「資料館にッ!」
内言だろうと、言葉だろうと、そのすべてを跨ぎ越して錯乱しているなかで、これほど的確な台詞が言えたことは奇跡に近かった。
そしてもうひとつの奇跡は、わたしの乏しい意思表示を諸星が正確に読み取り、すぐに抱え込んで、わたしが指さしたほうにむかって、全力で駆け出したことだった。
彼は十全にわたしの期待に応えてくれた。資料館に運び込まれ、チャペルまであがると、わたしを苛む音も、次第にゆるやかになっていった。
「すごい汗だね」
乙女にいうべきではない言葉を吐いて、彼はわたしをその太い腕から椅子に移した。わたしは脱水症状をおこしたように、全身に力が入らなかったが、這う這うの態で、地面を這いずり、埋設されたコンセントをひきぬくと、ヘッドホンの充電端子を挿し込んで、我が防衛機能を充電することに成功した。
「聴覚過敏、その強烈なものだね」
彼は声を落として話す。
その声さえ、ヘッドホンを介さないと、怒りの奇声をあげたくなる。それをぐっと我慢して頷く。彼はそのあと充電が完了するまで、ひとことも話さず、身動ぎすら気を使ってくれた。
御陰でわたしは、彼を殴りつけることも罵倒することもなく、改めて、ヘッドホンをかぶり直すことに成功した。すぐにヘッドホンが外から侵襲する音をフィルタリングして、音の波長を打ち消す。そして内蔵されたAIが、近くにいる人の声を判別して、拾ってくれた。
「調子は?」
「大丈夫です」
「大丈夫というには、まだ顔が青褪めているけど」
「多分、肌がブルベ冬のせいです」
「戯言をいえるのなら、少なからず喋れるね。──それで聴覚かい。原因は」
「……はい」
わたしは頷いた。「どちらも」
「どちらも、ねえ」
隣に座っていた彼は、壇上のパイプオルガンを眺めながら、笑う。「僕を不審者と決めつけた理由も、その優れた聴覚によるものだとすると……なるほど、得心がいったような、いかないような」
「いけませんか?」
「いかないね」
「なら、こんな戯言はどうでしょうか──」
そのときのわたしはどこか自暴自棄だった。大学生活で、音の錯乱を起こすのは、これが始めてだった。多くの人に見られたし、明日を待たずに在校生の口端にのぼるだろう。深い憂鬱に陥りながら、一方で、異常な錯乱から醒めた一種の高揚感が、わたしの秘密を漏らすにいたらせた。
つまり、ダイブについて教えたのだ。能力のことから欠点、そして由佳の動画でどのように諸星に気づいたか、その全てを。
彼は茶化すことなく、一から十まで全てに傾聴した。そして一言、
「あるかもしれない」
と言う。
「これは一つの仮説だが、阿網チャンは共感覚者なんだと思う」
「共感覚?」
「色を見ると味を想起したり、匂いに形を感じたり、ひとつの知覚が別の知覚を呼び覚ます人がいる。ざっと百余りの様々な共感覚があると言われている。君の場合、音を聞くことで形を感じられる共感覚者だとおもう」
「な、なるほど」
わたしは大いに頷いて見せた。「よくわかんないや」
「ふむ。譬えるなら、君は生成AIプログラムのようなものだ」
「へえ」
「君は『音』というデータで、仮想世界を作り出すことができるんだ。その出力は凄まじく、また正確だ。普通の人が川のせせらぎを聴いて、水面や水中を想像するところを、君は水質や生態系、周囲の土草まで想像できる」
クリックひとつで、仮想物が、過剰なまでに補われていく世界。
まさに生成AIだろう。ただ一般のAIと異なり、ネットという膨大な情報のプールではなく、具体性のある限られた情報により描画されていく、スタンドアローン・プログラムだと言える。
ただ、その生成プログラムにも、ひとつ致命的な欠点があった。
「阿網チャンの共感覚は、音から形を生成するけど色は生成できない。だから『音』の情報を聞きつつ、一方で、その音の形に見合った『色』を記憶から引っ張り出さなきゃいけない」
だからこそ、のっぺらぼうが現れる、と彼はいう。
「それは、いうならば、該当色がなかったせいで吐きだされた、エラーのようなものだ。本来は事前に見た動画の記憶によって色が補完されるはずなのに、その情報がないために、音で形づくられただけの色のない立体物を脳に投影した。それが、のっぺらぼうの正体なんだ」
たしかにトイレから出てきた諸星は動画内に登場していなかった。そのせいで、彼の色情報はなく、エラーとして、あの世界に『色情報のない人物』として出力されていたのだ。
(……なんというか)
数年ものあいだ、わたしが無意識に玩んでいた特技は、自分が想像していた以上に恐るべき異能だったのである。それに驚き、呆れ、またそれ以上に、目の前にいる諸星の考察の巧みさに舌を巻いた。
