界から放り出されてしまう。
わたしはすぐさま由佳に動画の内容と、彼女を尾けている人物の服装や体格、その他の特徴など──を書き記し、送信した。
既読になることはなかったが、講義が終われば、気づくだろう。あの大男が、大学キャンパスにまで来るとは思わないが、知らせるのは早いほうが良い。
「……ふう」
わたしは一息ついて、ヘッドホンを外す。充電が切れかかっており、イヤパッドの側部のランプが赤色に点滅していた。
危機を知らせる明滅は、由佳の安否を匂わせる。
脳裡をよぎるのは、二年前、福岡県全域を恐怖に陥れた連続絞殺魔だった。
二年前、県内で十代の若い女性が、立て続けに絞殺死体となって発見される事件があった。若い女性を付け狙うことや絞殺という比較的腕力が必要な殺害方法から、犯人は大柄の男性と推察されており、およそ半年のあいだに県下で、死亡者六名、重傷者一名という、惨憺たる被害をだした。
しかし、二年前の八月の事件を境に、犯行はぴたりととまる。
それから今まで、犯人は行方をくらませ、同様の殺人は起きていない。それが本当であるのか、警察が発見していないのか、それは定かではない。ただ、わたしぐらいの年齢の女性は、一種の都市伝説のようにその存在を噂し、いつしかテレビや週刊誌では『ハングマン』と呼ばれていた。
(……まさか、あいつが、また現れた?)
そう思うと、居ても立ってもいられなかった。
やはりラインだけでなく、直接会って危険であることを伝えよう。
そう決断すると、そのままキャンパスのほうに向かった。
大学院のキャンパスを出て、道路まで来た。いそぐわたしをからかうように、横断歩道の信号が点滅する。普段運動しない自分に鞭を打ち、がむしゃらに走って、ようやく渡り終えたとき、キャンパスに入ろうとしていた男性とぶつかった。
「あ、すいませ──」
慌てて謝罪したわたしは、ぐっと息を詰まらせた。まるで心臓を鷲掴みされた気がした。それ程まで仰天し、身動きすら出来なかったのだ。
「ああ、こちらこそ失礼」
そう会釈した人物は、キャンパスに向かおうとする。
わたしの視線は、ぶつかってから今の今まで、地を這っていた。あまりにも、その視線の先にある靴に見覚えがあったのだ。右足に履かれた黒いスニーカー。いまにも靴底が剥がれ落ちそうで、ぺたぺたと歩く度に聞こえる跫音。
それは残響の如く、耳にまとわりついた。
三
殺人鬼が迫っている。
彼こそ、ハングマンかもしれない。
わたしは震えを禁じ得なかった。だが、それ以上に身体の奥から湧き立たったのは、この男を野放しにしておけない、少なくとも彼を由佳に会わせてはいけないという自分でも驚くほどの正義感だった。
すぐさま門扉の脇にある守衛の詰所にかけよると、中にいた男性に不審者の一報を入れた。五十歳ほどの守衛は、「あのひと、不審者なんです!」と、言って指さした男よりも、鬼気迫る表情のわたしを不審がった。
「友人が、あの男性に尾けられているんです!」
そう言っても尚、彼は狐疑を眉に浮かべたが、通報を聞き流す訳にもいかず、「ちょっと待って」と言い残すと、男のほうに向かっていった。
わたしは詰め所の中に隠れて、守衛の対応を見守る。
さしものハングマンも白昼堂々、彼を殺すことはないだろう。疑われて逃げるか、あるいは誤魔化すか。その一部始終をつぶさに観察していると、全く予期しないことが起きた。
最初、守衛は職務に忠実だった。険しい眼で訝しみ、言葉を交わした。
だが十秒ほどすると、どう言いくるめられたのか、彼は破顔し、そのままわたしのいるほうを指さしたのだ。足の先から頭の天辺まで、凍てつく風がさっと吹きすさぶようだった。
