「家という形が崩れてるっていうのかな。誰もが家にいながら、そこに居心地の悪さを感じている。安らぎがなくて常に細かな緊張を強いられる。そんな風に思えたんです。感覚的な話ですから、これといって物証をお出しできるものじゃないのですが。言うならば、あの家にいると、いやに知っている質感を感じて」
「こう言ってはなんだが」
近衛は髭を掻いたようだった。
「それにしては真っ当に育ったな」
「わたしには彼女がいましたから」
「彼女?」
「今でいうメンターのような人です。彼女によって救われた。彼女は耳が聞こえなかったけれど、わたしの叫びはすべて彼女に聞いてもらった。だから、わたしも……」
ふん、と呼気が聞こえた。肺腑に溜まった熱量を、鼻の孔から噴き出すような大きな鼻息だった。
「ご立派な考えだ。だからといって、こんな案件にまで足を突っ込むのは、お行儀がよくないな。ましてや彼奴の元で働くなんてな」
「そういえば、ずうっと説明してもらっていないんですが、なんで諸星さんを監視しているんですか」
「捜査に関する情報は口外できない決まりだ」
「いま、こうして過去の事件については教えてくれるのに?」
「少なくとも新聞で調べればわかる。それにこいつはお宮入りだ」
それは言外に、諸星さんに纏わる事件は、現行で捜査している事件だということですか──と、喉まで出かかった。それをぐいっと飲み込む。理性的な判断力がついてきた証拠だ。帰りにお祝いでもしようかしら。
「まあ、彼奴には気を付けろってことだ。お嬢ちゃんが思っているより、あの男は冷淡だぞ」
「…………」
何とも返答しがたい。彼の一言は、わたしが諸星に抱いている疑念の縁をそっと指でなぞるようだった。彼は優しく、陽気にふるまう。だけれど、それは事前に用意されたもので素直に生じたものとは思えないことが多々あった。
「じゃあ、もういいな。切るぞ」
近衛も暇ではない。刑事といえども公務員。捜査よりも事務仕事のほうが圧倒的に多いと聞いたことがある。そのうえ警部であり、管理職として立ち回ることも多いのだ。
ここが引き際だろう。
ただ、もう一点だけ、訊きたいことがあった。
「最後にひとつだけ。日下恵子さんは、その……よく嘘をついていたと聞きましたが、調書にその内容が書かれていませんでしたか?」
「日下恵子の虚言?」
わたしは電話越しに肯いた。
愛着障害であると揶揄され、虚言癖と囁かれた恵子。その立場があまりにも自分と重なることが、ずっと心に残っていた。だからこそ、彼女の虚言のなかに、あの動画の本当の意図を明かす鍵があるのではないか、そう思ったからこその質問だった。
「日下恵子の虚言かぁ」
「ありませんか?」
「いや、ありはするんだが」
近衛には珍しく言いよどむ。
「別に『オカルト・ファクトチェッカー』の動画にするわけじゃないんです。ただ彼女の生い立ちを思うと」
「あ、いや、分かってる分かってる。ただ、まあ、これは明かすようなものでもない。そもそも既出とはいえ情報を教えること自体、よろしくない」
今更何を、と喉まで出かかった。
近衛もそう思ったのだろう。頭を掻いたあと、声をやや抑えて、ひとつだけ、彼女が述べていた虚言を教えてくれた。
「彼女は度々仄めかしていたらしい。とある虐待を」
七
のちに雉丘から事務所宛にメールが届いた。
諸星がわたしに転送してくれた本文はこのようなものだった。
先日は『死せる家』の動画の調査、ありがとうございました。
初めてみたときは、何とも不気味な動画で恐怖を覚えていましたが、今となっては叔父に残された縁なのだと思い、大事に保管しております。
