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七

 

 近衛は嘆息のあと、外部に漏らさない、尚且つ動画でも扱わないということを厳命させたあとに背後関係を教えてくれた。

 馬場良雄は息子が自殺したと聞いたときから、これが事故であり、親会社の業務上過失致死傷であると疑っていた。というのも、子規が自殺したとされた時刻、紅葉山駅ではひとつの騒動が起きていたからだ。

 時刻は午前十一時七分。四十二歳の女性がホームに進入する列車を前に、立ち眩みをおこして、線路に転落した。──一瞬だった。転落した女性が声をあげる間もなく、六両編成の列車が、凄まじいブレーキの悲鳴をあげて、彼女の上を通過した。

 同時刻、付近の線路点検を行っていた子規は、すぐさま本社より、人身事故の報を受けている。ダイヤが乱れ、のぼりの線路から列車が来ず、次にやって来るのは、くだりからだという旨を受け取り、了解したことが記録に残っていた。

 場面はもどり、紅葉山駅。

 そこでは、ひとつの奇跡がおきていた。

 転落した女性が生きていたのだ。奇跡的に線路と線路の隙間に居たことで軽傷で済み、女性はホームに引きあげられ、ダイヤは回復した。ここで再びダイヤ回復の連絡が子規に知らされた──というのが管理会社側の主張だった。

 だが、馬場はここに疑義を呈した。

 果たして、この連絡が正常に行われたのか、と。

 馬場良雄には当初から保線業務を委託された管理会社に不審感があった。というのも時折、息子からこんな愚痴を聞いていた。通常、保線業務は二人組で行い、一方が保線業務を行うあいだ、もうひとりが連絡や周囲の警戒を行う。だが、子規はたびたび業務効率化という名の下に、保線業務をひとりでさせることがあったというのだ。そのためダイヤ復旧の連絡も入っていなかったのではないかと、良雄は疑いを深めていた。

 しかし結局、馬場良雄はその疑念を明らかにできなかった。

 管理会社は十数万円の弔慰金を手切れ金として、以降一切の対応を拒絶した。良雄には妻が居たが、事故の数年後に離婚。彼は勤めていた信託銀行を辞め、貯金を切り崩しながら、事故現場付近での聞き込みやビラ配りに励むことになる。

「この辺りじゃ、馬場良雄は名物爺だったようです。いくつか渾名がありました。およそ聞くに耐えられるのは『ビラ配りおじさん』や『騒音爺そうおんじい』ぐらい。あとは口にするのも憚られる名前ばかりでした。通行人にかなり執拗に訊いてまわっていたらしい。最近じゃあ、不審者として通報されていたぐらいです」

 若手の刑事は捜査手帳をめくりながら、聞き込んだ情報を明らかにした。

 馬場良雄は随分と鼻つまみ者だったらしい。近衛は苦笑をもらしながら言う。

「納得できなかったんだろうな。だから街頭で情報を求め、なにか新しい証拠がないか尋ね歩いた。それを十年間、ずうっとだ。ただ、潮目が変わったのはここ一ヶ月前ぐらいだったらしい」

 馬場良雄が警察署に赴き、勝ち誇ったように一枚の写真を見せてきたという。彼の手には子規が線路上を、ひとりで点検している写真が写っていた。その写真こそ業務上過失致死傷罪の証拠だとして、彼は再捜査を嘆願した。

 だが、その一枚をもって十年前の事件の捜査に踏み切ることは難しい。まして事件当時、子規が一人であったという事実だけではダイヤ回復の伝達不備の証拠にはならない。無論、再捜査には到らなかった。それから馬場良雄は、警察に日参するようになる。最初こそ、警察の怠慢と巨悪の打破に意気込んでいた彼も、公訴時効が迫ってくると、むしろ縋るようになった。

 彼の懇願は、死んだその日の朝までつづいた。

 テーブルに沈痛な雰囲気が立ちこめる。一人の父親が息子の汚名をそそぐべく十年もの歳月をかけて挑んだ事故。何度墓前にたって真相を明かすという誓いを立てただろうか。いずれ真相が明るみにでることを祈り、奮闘した果てに手に入れたのは、深い絶望だった。

