「さて、と」
動画の世界に降り立つと、隣に男性がいた。カメラを構えている彼は、諸星によると、桂木佳奈の知人で、彼は岩藤団地のとなりのアパートに住んでいる先輩の家から帰る途中、不気味な女性の姿に、自殺団地と異名高い場所もあって、幽霊かもしれないと、撮影を開始したという。
「え、このひと」
動画に映っていなかったため、彼もまた、のっぺらぼうだろうと思っていた。
しかし映っていたのは、『めちゃこわビビり』のカメラマン、雉丘だった。
彼は小雨を厭わず、団地にカメラを向けている。その表情は動揺と、どこか、不気味な興奮に彩られていた。或いは、念願の心霊を撮っていることで昂揚しているのかもしれない。
その視線の先で、死んだ筈の桂木佳奈は立っている。
明滅する電灯の下で、赤いワンピースが警告灯のように浮かび上がる。
事故当時、白いワイシャツ姿だったという。今とは異なる服装だが、まるで事故で服が血を吸って、赤く染まっているように思えた。
(……彼女と一緒にあるく)
わたしは雉丘に先んじて道路を横断した。彼女との距離が詰まると、果たして顔をみるべきか悩んだ。覗き込むのは抵抗がある。納棺された死体の顔を覗く感覚に近い。あまりにも不謹慎で、ぎょろりと見返されるのではないか、という恐怖もぬぐいされない。
どうしようかと悩んでいると、佳奈が歩き始めた。
わたしはほっと息をついて、うしろを尾いていく。エントランスは広く、多くの郵便受箱が設置され、錆びた地金がにぶく光っている。画鋲で留められた掲示物を一瞥すると、ほとんどがAIで生成した文字のように歪んで、動画内で映っていたものだけが、はっきりと文字をなす。
──可燃物収集の時刻の変更について
──近隣地区で目撃された不審者の服装
──大名高等学校の体育祭における騒音のご理解
浮き上がってくる鮮明な文字に興味を奪われて、ふと我に返れば、桂木佳奈はずんずんと進んでいた。
慌てて彼女を追って、渡り廊下に入る。
廊下の窓から中庭を覗いてみるが、これといってなにもない砂利の敷き詰められた窪地だった。
そんな侘しい空間に、時折、小さな矩形のコンクリートがある。おそらく遊具の基礎だろう。奥をみると棟の端に、雲梯や滑り台などが、押し込められたように設営されている。察するに、中庭にあったものが、時折降ってくる『大きな落下物』のために破損するので、ある時期を境に、奥に移動させたのだろう。
そして今夜、新たに降る落下物は、不可思議なことに、瞬く間に消えて無くなるのだ。
階段をのぼっていく佳奈から数歩はなれて歩く。彼女は果たして何を想って、死しても尚、自殺をするのか。自殺をしなければならない妄念が、彼女にあったのだろうか。
九階まであがると、彼女は廊下を右に曲がった。
そこから外階段まで南に直進する。
古い建物は明かりも乏しく、廊下に斑な陰翳をつくり、赤いワンピースが深紅にかげったり、鮮血のように光ったりする。そんな風にぼうっと死者の背中を追っていると、ふいに、パンと、乾いた音が鳴った。
(銃声だ……)
午後六時三十二分、ここから西に一キロ離れた飲食店で、元暴力団組員が、発砲したのだ。
わん──と、団地内に木霊する。わたしは音の跳弾を追うように、そこかしこに視線を巡らせた。そして、しんと静まったあと、あらためて佳奈の背中を追おうとした瞬間、「ひっ」と声をあげた。
のっぺらぼうが、わたしを視ていた。
それは無論、佳奈だろう。事前に視聴した動画内では、遠目からしか映らず、また背中ばかり見えていただけに、彼女の長い髪から垣間見られる顔は、混沌として渦を巻いているような異常な面貌だった。
(でも、銃声は──)
そう、銃声は西から轟いたはず。つまり今、彼女の進行方向の左側で鳴った筈である。しかし彼女は北側にいるわたしのほうをじっと凝視しているのだ。
(……有り得ない)
この世界は、過去に撮影された動画を脳内で描画した、いわば、わたしの妄想世界だ。だから空想の人物が、意に反してわたしを認識する筈がない。
(……いや、そうだろうか?)