男はこちらに歩いてくると、
「こんにちは」
と、再び会釈する。
それから何か言うのだが、そんな内容よりも、ハングマンに認識された衝撃が、金槌で脳を叩かれたようなショックを生んで、立っているのがやっとの状態だった。
殺されてしまう。
暗い死という概念が、底冷えする寒気とともに全身を戦慄させる。
男がこちらに腕をのばした。何かを言っている。分からない。
だが、せめて一矢報いねば──。
「諸星さん?」
その声はヘッドホンをとおして、すき通るように聞こえた。
声の主は、由佳だった。
手にスマホを持っている。ラインの通知をみて、チャペルに駆けつけようとしたのだろう。その折に、わたしとこの男の遭遇に出くわしたのだ。まさに最悪のタイミングだ。
そのうえ、彼女は男に近づいて──。
「嗚呼やっぱり、諸星さんですね。どうしたんですか?」
親しげに話し掛けた。男も取り繕う様子もなく、自然に微笑みを返す。
「どうも。少しばかりお話ししたいことがあって来たのですが……」
彼はそう言って、ちらりとわたしをみる。
「どうやら、誤解されている風でして」
「ああ、やっぱり」
由佳は腑に落ちたように笑う。「もしかしたら諸星さんをストーカーと勘違いしているんじゃないかと思ったんです」
「え」
「やっぱり。だと思ったんだよね。あの動画をみせたアタシが悪かったんだけど」
「え、その、知り合いなの?」
「うん。あの日も、諸星さんが声を掛けてくれたんだよね。まさか、視線が彼のものとは思わなかったけど」
「そ、その、ご関係は?」
「ああ、失礼。あらためて自己紹介しよう」
彼はそういうと、一枚の名刺を寄越した。
そこには『オカルト・ファクトチェッカー』とある。
「おじさんはYouTubeチャンネルをやっている諸星大輔。まあ、いわゆるYouTuberという奴だよ。最近、結構人気急上昇中なんだけど、知らないかな?」
おじさんと自称するには、まだ年齢による衰えを感じさせない三十歳前後の男性は、真っ直ぐな眼光と大柄な体格をそなえた精悍な男性だった。
しかしながら同時に酷い猫背で、無精ヒゲを残している頬など、その風貌に頼りない印象も同居しているから、どうも正体がつかめない。青年と壮年のあいだを無為にただよっているというのが、第一印象だった。
「もう良いかい?」
守衛の男性は面倒そうにいう。
わたしは守衛と諸星に心から詫びた。
「諸星さんは、なんでこの大学へ?」
守衛が詰め所にもどったあと、由佳はそう訊ねた。
「市立の総合図書館に用事があったから、ついでもかねて」
諸星はぐるりと周囲を見渡す。思いの外、野次馬があつまり始めていた。
「耳目をあつめすぎたね。以前貰った動画の報告は後日、メールですることにして、今日は退散することにしよう」
「まー、そのほうが良いかもです」
そういって彼等は散開した。そのあっけなさ、あまりの唐突さに、わたしはまるでついて行けなかった。だが、正直なところ、一人で大騒ぎしてしまった恥ずかしさが顔を火照らせてきたので、有り難かった。このあと講義もない。ヘッドホンも、帰宅を促すように『ローバッテリー』とアラートを囁く。
わたしは大学近くのアパートに戻ることにした。
全く情けない人生である。阿呆である。どうしようもないマヌケ──。
「なんで、尾いてくるんですか……」
絶賛自己嫌悪中の帰路に、なぜか諸星がついてきていた。
まるで偶然を装って、やあ、と手を上げたが、その数秒前、植木の陰に隠れている巨体を発見していた。
「なんですか、貴方は。女性のあとをつける趣味でもあるんですか」
「あはははは。いやー阿網チャンは、随分、きついねえ」