 そうして彼は自ら命を絶つ。

 彼の悔しさが、わたしの目尻に熱いものを生じさせ──。

「成る程、随分と綺麗な筋読みですね」

 と、彼はいった。

 発言者は隣にいる諸星だ。彼の表情に馬場良雄への憐憫などない。ただ冷淡に事実を掻き分ける意思だけだ。

「訪ねたのは警察署だけですか?」

「……お前」

 近衛は苦笑をうかべる。「情のない奴だな」

「馬場は事件関係者にも日参していましたね? それもかなり執拗に」

「たしかに事件の鉄道会社側の責任者や当時の担当者の家にも訪れ、真相を話してほしいと懇願していたようだ」

「もし、そのなかの関係者のひとりが口封じに馬場良雄を殺害したなら、警察は殺人事件の端緒を見逃しただけでなく、過去の事件の真相を葬ったことになりますね」

「滅多なことを言いやがる」

 そして誤解もしている、と近衛は言う。

「十年前も今回も、所轄は最善をつくしている。俺はそう信じている。だから若しも捜査本部が怖れていることがあるのなら、メディアだ」

「メディア?」

 と、わたしは首を傾げた。

「そうだよ、嬢ちゃん。メディアにとって警察の失態は恰好のネタだ。奴等は、しかつめらしい顔で、市民の不安を煽ることを至上命題にする扇動者だぜ。速報性の名の下に恣意的なトピックスで市民を焚きつけやがる。おっと、勘違いしちゃいけねえ。別に新聞やテレビだけじゃない。いまや全世界の人間がSNSっていうメディアを持ってる。誰もがメディアの申し子さ」

 近衛はおもむろにポケットから取り出したものを秘密結社の証の如くかかげてみせる。平凡なスマホ。その黒く無機質な画面を。

「俺にはこれが松明にみえる。恐怖や不安、不快なモノを燃やすための松明だ。中には火を以て処断すべき悪党もいるだろう。だが、火あぶりに処す程の罪状じゃない奴もいる。或いは最善を尽くした果てに偶然起きたインシデントもある。だがメディアの猛火はそれを判別ない。燃えのこった全てを灰にするまで、決して止まらない野火のごとく──」

「だから、馬場良雄の死を自殺で収めようと?」

 わたしは食ってかかった。近衛の言い分はわかる。だがその一方で、自らの責任から逃れようとする言い訳にも聞こえた。

「ほら、それだ」

 すると、近衛は指さして言う。

「嬢ちゃんのその顔。火をつけたいって顔してるぜ」

「はぐらかさないで下さい!」

 自分でも驚くほどの怒りだった。

 端的にいえば不快だった。精査すべき過去の事件をおざなりにして、尚且つ、今回の一連の事件の遠因をつくったことに反省の色もない。まだ自殺のほうが良かった、そう暗に仄めかす近衛の無神経さにも腹立たしく思えたのだ。

 警察はアテにならない。自分たちで解決するしかない。

 意気込みは強く、気炎を吐く。

 警察が怖れるメディアでこの事件を解決する。そのためのオカルト・ファクトチェッカーではないか。そう思って諸星をみやった。

 彼も又、同じ憤りを共有している。そう余りにも無垢に思い込んでいた。

 しかし、当の彼はといえば、なにやら難しい顔をしていた。そして近衛に向き直った彼の謎への熱は、どことなく冷めていた。

「警察は殺人の可能性も考慮したんですよね」

「むろんだ」

 と近衛はうなずく。

「だが、口封じのために馬場を殺したのなら、ここは余りにも場違いだ。もしも公訴時効の直前、福肥線の廃駅で、死体で発見されたというのなら、むしろ再び事故にスポットライトを当てる契機になる」

「だが、公訴には間に合わない」

「人の噂には時効なんてないぞ。そもそも公訴ができたとして、十年前の過失致死傷を認めさせるのは至難の業だ。それよりも無責任な放火魔たちを焚きつけて、関係者一同を火刑に処すほうが簡単だと思わないか。現に今も、どこぞの記者が過去の事故を嗅ぎ廻っている。お前達と同じようにな」