そもそも幽霊が投身自殺を図るというのだから、前提自体、奇々怪々なのだ。
相手は理外の存在だ。持ち合わせの常識では計れない存在なのだ。もしかすると幽霊ゆえに、ひとの思念、わたしが描き出した空想の世界まで浸食し、わたしという窃視者を睨んでいるのかもしれない。さながら夢に現れるように。
有り得ない、という台詞は出涸らしだった。
もう一歩、彼女がこちらに踏み出したら、絶叫とともに、この世界から逃げ出して、家の布団でガタガタと震えていただろう。だが、佳奈はふたたび外階段のほうに向かって歩き出した。
さっきまでの距離で歩くのは、流石のわたしも無理だった。
十メートルはたっぷり離れて、動向を観察しなければ耐えられなかった。
それから彼女は廊下の端まで辿りつき、外階段を登っていく。
いまから彼女が飛び降りる。
ジャンプスケアに身構えるように、この佳奈という幽霊がいつ飛び降りるのだろうという恐怖に、身体をすくめて階段をのぼっていた。
すると、唐突に、目がくらんだ。
階段を踏み外し、咄嗟に壁にもたれ掛かった。
(……今のは?)
不審におもって、身体を起こそうとしたその瞬間、さっと空が陰って、人影が外に飛び出した。
そしてやはり、彼女は落ちていく。
長い髪は広がり、落下にともなって顔にまとわりついて、まっすぐに地上に墜落していく。途中、ひっと息を呑んだのは、カメラマンの声だろう。
どたどたと階段をおりていく音がする。
わたしも一緒に階段をおりて、遊具の置かれた砂場に飛び出した。カメラマンは動揺し、なぜ死体がないのか、慌てている様子だった。
わたしも又、幽霊が斃れていたはずの場所に立った。そこは血の一滴も付いていない、真っ新なアスファルトだった。
ただ不意に視線を感じた。覚えるはずのない視線だ。だが、その突き刺すような視線はたしかにあって、それを感じる方向にふりむくと、暗がりのなか、団地の敷地内にひとり、女性が立っていた。
佳奈だ。そう勘づいて悲鳴をあげそうになったが、その声は、新たな動揺とともに呑み込まれた。
(違う、あれは……)
其処に立っていたのは、由佳だった。
「ありがとう、阿網チャン。大変参考になったよ」
わたしはダイブ世界から戻ると、今まで観たことを諸星に語って聞かせた。
彼はわたしが話す全てを興味深そうに聞いて、それから満足そうに頷いた。
そして用が済んだとばかりに、その場から立ち去ろうとする。わたしには彼の腑に落ちたような態度が到底理解出来なかった。わたしが観た世界は、幽霊の自殺の真相を詳らかにするどころか、更に難解な問題を提起したはずだ。
それにも拘わらず、諸星の面貌は謎めいた問の急所を掴んだような、不敵な色が滲んでいるのだ。
「結局、この動画って、本当に幽霊が自殺した動画だったんでしょうか?」
そう不安げに訊ねたわたしにむかって、諸星は、からからと笑って、
「真逆。この動画はフェイクだよ」
と、言う。そして続けざまに、
「だからこそ厄介なんだ。なぜならあの動画には──」
裏があるからね。
彼はそう言い残すと、わたしを置き去りにするように、チャペルから立ち去っていった。
そして翌日、わたしは初めて『オカルト・ファクトチェッカー』を視聴した。最新動画のタイトルは『怪奇・I団地で起きた二度目の死の真相』。つい一時間前に更新されたものだった。
暗がりの部屋で語る諸星は、普段よりやや落ち着き払った口調で、件の動画を紹介し、多くのキャプションをつけて語ったあと、真贋判定というコーナーに移った。
画面には青銅の天秤が登場し、左にファクト、右にフィクションという珠が乗っている。
「それでは、この動画は果たして怖ろしい事実なのか、フィクションなのか!」
煽るBGMのあと、彼は言い放った。
