轟と吼えるようにして、ひとりの男がやってくる。
手ぶらでよれたシャツ。灰色のスーツの上着を蒸し暑いとばかりに肩に掛けた四十がらみの男性は、やや退行しつつある頭髪を厚いポマードで後ろに撫でつけて、自転車の反射光のように額を光らせていた。ヤクザを彷彿とさせる風貌だが、敬礼する警察官の恐縮具合から見るに、ある程度の役職についた警察関係者のようだった。
「近衛さん」
諸星は溜息と一緒に彼の名を呼んだ。近衛と呼ばれた男は、運転席のルーフに叩くように片手をついて、首だけをグイッと運転席のほうに差し入れた。
「おうキサン、まだインチキYouTubeしとんのか? なんやアダルト工場動画やっけか?」
「オカルト・ファクトチェッカーですよ、近衛一馬警部補」
「おう莫迦、今年で晴れて警部に昇任じゃ。間違えんなや」
「失礼、近衛警部。県警のエースがこんな辺境に何か御用で」
「御用も御用じゃ。天下の往来で逆走しよってからに。おう、それになんやキサン。餓鬼連れ回しとんのか。こりゃあ余罪が腐るほどあるやろうなあ。一度、千代に連行せないかんか?」
「勘弁して下さいよ。僕達はただ廃駅の心霊現象を調べに来ただけですから」
「心霊現象?」
わたしたちは村部が投稿した動画について話した。
どうやら警察も動画については知り得ていたようで、近衛は再生された動画を数秒みると、「それか」と鼻で笑う。
「何が心霊現象だ。ただの奇行だろうが」
「ただの奇行って……」
余りに突き放した言葉に、わたしが声をもらすと、近衛の声に嘲りがまじる。
「おう嬢ちゃんには厳しかったか。そりゃ悪かったな。だがな、俺たちは市民の税金で働いとる。こんな下らないことで現場をうろつき廻られちゃ、迷惑なんだ。分かるかい、お嬢ちゃん」
これには向かっ腹が立った。
売り言葉に買い言葉とばかりに、わたしは飛びっきりの冷笑で返した。
「Xデーも知らないくせに」
「あ?」
と、途端に近衛の顔色が変わった。今の今まで侮りを隠さない軽薄な表情からすうっと余計な感情の贅肉が落ちていく。しまったと思うには遅すぎた。近衛の太い指が、大鷲の鉤爪のごとく窓枠に掛かり、ぎしりと音を立てた。
「おい、お前、何て言った?」
「Xデーですよ」
諸星が横合いから改めていう。窓枠から身体を差し入れんばかりに近づいてきた鬼の眼光が、諸星に移った。「ほう」と声がもれた。口角には笑みが刻まれる。皺がさらに深くなり恐ろしさが更に一層引き立つ。
「お前等、なんかネタ持っとるな?」
「違反切符、帳消しにして下さい」
「対価は」
「ウチの部下が掴んだ情報を共有します」
と、急にわたしを指さした。
鬼面の近衛がぐっと睨みつける。
「こいつの?」
「ええ」
諸星は微笑む。柔和な笑顔が逆に怖い。
「我が秘密兵器の」
六
全く妙な話になったものである。
晴れた陽気の昼下がり、額の突き出た鬼瓦と対峙している。
怒り肩に厳めしい下顎。少しでも気を抜けば、ヘッドホンの上から丸囓りされそうである。彼の隣にはもうひとり、若手の刑事がいるが、こちらは無表情で、感情が読み取れない。
まるで容疑者だ。
けれど、ここは取調室ではなく、ご当地バーガーと珈琲セットが香しい匂いを立てている紅葉山駅近くの喫茶店。ロッジ風の店内は郊外店特有の広さを有し、天井も高く、開放的で、他の客は窓辺や雑誌のラックが置かれた近くのテーブル席に集まっている。一方、我々は人の少ない喫煙席の更に隅っこの四人がけのテーブルに収まっていた。
わたしの隣には諸星がいる。彼は右手でバーガーを頬張りながら、左手で器用にメニュー表を覗いている。
「阿網チャン、ここ、烏賊煎餅が売っているよ。お土産にひとつ買っていこうじゃないか」
わたしは「はあ」と「へえ」を交ぜた、半端な無声音を漏らした。