また一応、型通りですが、叔父にも調査内容について伝えました。アルツハイマー型認知症の症状が深刻なため、話の内容の一割も理解できたかどうか定かではありませんが、話の途中、木鷽の話になると、矢庭に興奮して「木鷽、木鷽」と口にし出しました。
あまりにも頻繁に口にするので、施設の職員さんが大宰府の民芸品店で購入したものを渡したそうなのですが、ひったくるように奪ったあと裏返して「ちがう。これじゃない」と怒鳴ったようです。おそらく叔父は木鷽が欲しかったのではなく、作りたかったのかもしれません。というのも、叔父は貴土神社の宮司として、昔は自ら木鷽を作っていたそうなのです。
さすがに刃物を渡すのは躊躇われますが、認知療法の一環として、木彫りをさせてみるのもいいかもしれません。
それでは長くなりましたが、依頼を受けてくださり、まことにありがとうございました。阿網華さんにもよろしくお伝えください。
雉丘光一
転送されたメールには、諸星からの一文も添えられていた。
阿網チャンへ。
多分、阿網チャンも不完全燃焼だと思う。
もしも憶測でいいのなら、暇なときに事務所に聞きに来てくれたまえ。ひとつ、恐ろしい仮説を話そう。
八
さてまずは話を整理しよう。
今回の動画は雉丘光一によって持ち込まれた。タイトルは『死せる家』。そこに映っていたのは雉丘光一の従姉弟、日下恵子と日下剛志。彼らはなぜか自分たちの家を撮影していた。そしてさらに不可解なことに、その撮影の様子を、玄関戸ごしに神職が聞き耳を立てていた。僕は阿網チャンが動画から拾ってきたこれらの情報を手掛かりに、いくつかの推測を立ててみたが、それは依頼人のふたつの新情報によって、粉々に打ち砕かれることになる。
ひとつは日下家の父、日下光良が貴土神社の宮司であったこと。
そして、日下家の母、日下和江が何者かによって殺害されていたこと、だ。
負け惜しみをいうようだが、依頼人に聞かせた推測を真実と断定するつもりはなかった。ひととおりの解釈を提示して、依頼人から新たな手掛かりを引き出すつもりだったんだが、まさか、こんなことになろうとは……。
阿網チャンも気づいていたか。──うん、そう。動画の撮影日は二〇〇五年一月七日と見ていい。七草粥が決め手だった。つまり動画が撮影されたのは、うそ替えのあった夕方だ。そして日下光良氏が宮司を務めているならば、彼が自宅の解体清祓を執り行うのが妥当であり、だとすると、やっぱり彼は神社で神事を行うその夕方、解体清祓をしたとは考えにくい。
その一方で日下光良が玄関に立っていたのは確かだ。玄関前に立っていた人物の服装は長い烏帽子に狩衣すがた。宮司が神事を行う際に着る装束だから、まさに天満宮で今し方、追儺祭を終えたのだろう。他の第三者の可能性も考えたが、祭事の際に、動きにくい装束を着て、神職の格好で町を歩き回れば、明らかに人目に付く。不審者というのはあの時代でも通報されるものだよ。
では彼はなぜ家に戻ったのか。おそらくそれは境内から居なくなった恵子を探しに戻った可能性が高い。というのも阿網チャン、彼女の服装をおぼえているかい? 長い髪をうしろでひとむすびにして、ロングボアコートの丈にも負けないほど長い赤いロングスカート。そう、それほど長い赤いスカートにひとむすびのポニーテール。そして父親は宮司だ。連想されるものはひとつしかない。あのスカートは袴であり、彼女は巫女だった。
日下光良は、追儺祭のあと境内から消えた娘に気づいて、家にはせもどった。
彼はとある理由で、娘が家にもどると予想していたのだろう。そして彼は案の定、庭の生け垣からのぞいて、娘が庭で息子に何か指示しているのを盗み見た。だから彼は一度、玄関のほうにむかうと、何をしているか、耳をそばだてた。
そして息子が語った内容は、八ミリテープからDVDにダビングされる際にカットされている。つまりダビングした人間にとって他人の耳に入れたくなかったと予想できる。