「この動画は──ファクト! 正真正銘のオカルト動画です!」
六
「どういうことですか!」
「おお、誰かと思えば、阿網チャン」
諸星は顔に掛けていた雑誌をデスクの上に置いた。生あくびをひとつ、コップに手を伸ばす。飲み口の傾いだ奇妙なコップからかすかに珈琲の香りがした。
わたしは名刺をたよりに、西新駅から中洲川端駅まで乗ると、冷泉にある諸星のオフィスに向かった。名刺にはオフィスとして『福岡県福岡市博多区冷泉──』と記されていたにも拘わらず、ついてみれば、高層オフィスのあいだに建っている、立ち退きを拒否したような見窄らしい四階建てのアパートだった。そのうち、一階から三階まで、いかがわしい店舗が看板をおいて、最上階の四階の隅にある扉に『オカルト・ファクトチェッカー』と厚紙に手書きされた標札が貼り付けられていた。
ノックをひとつ、事務所の扉をあけると、そこは一般的な1LDKの間取りで、数珠の簾を払ったさきに、一基のオフィスデスクと、来客用のソファーが対面でおかれていた。
そして勢い込んでやってきたわたしの前で、彼はまた、くぴりと珈琲を飲む。
「残りの振り込みなら、翌月末だよ」
「そうではなくて!」
わたしはスマホを突きつけた。流れているのは彼の動画である。動画では『死んだ女性は隣のマンションをジッと睨んでいた』や『廊下をあるくたび、呪詛めいたことを唱えていた』などと有りもしない虚飾を入れている。
「あの動画は嘘だったんですよね。なのに何故、真実として垂れ流したんですか。由佳さんのことを考えて下さい。彼女はこれに映っている女性を佳奈さんだと思っている。それをまるで悪霊みたいに!」
すると諸星はからからと笑う。
「言い得て妙だね。たしかにあれは悪霊だ」
「そんな暢気な」
「いや確かに悪霊なんだよ。そして悪霊を使った呪詛こそ、あの『幽霊が自殺する動画』なんだ」
彼はそういうと、ソファーに座るように促した。おずおずと座ると、彼はキッチンの隅にある冷蔵庫から来客用の小さなペットボトルの緑茶をとりだして、わたしの前に置いた。
「さて、どこから話そうか」
彼はわたしの対面にすわると、ぼさぼさの頭を掻いた。
「まず、あの動画にはいくつか可怪しい点があった」
「可怪しい点?」
「銃声が鳴ったあと、あることが、全く起きていない」
「あること?」
「住民が騒いでないことさ。いいかい、もしも外で銃声が聞こえたとしよう。最初は誰だって驚く。そして何が起きたかと思って窓を覗くし、また外に出て、周囲をうかがう。野次馬根性は誰の心にもある。けれど、あの団地の住人は、ひとりとして興味を抱いた様子はなかった。それは阿網チャンのダイブ世界でもそうだったよね」
たしかにそうだ。
銃声のあと、マンション内から誰も出てくることはなかった。
「つぎに奇妙だったのは、落下後にかけよった砂場での場面。カメラマンは砂を蹴散らして進んでいた。あのときの砂場は乾いていたのに気づいたかな。あの夜、動画の冒頭では雨が降っていたというのに外階段を上っていたときは、遠くから綺麗に夜景がみえて、小雨は止んでいた。それどころか、砂場の砂は乾いていた」
「じゃ、じゃあ、あの動画は──」
「最後にもうひとつ」
と、諸星は人指し指を立てる。「決定的に可怪しいところがある」
「決定的に?」
「思い出して欲しい。あの団地は『自殺団地』と呼ばれる程、有名な自殺スポットだった。自殺者は高層階から中庭に飛び降りることで有名だった。だが桂木佳奈は中庭など一瞥もせず、わざわざ棟の端にある外階段をのぼって、そこから自殺している」
まるで東尋坊にやって来て、崖から飛び降りず、車道を走る車に向かって飛び込むようなものだ、と彼はいう。