近くで見れば、諸星は存外整った顔つきだった。ハンサムと言ってもいいかもしれない。頼りがいがあるし、錯乱した自分を抱えて、全力で駆け抜けることが出来た体幹は、率直に言って男らしい。なんというか、いやはや、こちらにはそんな気は毛頭ないのだが、しかし客観的、かつ冷静な視座に立てば、俳優のような、どこか個性的な野趣さえ感じる。そんな諸星は、ふかく沈むように思索をつづけて、ひとり、ぶつぶつと呟いていた。
「しかし、なるほどそうか。動画の情報がプロンプトとなって、仮想世界を生成するスタンドアローンな明晰夢装置か。こいつは思っていた以上に使えるな」
何やら途轍もなく厭な予感がする。
ずりずりと距離をとると、諸星は遠ざけた距離をすぐにつめた。
「阿網チャン、ちょっと相談があるのだけど」
「そ、相談?」
「お金、入り用じゃない。おじさん、援助できるよ」
「ひ」
淡い憧憬など吹き飛ぶような、品性下劣な笑みだった。
「おじさん、ちょっと阿網チャンにお願いしたいお仕事があるんだよねー」
「そ、その、わたし、ちょっと用事が」
「あ、いたたた。さっきぶつかった箇所が痛い。とくに不審者として疑われた心の傷が痛い」
「そ、それは──」
「酷いなあ、阿網チャン。中年男性はね、若い女性に怯えながら生きているんだよ? 歩いているだけで睨まれ、立っているだけで警戒される。そんな身の置き場もない世間で必死に頑張っているにも拘わらず、不審者として守衛に突き出されたことを思うと、ぼかぁ、半年は落ち込むし、恨むなあ」
よよよ、と嘘泣きすら見せる。
誰が俳優のようだ、だ。大根役者ではないか。わたしは罪悪感に付け込まれる形で、仕方なく話を聴くことになった。
「仕事といっても、いかがわしい話じゃない。怪しい話ではあるけどね」
「怪しい話?」
「そう、怪しい、妖の話」
からからと諸星はわらう。
「とある動画にダイブしてほしいんだ。その動画は、団地をあるく女性の後ろ姿を尾行した映像で、その動画のなかで、彼女は飛び降り自殺を図っている。但し、彼女はその撮影日の一週間前に──」
交通事故で死んでいる。
四
──雨が降っていた。
雨脚はよわく、斑模様がアスファルトに点描される。
行き交う車の量から鑑みて、そこまで遅い時間ではない。
道路をへだてて正面にそびえる団地棟も明かりが灯っている。階層は十階あまり。よくみれば、棟はふたつ並びになって、その間に上層にのぼる階段がある。エントランスはその下にあり、張りだした屋根に雨がしとしとと降って、重々しい空気をただよわせていた。
そんなうら寂しい団地に、ひとりの女が映っている。
髪の長い、赤いワンピースを着た女だ。雨止みを待つように、入口の庇の下に立って、こちらに背を向けている。カメラがズームされると、赤い女は、カメラを厭うように団地に入っていく。
カメラは追い掛け、エントランスに入り、明滅する電灯の下をくぐる。大きな掲示板には『ゴミ出しの曜日とその注意』や『不審者出没中』、また『近隣高校の運動会について』など、ラミネートされた紙片が錆びた画鋲で留められていた。
奥に進むと十字路に出た。左右は住居へ、正面はながい廊下がつづく。その廊下を更に進んでいくと、また新たな団地棟に接続した。おそらく平行にならんでいる団地を、渡り廊下として用途をなす棟で接続しているのだ。この一帯を上空から見下ろせば、片仮名の「エ」の形にみえるに違いない。
赤いワンピースの女は、その渡り廊下棟を突っ切って、対岸にある住居棟の階段をのぼっていく。カメラは気づかれないよう、絶妙な距離をとりながら、そのあとを尾けていく。
女はあがっていく。
カメラもついてく。
しばらくして、とん、とんと規則的にのぼっていく足音が不意に音色を変えた。フロアに入ったのだ。カメラは急いで階段をのぼるが、それを妨害するように、不意にパンッと乾いた音が鳴った。
それは遠くからひびいた、不気味な破裂音だった。
カメラは数秒止まり、我に返ったように階段をあがり、廊下をのぞくと、すでに赤い服の女は廊下の端におり、棟の端にある外階段をのぼっていた。
彼女に気づかれないように、カメラは視点をさげ、入居者をよそおう。そして外階段にたどりついて、ふたたび持ち上がった動画の画角には、周囲の風景が映し出された。閑静な住宅街で、とおく道路をひた走る多くの車が家路を目指している。南にみえるのは油山だろうか。街のあかりが段々と乏しくなって、微かに藍色をのこした山稜が見通せた。
福岡タワーや脊振の遠望には遠く及ばないが、これも美しいと呼べる夜の風景だろう。
藍色の世界に、瞬く地上の星々。
そこへ、すうっと黒と赤の領巾が流れ落ちた。
途端、どんと物凄まじい音が轟いて、画角がぶれる。薄汚れた階段が映るなか、撮影者と思われる男性の動揺の声が聞こえる。そして自らの目に映った光景を記録に残そうと、カメラを持ち上げ、下を覗かせる。