「僕達への情報提供は、火消しの一環というわけですか」

「どのようにとってもらっても構わない。だが事実として、口封じのために殺害するには場所が適していない」

「そうでしょうか? 僕にはひとり、最適な人物に心当たりがありますが」

「誰だ?」

「村部武人です」

 近衛の目が怜悧なものに変わる。

「根拠は」

「この動画をご存じですよね」

 彼は村部が撮影した動画をみせる。「彼はこの動画を撮影したときのことをこう語りました。仕事場から帰る道すがら、廃駅を眺めていたら、馬場を発見して助手席にあったカメラを取り出して撮影したと」

 彼は確認するように視線を寄越す。

 わたしは頷いてみせた。

「この動画の撮影箇所は紅葉山駅の北口。つまり彼は佐賀にある自宅を目指して、紅葉山駅の北口の道路を、福岡方面から佐賀方面に向かっていたことになる。だがそうなると辻褄が合わない」

「…………ああ、そうか」

 瞬間、合点がいった。

 近衛も直ぐさま理解して、眉間を狭めた。

「あそこは佐賀から福岡にのぼる、一方通行ですよね」

 諸星とともに駅の北側の道路にまわり、呼子に──佐賀方面に向かおうとしていたことを思い出した。そこで近衛に呼び止められたのだ。その原因は一方通行道路を逆走していたことだった。

「つまり彼は帰宅途中に撮影したんじゃない。彼は馬場のあとをつけて撮影したんでしょう。おそらく村部も再三、馬場からの日参をうけていた。おそらくそのときに、紅葉山駅で検証していることも知った。だから彼が去ったあと、彼を追って、廃駅の奇行を撮影した。それは──」

「自殺にみせかけて殺す為か」

 と、言ったのは近衛だ。「たしかに馬場は村部の自宅までやってきて、たびたび懇願──というには、やや荒々しい方法で頼み込んでいた。馬場が死んだ日も、村部の自宅付近で、馬場本人が目撃されている」

 やはり警察もそこまで調べていたのだ。だがなぜそこまで知っておきながら、彼を捕まえないのか? その疑問は直ぐに氷解した。

「だが、村部には鉄壁のアリバイがあった」

 警察はすでに村部を重要参考人として聴取していた。

 その結果、彼には覆しがたいアリバイがあったのだ。

 死亡推定時刻、村部は福岡市内にいた。彼は午後六時半頃、現在勤めている旅行会社を出発、早良さわら区次郎丸じろうまるの飲食店で飲食したあと、その近くの調剤薬局で、処方箋をだして代理で薬を受け取っている。──本人曰く、昨日母親が、診察後、薬を貰わず家に帰ったため、母のかわりに、処方箋をもって、遅くまで開いている次郎丸の調剤薬局に薬を受け取りに向かっていた。

 薬局内の防犯カメラに村部本人が映っており、証言に間違いはない。この時点で八時半。高速にのって糸島市まで向かい、九時までに馬場を殺すことは、事実上、不可能だった。

「別人であった可能性は?」

「当時、勤務していた複数の薬剤師にも聴取して、村部で間違いないと証言を得ている。母親が処方箋を持ち帰ることがしばしばあって、夜になって駆け込んでくる患者として認知されていた」

 わたしはそれを聞いて、段々と血の気がひいてきた。

 今になって、諸星が苦い顔をしていた意味を理解したのだ。

 彼はすでに事件の核心を捕らえていた。だが、その真相があまりに痛ましく、悲壮な覚悟を持っていたために、ひとつひとつ反証を探していたのだろう。

 しかし、探し物はなかった。

 おそらく警察も真相に気づくだろう。むしろ気づかないほうがおかしい。たった一枚の先入観のベールをめくれば、そこに真相があるのだ。

 ラスト・リミット。すべてはそこに帰結する。

 

 わたしたちはそのあと、しずかに事務所へと戻った。自分たちにできることなどなかった。時間が、すべてを暴いてしまうのだから。

 翌日、わたしはニュースで、とある殺人事件の報道を見た。

 犯人の名前は村部素子むらべもとこ。

 村部武人のひとり娘だった。

 

八

 

「デイサービスは基本的に六十五歳以上が対象で、要介護認定を受けた人しか利用できない」

 時間はもどり、紅葉山駅からもどる車中。

 諸星はふと呟くようにいった。

「ただし特定疾病を患っている場合には四十歳以上でもサービスは受けられる。その特定疾病のなかには、ステージ四の癌もある。余命が半年を切る場合、デイサービスを利用することが出来るらしい」