「何かが決定的にズレていた。それが何によって為されたのか、推論はいくつもあったけれど、どれも憶測に過ぎなかった。それがようやく確証に到れたのは、阿網チャンが見つけてくれた、とある仕草だった」
「仕草?」
「桂木佳奈が廊下で振り返ったことさ」
諸星はそれが全てを解き明かす鍵だったという。
「言うまでもないが、彼女が振り返ったのは阿網チャンを睨んだからじゃない。彼女は至極真っ当に──銃声がした方角に振り返ったんだよ」
「え、でも、発砲事件はあの団地の西側からじゃ」
「そうだね。つまりあれは別の銃声なんだ」
「別の銃声? でも別の発砲事件なんて聞いたことないですけど」
「当然だ。あの銃声は撃ったところで罪に問われない銃だからね」
彼はそういって「よっこらしょういち」と腰をあげるとデスクの抽斗から一丁の拳銃を取り出した。ごとりと置かれたそれを覗くべく立ち上がると、わたしはあっと声をあげた。
「徒競走のときにつかう、あの」
「スターターピストルというらしいね。銃声は火薬の破裂音だ。口径の小さい銃なら、十分に音は似通っている」
「じゃあ、あのとき、誰かがそれを撃ったんですか?」
「そうなるね」
「でも、誰が?」
「そのヒントは、実を言うと、あの団地の掲示板にあった」
「掲示板? ……まさか高校の運動会?」
「Excellent! 将にそのとおりだ。あのとき、スターターピストルを打ったのは、高校関係者だった。そしてあの文面、よく見ると、面白いことが書かれていたんだ」
「面白いこと?」
「あの団地の近くにある高校は、近年の猛暑をふまえて、例年、夜に運動会を行っていたんだよ」
そんなまさか! そう叫び上げるのを、ぐっと抑えた。最近、同じような話を聞いた覚えがあったからだ。──そうだ、『めちゃこわビビり』の動画だ。あの動画内で犬塚という男は、近所の学校は夜に運動会を行うと言っていたではないか。
「住民たちは、毎年、この時期に行われる運動会を知っていた。だからこそ銃声に似た音が鳴っても驚かなかったわけだ。そして件の高校は、あの団地から二百メートル先、北側にある」
何故、佳奈が振り返ったのか。
それはわたしの存在に気づいた訳ではなかった。彼女は正確に、その発砲音の鳴った方に振り返ったのだ。わたしはそれを先入観と住居棟の反射とで聞き間違ったのである。
「じゃ、じゃあ、あの動画が本当に撮影された時期は」
「運動会が実施されたのは五月二十一日。桂木佳奈が亡くなる前日だね」
「だとすると、団地から飛び降りたのは別人?」
「当然そうなるね。そしてその疑問を解く鍵がふたつ目の問い。『なぜ砂場の砂が乾いていたのか』」
無論、これは諸星が明かさずとも分かる。
あの動画は、前後で別の動画が組み合わさっているのだ。
「じゃあ、動画は『桂木佳奈が自殺しようとした動画』のあとに、『まったく別の動画』に繋がれている?」
「そうだね。その編集点は、阿網チャンの目眩に襲われる時間帯とぴったり一致するはずだ。あの目眩は、いわば編集によって同じ場所の、別の時間の音に差し替わったことにあるんだろう」
「そうなると、あの飛び降りもフェイク?」
「服を似せたマネキンを投げ落とし、それをカメラに撮らせて、事前に下で待っていた人物が回収したと考えるのが、妥当だろうね」
「で、でも、そうなると──」
瞬間、わたしはその音を聞いた。
ギョッとしてわたしは振り返った。すると、玄関扉がぎっと開いて、ひとりの女性が現れた。した、した、とあるく跫音は亡霊そのもので、玉簾の奥からみえる垂れさがった髪と、その陰鬱な足取りは、あの団地で見た亡霊の姿だった。
「全部、お見通しなんですね」
そういって簾を払って現れたのは、桂木佳奈──ではなく妹の由佳だった。
初めて会ったときの陽気さなど微塵もなく、陰陰滅滅とした眼差しで、諸星とわたしを冷たく撫でる。