そこには暗い道に、小さな蝶々のような物体がへばりついている。それは赤と黒の模様をそなえて、頭であろうところから、とろりと液体が広がっていた。
「やばい、やばい、やばい、やばいッ──」
若い男性の声だ。
勢いよく駆け降りて、外階段の出口にある砂場の乾いた砂を蹴散らしながら、墜落した死体を映そうとした。
「あれ? え、いや、うそだろ」
カメラは幅のある敷地の道路と、向かいにあるアパートを映す。
夜のくらがりのなか、道路は全く平穏そのものだった。
そこにあるはずだった死体は忽然と消えていた。
「もしかしてここって、あの『自殺団地』ですか」
タブレットから顔をあげると、わたしは彼にたずねた。
この公営団地は地元では有名な自殺スポットだった。この団地は階層が高く、誰でも侵入できることもあって、自殺を企図する者が、高層階から中庭に飛び降りることで有名だった。
一説によると、年に三、四人が飛び込むと言われており、いまも希死念慮に取り憑かれた人々が、幽霊のように集まるという。
しかし、今回にかぎり、幽霊のように、という修飾はいらない。
なぜなら、幽霊そのものが墜ちたのだ。
「この動画が撮影された日、当該団地で飛び降り自殺があった報告はない。警察署に問い合わせて言質も取っている」
わたしの脳裡には、いまだ女性の惨たらしい遺体が在り在りと浮かんでいた。しかしながら、彼女は階段を下りているあいだに跡形もなく消えてしまった。幽霊であるから当然と言えば、当然なのだが。
「作り物である可能性は?」
「ない、とは言い切れない。だが途中、乾いた音がしただろう?」
「赤い服の女が住居棟の廊下を歩いていたときですね」
「実はあの時刻に、団地から西に一キロ離れた箇所で、発砲事件があった」
「あ、まさか」
わたしにも覚えがあった。南区で元暴力団組員が、腹いせに起こした事件で、飲食店の店員と口論となった被疑者が、一旦、自宅アパートに引き返し、隠し持っていた拳銃をもって再来店、恫喝のために天井に銃弾をはなったという珍騒動だ。これによる死傷者はなかったが、ネットでは『流石福岡、修羅の街』と揶揄されていたのを覚えている。
「その発砲事件は五月二十九日午後六時三十二分、この岩藤団地から五百メートル離れた飲食店で起きた。その一週間前の五月二十二日の午前三時四分、同団地から百メートル圏内にある道路で、ひとりの女性が脇見運転をしていた車に轢かれて重傷、搬送された病院で死亡した。被害者は、当時南武大学の商学部三年生だった桂木佳奈、二十一歳」
「桂木? もしかして」
「そう。桂木由佳さんのお姉さんだ」
まさか、と思う。
唖然とするわたしに、彼はつづける。
「そしてこの動画を送ってくれたのは、桂木由佳さんなんだ。彼女から『オカルト・ファクトチェッカー』への正式な依頼として動画の真偽を解明してほしいと」
「じゃあ、もしかして、わたしのバイトって」
「そう。君にはこの『幽霊が自殺する動画』にダイブしてもらいたい」
五
全く以てどういう流れだろうか。
数時間前まで、大教室の隅で配信動画を漁って時間を潰している女学生だったはずが、今や幽霊が映っている動画の世界にもぐって、幽霊の自死を調査することになったのである。
「先入観を与えたくないから、阿網チャンに頼むことはひとつに絞る。君はこの動画の世界にダイブして、自殺する桂木佳奈に同行して欲しい」
「幽霊のとなりを歩けってことですか」
「そ、たったそれだけ。簡単でしょ」
乾いた笑いが漏れた。今から夜の心霊トンネルを一往復してきてね。簡単でしょ? と言われたようなものである。
随分と渋った。けれど最終的には頷いた。
理由のひとつに彼が一ダイブにつき、二万円の調査報酬を払ってくれるといい、前金としてすでに一万円がわたしの財布に収まっているからだ。
残念ながらこの世に、ヘッドホンをかぶりながら業務できるアルバイトはなく、常に素寒貧だったということもある。ただ個人的にも、知り合った由佳のまわりで起きた怪奇現象について気になっていた。
(──だって、もしも正体が幽霊だったら、うれしいし)
視線を覚えた彼女が言った台詞。その幽霊が姉を指すのなら、死して自殺する姉を歓迎するような口振りは、どのような意図があったのだろう。
何か裏がある。わたしはそれが気になり始めていた。
「用意は?」
わたしはサムズアップする。ゆっくりと目を瞑って、手を握っては解いて、呼吸を深くしていく。
「──ダイブ、開始」
タイミング良く、諸星が動画を再生する。
小雨の音、かすかに吹く風、濡れた路面をはしる車の走行音。それらすべてが音の奔流となって耳元にすべりこんで、目蓋の裏に新たな世界を生成していく。
そして段々と、眼前の暗幕に光が差し込んで──。