 おそらく村部素子も癌がかなり進行しているのだろう。目深にかぶっていた赤い毛糸の帽子は、抗がん剤で髪が抜け落ちた頭を守るための帽子だった。

「おそらく彼女は──」

 と、諸星は犯行の軌跡をかたる。事件当日、素子は家に訪れた馬場を応対した。そして馬場の言い分を聞くフリをして、紅葉山駅についていった。おそらく駅に向かう途中に珈琲をたのみ、睡眠薬を入れたのだろう。その睡眠薬も、がんの疼痛による不眠を緩和するために処方されたとみて間違いない。

 彼女は跨線橋に誘い出した。──駅の全体を見るなどと方便をかたり、彼女は珈琲をのませた。あとはうつらうつらとし始めた彼を介護するように寄り添い、そのまま真っ逆さまに突き落とした。

「彼女は父親の罪を隠蔽するために犯罪を行ったんでしょうか?」

 諸星は悩ましげに口を歪め、首を横に振る。

「おそらく違うんじゃないかな。そもそも犯行のあった日は、公訴時効の前日。公訴というのは、警察が捜査した情報を検察にあげ、それを検察が裁判所に起訴することを意味するんだ。もはや一日そこらでは警察の捜査など終わるはずもなく、時効は成立する。馬場も理解していたはずだ」

「じゃあ、なぜ彼女は犯行を?」

「私刑に対する恐怖から、だろうね」

「私刑?」

 信号機が赤に変わった。諸星は携帯でSNSアカウントを立ち上げ、わたしにとある書き込みを見せてくれた。そこには村部家への誹謗中傷と思わしき第三者の書き込みがあった。

「恣意的なアカウントではないことは確認済みだ。誰もが馬場良雄の訴えを、ときに面白げに、ときに不安げに呟いている。おそらく事件が明るみに出れば、さらに勢いを増すだろう」

 わたしはそのひとつひとつを読んだ。それらは日常のささやかな呟きと同列に吐き捨てられた文字列。煙草の吸殻と同じ、いずれ消える小さな火種だ。だがそれが何かの拍子に延焼する。時に恣意的に、時に正義心から。そして今、見ていたひとつの呟きが、誰かによって拡散されたのを見た。

 火が、燃え広がる。私刑を求める火が。

「馬場は事件が法の下に裁かれないと随分前から分かっていたはずだ。それにもかかわらず、公訴時効の前日まで村部の家まで押しかけて喚いていた。その叫びは決して正義を求める声だけではなかった。周囲に喧伝したかったんだよ。この村部という家は、自分の息子を殺害した犯罪者の家だとね。正義の訴えは、すでに害意のある私刑に変わっていたんだ」

 わたしは愕然として、力なく項垂れた。

 法の下に正義が果たされないと判れば、ひとは私刑に走る。彼もまた度々家に赴き、怒鳴り散らし、過失により息子を殺したのだと近所にふれまわった。それがもしSNSで拡散すれば、馬場良雄にとってはしめたものだ。

 息子を失い、事故の事実を証明できなかった馬場は、もはや全てを顧みることのない無敵の人となる。しかし、村部家にも家族のために全てを投げ捨てようとした人がいた。

 わたしは駐車場で村部が、病身の娘に言われたのだと嬉しそうに語っていた言葉を思い出す。『残り少ない親子の時間を大切にしたい』。素子はおそらく自分の犯行が露呈することを知っていたのだろう。それでも尚、父親と祖母のため、彼女は報復者を殺害した。

 息子の汚名をすすごうとした男と、家族の為に自分を擲なげうった娘。自らの思いを刃にかえて、橋の上から滅びの底に沈んでいった。もしも死者の声を聴くことができたのなら、この破滅的な出来事は回避できたのだろうか。

(──復讐、か)

 わたしはぼうっと後部座席から外を見渡した。

 青々とした海岸線を刺々しい防風林が隠している。

 もしも、犯人が見つかったのなら。

 と、思う。

 わたしも、美鈴みすずも、それを望むだろうか、と。

 

(つづく)