諸星は呵々大笑しながら、それでも尚、真横についてくる。
彼が不審人物でないことは分かったが、交遊のない男性に横を歩かれるのは勘弁してもらいたい。普段なら睨みつけて去るのだが、さきほど不審者として疑ってしまった手前、あまり強くでられなかった。
「なにか、用ですか」
「ちょっと知りたいことがあって」
「知りたいこと?」
「うん。まあ少しばかり奇妙に思ったことがあってね」
彼は笑いながら、こちらの目を覗く。
途端、息が詰まった。その眼光は余りにも鋭く、わたしを圧倒する迫力に満ちていた。
「僕と君は面識がないはずだ。少なくともぶつかったとき、君の反応は他人のそれだった。又、不審者として糾弾したとき、僕の名前をあげなかったことをみるに、チャンネルの視聴者でもない。まったくもって赤の他人だ」
「え、あ、その、不審者として間違えたことは、あやまります」
「いや、そこじゃない。いや、そこなのだけど──」
着眼点はそこじゃない、という。
「いいかい、阿網チャン。ひとが他人を不審者と断ずるときはね、普通、顔をみるんだ。ルッキズムが非難される昨今でも、やっぱり他人を判断する要点は、顔なんだ。どれだけ怪しい場所で現れようが、血みどろで路地に倒れてようが、不審か、事故か、あるいは運命的な出逢いか。それを判別するのは、顔なんだ」
諸星は言葉で楔を打つ。
諭すとは異なる。棋士が盤上を攻めていく周到さに似ている。
「だ、だからなんです」
「だから可怪しいんだよ。君は僕の身なり──それもたった一点、右足のスニーカーを見て、不審者と判断した。顔など見なかった。そしてなにより君が確信めいた表情を浮かべたのは、スニーカーの、剥がれかけた靴底をみたときだ。いいかい? 君は他人の靴底をみて、桂木由佳を付け狙う不審者と判断したんだよ?」
わたしは立ち止まってしまった。恐る恐る見上げれば、影を背負うように諸星がこちらを見下ろしている。そして、
「ちなみに僕はこの靴を頻繁に履いている訳じゃない。むしろ廃棄しようとしていたものだ。ただ昨日の雨のせいで外行きの靴が濡れてしまって、今朝、仕方なくこれを履いた。実に久しぶりだ。ああ、そうそう、この靴を指摘されたのは、君で二人目だ。ちょっと前、スリッパ代わりにこれを履いて買い物に行ったとき、偶然、帰り途で出逢った桂木さんに笑われた記憶があるが──」
なにか、関係あるかい?
という。声は刃のように、浅はかな小娘を刺していく。
「それに彼女は面白いことを言っていたね。『あの動画』とか。たしかこの靴を履いていたとき、彼女は撮影をしていた。となるとその動画をみて、気づいたのかな? だが、僕は撮られた憶えはないのだけど──」
彼はわたしを覗いていた。
心の襞のひとつひとつを、丁寧にめくっていく。犯罪者の醸し出す鈍い悪意とは別の、洗練された鋭い暴力が、喉元にひたひたと触れている。静かな脅威がこの身にせまる──そう思い込んでいたわたしはどれだけ愚かだったのだろう。警戒すべきは眼前の人物ではなかった。眼前の脅威とは別の、戦慄の底をぬくが如き声が、もうすぐそこまで迫っていたというのに。
『──バッテリー・オフ』
そう言い放ったのは、わたしの掛けていたヘッドホンだった。
途端、遮音の膜が剥がれ落ちた。
「あ、ああ」
外耳から何本もの鋭い錐が差し込まれる。その音が、鼓膜や聴覚を介さず、脳髄にむかって攻め込んでくる。分かるだろうか、いや分かるまい。音というのが、鼓膜を介さず、直接的な刺激として脳にぶち当たったときの凄まじい感情の悲鳴など。それはもはや音ではなく、人を撃滅するために発明された殺人音波だ。
わたしは彼に助けを求めるしかなかった。