では秘密にしたかった内容とは何だったのか? それを示す間接的な手掛かりは二つある。
ひとつはカメラの少年が持っていた木鷽だ。彼はその日、うそ替えが行われる時間に、木鷽を回収していた。彼にとってその木鷽が重要なファクターであることは十分にわかる。
もうひとつは、おそらくあの家には古い八ミリテープとは異なる、おそらくDVDのビデオカメラが…………、流石、阿網チャン。気づいていたんだね。うん、僕もそう思う。つまりここで問題になるのは、剛志少年が、なぜ最先端のビデオカメラを使用せず、古い八ミリテープのカメラを使ったのか、ということだ。
この二つの事実が僕を悩ませた。だけどすぐにこの二つこそが事件の鍵であることに気づいた。いうなれば、このふたつの事実は割符のようにひとつにすることで新たな真実が生まれる、そういうものだったんだよ。
そう、どちらにも必然がある。
日下剛志少年は、古いビデオカメラで撮影しなければ駄目だった。あの木鷽でなければ、彼らの思惑と一致しなかった。
そう。彼らは一月七日、うそ替えの神事がある夕方、家の動画を撮影したあと、その八ミリのカセットテープを取り出して、木鷽に詰めた。あの木鷽は指人形のように底部に十センチほどの空洞が空いている。彼等はそこにテープを詰めると、うそ替えの神事にまざり、木鷽を交換して、動画の内容を外部に伝えようとしていたんだ。
そしてその動画は父親の光良にとって深いトラウマになっていたんだと思う。憶えているかい? アルツハイマー型の認知症になった今の光良が雉丘氏から木鷽をわたされて、わざわざ裏返したあと「これじゃない」と訴えたのを。
彼は雉丘氏が言うように木鷽を彫りたい訳でも郷愁に駆られた訳でもなかった。貴土神社で最後のうそ替えがあったあの夜、木鷽の穴に詰められたテープをどうしても回収しなければならない理由があって、それを探しあぐねた苦い経験が、記憶のかすみゆく脳であっても忘れることの出来ないトラウマとして刻まれていたんだろう。
うん。そうだね。
結局、最初の問題はまだ解けていない。
日下姉弟は動画を撮り、木鷽にテープを隠し入れて、誰かに渡そうとしていた。なぜそんなことをしたのか。そして結局、彼らの動画は何を伝えていたのか。
おそらくそれは、とある告発だったんだよ。
殺された日下和江に対する、ね。
九
「僕が最初、あの動画を観たときに感じた第一印象は、まるで実況見分みたいだな、というものだった。動画のメインは常に静物で、ひとが映ることはない。カメラは場所をとらえることに夢中だったからね。そして日下和江が殺されたと聞き、当時の事件記事を読み漁り、彼女が二階の書斎で殴られ、そして一階の浴槽に逃げこんだと聞き及んで、僕はこう思った」
諸星は椅子に深くもたれた。
「ああ、まるでこれは、実況見分のようだ、と。家が取り壊される前に、事件の犯人を知っている子供たちが、事件の証拠が消えないように、撮影しておこうとしたのだと。そして次にこう思った。いや、それは絶対にありえないな、と」
「ありえない、ですか?」
わたしは眉をひそめる。
「うん。もしも、あの動画が、事件の実況見分だとすれば、スタート地点がおかしい。状況を記録するのなら、犯人である人物が動き始めた地点、あるいは被害者が暴行をうけた場所から始めるべきだろう。にもかかわらず、動画は子供部屋から始まった。それが引っかかった。だからこう思い直したんだ。これが事件の実況見分であるならば、この始まりは子供部屋にいた人物の視点だろう、と」
わたしは応接テーブルの上に置かれた珈琲に口を付けた。
苦みを口内につめて、ふたたび聞く態勢にもどる。