向かいに座る近衛警部は、わたしを睨んだままだ。太く骨張った指でミニチュアのように小さな珈琲カップを持ち上げながら、ずずずと啜るあいだも尚、わたしから目を離さない。そしてぼそりと言う。
「にわかには信じがたい」
つい数分前まで、わたしはひとつのデモンストレーションを行っていた。
千里眼実験、と諸星が称したデモンストレーションは、店内で販売しているお菓子の箱に、近衛がトイレで所持品を入れて、テーブル席にもどり、それと同じ時刻、若手の刑事のスマホで店内を撮影しておき、わたしがその動画にダイブして、近衛がトイレで箱に入れたものを当てるというものだった。
「種も仕掛けもありません」
紙ナプキンで口を拭きながら、諸星がいう。「しかし十三回も試すのは往生際が悪い。我が事務所のエースにこのような手品の真似事をさせつづけるのも忍びないですし、本題に入りませんか?」
近衛は不承不承という風だった。
ダイブ能力を信じた訳ではあるまい。奇術めいた手段を使って、我々が何を主張するのかに興味を持った、というのが警部の心境に近いだろう。
「……それで、情報というのは何だ」
「村部武人さんの撮影した動画、ご存じですよね?」
わたしがそういうと、近衛は頷く。
「あの動画にダイブしたとき、彼は飛び込む直前にこう呟いたんです。あと五日、と。村部さんの動画タイトルから察するに、その五日後、つまり明日なんです」
途端、二人の顔に同時に戦慄が走り、若手の刑事は一瞬、近衛のほうに目配せしようとした。一方で、近衛はその衝動をぐっと抑えつけ、ふんと鼻を鳴らす。──それがどうした、驚きに値しない、そう振る舞おうとする。
全く奇妙だった。
二人は、疑う、という至極当然の反応を見せなかった。
わたしの能力を見せて、情報の信憑性を高めたとはいえ、彼等が一から十まで信じたとは言い難い。発言を鵜呑みにするにはまだ弱く、興味をもったり怪しんだりという反応を見せるものだろうに、彼等が情報に対してとった反応は、知っていることを勘づかれたくない、という防御反応だった。
(警察は、すでにXデーを、知っている?)
わたしですら察し得たのだから、諸星は掌に乗せたように分かっただろう。
彼は望外の収穫を言祝ぐように、両手を広げた。
「どうやらジャックポットのようだ。Xデーについて警察はご存じらしい。これは随分と愉快なことになってきたなあ」
「……馬場良雄」
「近衛さん!」
隣に居た刑事が驚く。
「どうせ、すぐに広報課がメディア向けに発表する情報だ。それに──」
近衛は諸星を睨んだ。
「こいつを野放しにするよりマシだ」
若手の刑事はまだ納得いかないようだった。立場が異なるがわたしも同じだ。
この二人の関係は何なのだろうか。到底親しい関係には見えない。腐れ縁というには近衛の態度は刺々しく、諸星はいつにも増して他人行儀だ。
それを掘り下げる暇も無く、話題は事故内容に触れていく。
「被害者の名前は馬場良雄。死因は頭部の脳挫傷。線路に頭を打ちつけたのが致命傷になった。跨線橋には大量の睡眠薬が混入した珈琲の紙コップが残されていたことから、睡眠薬で意識を朦朧とさせて、跨線橋の上から落下したとみて間違いない。死亡したのは昨晩の午後八時から九時のあいだだ」
「自殺の理由は?」
と、わたし。
「そんなもの人に寄りけりだろう。何か重大なものが引き金になることもあれば、積み重なった物事が一気に崩れることもある」
近衛はそう言いながら、指でテーブルを叩いた。果たして、更に餌を与えるべきか、否か。吟味しているようだった。彼の中で裁定が決まると、太い指はぴたりと止まる。
「だが、理由をひとつ挙げるなら息子だ」
「息子?」
「十年前に、馬場子規という一人息子を亡くしている」
「死因は?」
「自殺」
と、端的にいう。「当時、馬場子規は保線作業員として働いていた。だが徒歩巡回中、列車に飛び込んで自殺した。その路線というのが福肥線の区画。ちょうど紅葉山駅ともうひとつの駅を結んだ区画だ」