「阿網チャンがこんなにも早くやって来るとは思っていなかったけれど」
彼は由佳を目の前のソファーに招いた。
彼女はどちらに座るか迷った末、わたしのとなりに腰を下ろした。
「さあ最後の解明に入ろう。『なぜ外階段から身を投げたのか』──これは身を投げた桂木佳奈が木偶人形だから、疑問を再定義される。つまり『なぜ自殺動画を偽装した者は中庭からではなく、外階段から人形を投げ落としたのか?』」
「ひとに目撃されるから、とか?」
わたしは思いつきを口にする。
「目撃者なら、道路にも居てもおかしくない。それに回収班が居たなら、すぐに拾い上げて、逃げ去ることだって出来たはず。だから、そこじゃない。実際は、あの場所から人形を落とすことに意義があった」
「意義?」
「自殺は訴訟上、大まかに分かれて二つに分類されるのを知っているかい」
「自殺の、分類?」
「自殺は本来、心神喪失のうえで無気力になり、自己の生存を放棄する行為だ。ただ一方で心神喪失しながらも、自分の命を捨てて、相手を呪詛する自殺もある」
「相手を呪詛する、自殺?」
「見せしめのための自殺だよ。──あの自殺動画はね、阿網チャン。とある人物を糾弾するためにつくられたフェイクなんだよ」
あの場で自殺を偽装することが、加害者への糾弾となる、と諸星はいう。
しかし、誰に対する糾弾なのか。
わたしは自分の記憶をフル稼働して、あの落下地点に、誰が結びつくだろうかと考えた。するとひとりだけ、思い当たる節があった。
「……たしか、あの団地の近くに、カメラマンの雉丘の先輩が住んでいるアパートがある、とか」
「──犬塚賢治」
それまで黙りこくっていた由佳が、ぽつりと漏らした。
「姉は犬塚に暴行を受けていたの」
七
桂木由佳が姉の暴行被害を知ったのは、葬儀の後だった。
葬儀に参列した人のなかに今回の動画の前半部を撮影したカメラマンが居た。彼は由佳と目があうと酷く動揺した。しかし立ち去る訳でもなく、こちらを盗み見るように振る舞っているのをみて、何かあるな、と察するに至った。
「姉の死は疑いようもなく事故によるものだった。でも深夜にひとり、家から随分と離れた場所で見つかったことが、ずっと引っ掛かっていたの」
由佳は彼を捕まえると、問い詰めた。
すると、拍子抜けする程、彼はあっさり口を開いた。彼は姉とは共有の知人を介した他人であると、まるで責任を忌諱するような前置きをしたうえで、ひとつの動画を見せてきた。それは姉が赤いワンピース姿で、自殺団地と揶揄される団地に入って、外階段まで向かう動画だった。
動画内の彼女は外階段までたどりつくと、じっと向かいのアパートを睨んでいた。そして近づいたカメラマンに気づいて、そのまま一階に下りていった。
由佳は最初、何故姉がそんなところに居るのか、理解出来なかった。ただ、思い起こせば、数ヶ月前、サークルの飲み会があるといって出ていった姉が、深夜遅く帰ってきて、それから一日中、ずっと自室にこもっていたことがあった。
由佳はそれが自分の想像するものでないことを祈った。今想えば自分も卑怯だった。だが、ここに来て、睨みつけたアパートがサークルの先輩である犬塚のもので、尚且つ、葬儀に参列したサークルメンバーのなかに、犬塚だけがいなかったことを思い出し、理解した。もはや自分の祈りが虚しく終わり、あとに猛烈な怒りだけが残った。
「姉は一度、死ぬのを思いとどまった。でも、あの夜、姉はふたたび意を決したの。交通事故があった場所は、わたしたちが住んで居る実家と自殺団地を結ぶ、その途中にあったから」
しかし、自らの命をもって糾弾しようとした彼女は、全く想定外の事故によって最期を迎えてしまう。
「姉さんの思いを、遂げさせたかった」
だからこそ彼女は、未遂に終わった姉の自殺を完遂することにした。