「子供部屋から始まったと考えるなら、人物はふたりだ。そのうち、姉の恵子は部活に参加していたことがわかっている。そして僕らは、あの日、剛志が何をしていたのか、まったく知らない。彼の年齢を考えると、十分、家にいても変じゃない。自分の部屋にいても、なんらおかしくない。つまり事件があったとき、剛志少年は家にいた。そして何かに呼ばれるように二階の書斎、和江の部屋にいった」
頭によぎるのは、そのときの剛志の表情だ。
痛みに怯えるようにも、不快感を想起するようにも見えた表情。
そして彼は書斎にゆく。そのあと彼は床に寝そべった。
(──彼女は度々仄めかしていたらしい。とある虐待を)
近衛が言った台詞を思い出していた。
警部は電話口で、口重そうに言った。
「母親が、弟を性的に虐待している」
と。
恵子は町の人に助けを求めて、そして虚言と否定された。
だからこそ、町の人間に助けを求めず、うそ替えの神事にやってくる村外の人間に動画が手渡されるように、テープを詰めた木鷽を神事にかこつけて渡すという回りくどい方法を採ったのだ。
「阿網チャン、おそらくあの動画は、日下和江が行っていた虐待の告発だったんだよ」
「でも、それなら」
わたしは反駁を試みた。彼の推理に異議があったのではない。
あまりにも救いようのない事実に抗いたかったのだ。
「死んだ母親の罪を、そして自分の苦痛を、わざわざ明かすような真似をしたのでしょうか。押し込み強盗に殺害されたというのは、母親に対する罰だとして溜飲が下がる。それに暴行をうけた人物が、しかも子供が、死んだ母親の尊厳を汚すために、動画を撮って、他人に託すとは思えない」
「それだけじゃなかったのなら?」
「え?」
「いいかい? あの動画は母親の罪に関する告発だった。だけどそれだけじゃない。動画はそのあとも続いている」
そうなのだ。動画はあれから洗面所にむかい、そして部屋をうろついて、和室にむかった。その道筋が示す、もうひとつの告発。
「あの動画は、母親を殺したという罪の告白だったんじゃないかな」
虐待をしていた母親を、殺してしまったことへの後悔。
少年は動画を撮影し、そのとき、何が起こったのか、すべてを語った。
そして見知らぬ人に託し、それを明かしてほしかった。
或いは、自分の偽証を、神様の名のもとに誠の真相に替えて、外に解き放ちたかったのかもしれない。
彼はそのために、うそ替えの神事に臨むつもりだった。
だが唯一の失敗は、その真相を、玄関戸のむこうで父親が聞いていたこと。
おそらくそのあと、日下光良はその場を離れて、子供たちがどの人物に木鷽を渡すのか、見ていたのだろう。
そのとき、彼は何を思っただろうか。自分の妻の恐るべき虐待の真相を知って、血が凍り、怒りと寒気を覚えただろうか。
もしくは、抱えきれない事実に、ただもみ消すことだけを求めて、篝火が燃える新年の夜を、死に物狂いで駆け回り、罪の木鷽を探し求めたのだろうか。
目まぐるしい感情の錯乱のなかで、彼は駆けずり回ったからこそ脳が記憶を失っていく中で、それでも尚、古傷のように決して失うことなく、病のなかでも焼き付いていた。
「最終的に、動画は日下光良の手元に来た。だから自分の家族の秘密は世に明かされることなく、今の今まで日の目を見ることはなかった。彼は息子の自白の部分だけ切り取って、ただ動画として残した」
死せる家、と題された動画。
崩壊した家族の、最後の記録。
彼は何を想い、祭りの夜に奔走し、その動画をダビングし、そして題をつけたのだろう。
わたしには分からない。
答えは日下光良だけが知っている。
だが、その答えも又、記憶の病によって早々に失われていく。まるですべてを知っている脳髄が、沈黙することを選んだかのように。