警察の筋書きが大凡読み取れた。
馬場は息子の自殺について長年悩んでおり、自殺現場から程近い廃駅で奇行を繰り返すまでになっていた。そして遂に馬場は大量の睡眠薬を服用し、恐怖心を抑え込んだ上で、廃駅の跨線橋から飛び降りたというものだ。
また、彼等の筋読みを裏付ける傍証もあった。
「なるほど、命日か」
先程から会話に入らず、スマホを弄っていた諸星が、スマートフォンの画面を見えるようにおく。そこには地方紙の電子版アーカイブが表示されていた。見出しは『作業員の自殺』という淡泊なもので、馬場子規という男性が福肥線の線路で車両に追突されて死亡したという事故記事だった。
そして事故の発生日時は六月十九日。
つまり明日が、彼の十回目の命日だった。
近衛は舌打ちをひとつすると、警察の見解を教えてくれた。
「馬場は息子の命日に自殺をすると決めていた。それが一日早まっただけだ。命を絶とうとする人間が、予定を一日二日早めたとして、なんらおかしくない」
近衛の言い分は尤もに聞こえる。だが言葉の端々に感じる棘は、余計な詮索を厭う。まだ何かある。だが、近衛から引き出す術は思いつかない。
「他に動画はありませんか? あるなら、わたしがダイブ──」
「あったとして」
ギョロリと近衛の目が向けられる。「これ以上、見せると思うか?」
うっと息が詰まる。しかし、ここで押し負ければ、彼等はこの事件を閉じてしまいかねない。何もなかったかのように──。
あの時のように。
詰まった息を呑み込んで、わたしはさらに食い下がった。
「ですが、被害者が撮影した動画なら、なにか分かるかも。それに絶対に馬場良雄さんのXデーが息子の命日とは限らないじゃないですか。彼が日数を数えていたのなら、持っていた革の手帳に、他の手掛かりが──」
「あ?」
ドスの利いた声が、わたしの声を阻んだ。
言い返そうとしたが、下顎の震えがそれを拒んだ。刑事に異議を申し立てる行為は、清水の舞台から飛び降りるような勇気を要する。
それをもう一回、近衛に振るう胆力はない。萎れる草木の如く、しなしなと席に縮こまっていく。そもそも警察に意見するという行為自体、恐ろしいものだ。もういち早く家に帰って、自罰的な妄念と毛布に包まり、鬱々とした時間を過ごしたい──そう落ち込んでいたわたしに、しかし、近衛は思わぬ反応を示した。
「おい、チビ」
「ひい」
「ひいじゃない。チビ、おまえ、いま何と言った?」
「あの、その、ごめんなさ──」
「革の手帳って言ったか?」
うん? 何やら雲行きが妙な方向に移りつつある。大雨を避けて土にもぐった土竜こと阿網華も、これには地表に顔をだすというものだ。
「ええ、持っていましたよね。小さなサイズの革張りの手帳。滅茶苦茶切り抜きが挟まった奴を、胸ポケットに入れて……」
すると諸星と刑事たちは顔を見合わせ、もう一度、わたしを見直した。
「阿網チャン。それは僕も聞いていないぜ」
「あ、その、重要なことじゃないと思って」
「阿網チャン、その手帳に挟まっていた切り抜きは、どんなのだった?」
「えっと、新聞とか雑誌の切り抜きが多かったです」
「なるほど、なるほどねえ」
諸星は愉快そうに目の前の二人の刑事に視線をむけた。
彼等もまた、諸星の瞳から何かを探ろうと視線を交わす。
喫茶店の隅っこのテーブル席には見えない火花があがる。
「阿網チャン、やっぱりXデーは馬場子規くんの命日だよ。だけれど、只の命日ではなかった。三回忌でも七回忌でも意味が無い。父親の馬場良雄にとって、この十回目の命日こそが、彼にとってのラスト・リミットだったんだ」
「ラスト・リミット?」
「公訴時効」
諸星は目の前の刑事に叩きつけるようにいう。
「馬場良雄は息子の自殺を疑っていたんですね? ——本当は事故だったんじゃないかって」