動画の撮影や編集は、姉を撮影した雉丘にさせた。姉の自死を知って放置した彼を罪に問うことも出来たが、それよりももっとも貶めるべき人物がいた。
問題は犬塚が信じるか、否かだった。自分から犬塚に見せたとして、彼が信用するとは思えない。またカメラマン経由も怪しいだろう。もっと彼に信じこませる御墨付きが必要だった。
「犬塚は『オカルト・ファクトチェッカー』に対抗意識を持っていた。それ以上に、あの男は番組の熱心な視聴者でした。そのうえ森鳴ホテルの件で、段々と怪奇現象を信じつつあった。だから見せるのなら今しかないと思った。でもまさか──」
由佳は弱ったように笑いながら、諸星をみた。
「自信はあった。それに真偽の検証など碌にせず、ただ話題にしてくれるだけで良かった。それがまさか筒抜けとはね」
そしてチラリとわたしに目をやる。
「阿網さんも手伝ったんでしょう。まったく、とんだ名探偵たち」
彼女は立ち上がると、ショルダーバッグから封筒を取り出して、諸星の前に出した。茶封筒から紙幣の厚みがうかがえる。数十万ほど入っているのだろう。
そして彼女は深々と頭を下げた。
「動画を観ました。姉の遺志を反映して頂き、誠にありがとう御座います」
「犬塚くんは──」
諸星は封筒を見下ろしながら、彼女にきく。「怯えていたかい」
「それはもう」
顔を上げた由佳の表情は、喜悦に歪んでいた。あのとき、わたしの忘れ物を届けてくれたときの温かさはない。
「誤解して欲しくないのだけど、ぼくは君の復讐に加担する気はない。あの動画も数日の裡に取り下げるつもりだ。ただ、あの動画を観たことで、犬塚くんが自分の罪を顧みるかもしれない。その可能性に賭けてみたかった。それだけだよ」
諸星は封筒の中から一枚だけ抜き取ると、かわりに一枚の名刺を封筒の上において彼女に返した。
「これは?」
「知り合いの警察官だ。彼なら親身に話を聴いてくれるだろう。佳奈さんの暴行事件について何か知恵を貸してくれるかもしれない。相談するといい」
由佳は諸星をジッと見つめた。それは決して快い色を伴っていない。彼女はすくりと立ち上がると、何もいわずそのまま事務所から出ていった。
「これで良かったんでしょうか」
由佳が去った後、わたしは気が抜けたようにソファーに座っていた。
「阿網チャンは何か勘違いしているよ」
「勘違い?」
「ひとが死んでいるんだ。良い結末なんて、その時点でないんだよ。あるのは、どれだけ最悪な状況に落ち込まないか」
「最悪な状況?」
「たとえば、彼女が犬塚賢治を殺害するとか」
「だから、彼女を監視していたんですか?」
彼は答えなかった。
そして封筒から引き抜いた一万円を、わたしに寄越す。
「これは君の分だよ。とっておきな」
「諸星さんは──」
わたしは聞かずには居られなかった。「どうして『オカルト・ファクトチェッカー』を始めたんですか?」
諸星は一瞬、虚を衝かれたように目を瞠ったが、にやりとわらう。
「実は僕も、復讐のためだったりして」
彼はそれ以上、言わなかった。
わたしは空になったペットボトルをもって、事務所を辞去した。
一度、見納めとして振り返ったときに見えた彼は、背に当たる光を背負って、影のなかで笑っていた。
*
扉が閉まり、少女は居なくなる。
諸星大輔は一息ついて、痩せ我慢した数十万円を思い返して苦笑する。
ぽりぽりと頭を掻くと、事務所の椅子にもたれ掛かる。
「タダ働き……でもないかな」
彼はデスクの抽斗をあけると、一枚のファイルを取り出した。中身の見えない青いファイルには一枚の写真だけが入っている。それを取り出して、うす暗い事務所の窓明かりに照らす。
それは望遠レンズで隠し撮りされた一枚の写真だった。
「ようやく、か」
其処に映っていた陰鬱な高校生は、まごうことなく阿網華だった。